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【日記】もう腹は蹴られていない 2022.7.20

やっぱり日記を書きながら食べる朝食はパンとティーに限るねぇ。

どわはは。

「パン」と「ティー」ですよ。パンと、ティー。

パンティー。


僕は小学生の頃、これで二年間は笑ってました。

100日目なんだからもうちょっとまともなことを書こう。

今日の品田氏の日記でカステラ風蒸しパンケーキが話題になっていたが、僕もこれに類するパンが好き。一番おいしい。この手のパンはなぜかラップみたいなので包装されている。なんでなんだろう。


今日はもにょもにょしたことを人に相談という体で言うだけ言って、終わってしまった。なんの進展もないので悶々としている。

日記の振り返り記事を書いたのだが、それを書いている途中でかなり気分が悪くなった。それでも日記を続けていきますよ、というオチにしようと思っていたのだが、これ以上日記を書くのが結構嫌になってしまった。続きは別の記事で。


ジョジョ3部のアニメをシーズン2のエピソード10まで観た。どんどん観てしまう。すごい。セトが嫌なキャラだった。

なかなか動けない状態が続いているのだが、ゆっくりでも動こう。記事ももっと書こう。いや、書きたくない。書きたくね~。自尊心がないから何書いてもしょうがないじゃんって思っちゃってる。それが誤った認識であることはわかっているのに、納得できないでいる。才能を要求される道に踏み込むのが怖い。既に片足は突っ込んではいるのだが、両足を入れてしまうのはちょっと恐ろしい。否定されるのが怖い。怖すぎ。

日記にどの程度自分の心を出力するのか。

フィルター薄めにすると暗い文章になって読み手をイライラさせてしまう。う~ん。明るく悩むか。でも明るいと浅はかにも見えるんだよな。

自分のツイートを引用するが、これは僕の常々思うことだ。
暗部の存在を認めた上で建設的でポジティブな能動性を肯定しないことには自分や他者を納得させることが出来ない。「それでもやる」という段階を踏まないことにはその明るい様に、オタクは軽薄さを感じ取ってしまう。


僕は現実にいる陽キャ的な人々を無意識的に馬鹿にしてしまっているのかもしれない。
暗い精神性を持っているということはそうでない人々よりも問題を直視しているのだ、みたいな錯覚を抱えている。実際には明るい人たちだって悩みというものを持っているし、思慮深かったりする。明るい人たちを表層的に見て、彼らを愚かだと認定することによって心的なマウンティングをとっている。

明るくて愚かな人、というのは間違いなく居る。
けれども同じくらいの数の暗くて愚かな人も存在する。

愚かな人間というのは、居る。ただそれだけのことでしかない。

僕の課題は、愚かな人たちというものに目くじらを立てないことだ。

みんな正しいとか、みんな悪い人たちじゃないとか、そういうことは言わない。できれば言いたかったけど、言えない。なにかが間違っていて、それが僕に害を及ぼすということはあり得ることだ。僕にはそういう人たちのことをなるだけ視界に入れずに避けるということが求められる。

僕がいじめを受けた経験はそれほど致命的なものではなかったけれど、今でも覚えていることがある。
小学生のころの夏休み、学校のプールの中で身体を掴まれて腹を蹴られていた。当時はまだ幼かったからそれほど反抗していなかったが、あとから思い出してみると、ひどく腹立たしい。
僕の腹を蹴っていたひとつ年上のその人は、中学生のときに生徒会の副委員長になっていった。僕の目から見れば悪である人間が、なにか正当性のあるような人間として振る舞っている。その経験はひどく僕の精神を歪めたことだろう。


でももういいんです。終わったことだし。もうお腹も蹴られてないし。

暗い文章を書いてすみませんでした。正直僕にとってのいじめは大したことではなかった。僕はすぐに教師に伝えていたので、問題はすぐに解消される傾向にあった。そのせいであだ名が「チクリン」だったけど。すぐチクるから。


話が脱線しまくって気づけば海の上を漂っているような日記になってしまったが、つまりは明るい人たちへの苦手意識を僕は解消していかなくてはならない。
無理に仲良くする必要はないけれど、毛嫌いすることはやめにしないといけない。明るい人に向ける排他的な姿勢は自分と仲良くなり得る人たちをも弾いてしまう。


なんだかまた鬱屈としたようなことを書いているように見えたかもしれないが、僕はそれなりにポジティブな結論に至っている。

闇を経由した上での、明るい結論である。雲間から淡い陽光の差す雨上がりのような。

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