![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/86410292/rectangle_large_type_2_f6ca5a9a0a71a454398ee2675859dbe7.jpg?width=1200)
「僕が147日の間日記を書き続け、そして辞めた理由」などという陳腐なタイトルの記事を書く理由
2022年の4月12日から9月6日までの147日の間、僕はnoteで一日1000字超の日記を書き続けた。
https://note.com/watanabe0130/m/md8c1d5d3b2b4
きっかけなんて、特になかったと思う。
なにか書いてみたいというような気持ちと、一日に一度文章を綴ることによって日々を噛み締めながら過ごせるのではないかと考えたとか、そんなことだったと思う。
それがどういう訳か、147日続いた。
そして僕は、元来日記を書くべき時間に日記ではなくこの文章を書いている。
1.日記による影響
日記を書く習慣とその成果物である日記によって、僕にはいくつかの変化が生じた。
ただそれは、特別大きな変化ではなかった。日記は僕をスーパースターにすることはなかったし、自分を規定するなにかを与えるでもなかった。
日々文章を書くという営為は僕に「やってる感」という、ふんわりしたものを与えた。
その「やってる感」は僕を安心させる一方で、日々僕の実生活における焦りみたいなものを鈍麻させていった。
「僕は毎日文章を書いているから、研鑽に励んでいて偉い」というような一種の誤ったアイデンティティを得て――あるいは獲得したと錯覚――してしまった。
なにかに従事することによって、自分で自己を肯定する。それはある程度必要なことであると考えられはするが、その内実である従事する対象についてはきちんと見極める必要がある。詳しくは2.日記を辞めた理由 にて。
次は見るからに悪い影響。
僕はある時から、Twitterアカウントを移行した。というのも、日記を書いていたら割に批判的な──それも攻撃性の高い──コメントが寄せられるようになって、嫌気が差したためだ。僕に興味がないのにフォローしている人間が大多数で、そのような本質的でないフォロワー数を見ることに辛くなったためでもある。
それから、日記を書くことによって単純に時間とアイデアを消費するというデメリットもある。
書くこと自体は基本的に苦ではなくても、どうしても眠かったりだるかったりする時もあった。
はっきり言ってしまうと、少なくとも僕は日記を書くことによってポジティブな影響を得ることなどほとんど無かったと感じている。
2.日記を辞めた理由
日記を辞めた理由、それは僕が日記を書くことの虚しさに気づいてしまったためである。
率直に言って、僕の日記の閲覧数はビビるほど低い。
当たり前ではあるが、本当に少ない。つまり、僕の日記はウケていない。
どのくらいウケてないかというと、以前に書いたそれなりに読まれている記事の閲覧数の方が日記よりも一週間単位で読まれている数が多いくらいだ。新しく書かれたピチピチの日記よりも昔に書いた記事の方が今なお人にクリックされているのだ。
僕の日記が読まれないのなんて、至極当然のことではある。
けれどもそのことについて「まぁしょうがいよね」と言ってなにも変化させずに日記を書いていられるほど僕は我慢強くないし、大人でもない。
僕は余裕のある時はその日記をなるだけ良いものにしようと努めた。
嫌だったけどツイートで宣伝したりもした。
が、結局のところ微塵も読まれなかった。
心血をいくら注ごうとも、一般人の何気ない日常ツイートの方がたくさんのリアクションを得ているのだ。
そうなってくるともう、日記を書くなど随分馬鹿馬鹿しく感じられてくる。別に求められてさえいないのだ。仮に2、3人からポジティブな言葉を掛けられようとも、それはちょっと覆るものではないのだ。コストに対するリターンの低さに、僕はひどく打ちひしがれてしまったのだ。
日記を続ける原動力というものは大きく分けてふたつある。
ひとつは回顧録としての役割を日記に担わせるために書くという目的で、もうひとつは読者を得て反応を頂戴するという目的だ。
上に書いた通り、僕は後者の目的を達成することができなかった。
更には、日数を経ていくに連れて僕は日記に回顧録としての役割など期待しなくなっていった。僕は別に回顧録など、はなから必要としていなかったのかもしれない。日記を続けていく上で最も原動力となるものは読者の存在を証明する数字と、反応である。
僕を卑俗な人間だと思ってくれて構わない。僕はどうしようもなく承認欲求の強い人間だし、文章によってなにか得られるのであれば積極的に得ていきたいと思っている。文章を書くこと自体は好きだが、それだけであればnoteで日記を書く必要などない。
3.147日以降のこと
僕の日記は、読まれなかった。
一言にしてしまえばほんとうにそれだけのことだ。
無名の人間の日記など、誰が好んで読むだろうか。僕自信が無名の人間の日記をほとんど読まないのだから、そんなことちょっと考えればわかったはずだった。
タイトルに「【日記】○○ 2022.□□」と付けている時点で、そのnote記事は日記というプライベートな空気感を身に纏ってしまう。
そうなるともう、読まれる可能性はグッと減少するだろう。
僕は僕の書いている事柄や文章については、ちょっとくらいは良いものなんじゃないかなと思っている。
さすがに自分の文章がクソだと思っていては、147日間日記を続けることはできなかっただろう。それでも読まれなかったわけだけど。
「日記を続けていればなにか良いことがあるかもしれない」などという幻想を、今ここで断ち切ってしまおう。
僕が日記を続けることによって良い結果となる可能性は限りなく低いと考えられる。
だからこれからは、たまに記事を書くくらいにしましょう。
個別な記事として人に読まれるだけの強度を確保し、そこに心血を注ぐ。
その方が、人に読まれる可能性は高いはずだ。
もしかすると、この文章を読む人の中には日記を現在書いていたり、あるいは書こうか悩んでいる人もいるかもしれない。
日記を書けとか書くなとか、そんなことを言うつもりはない。
ただもしちょっとでも書きたいと思っているのであれば、書いてみるといい。それからめんどくさくなったり、反応がなくてつまらないと感じれば早々にやめていい。無闇にだらだら続けたりすると、陥穽に嵌る。僕はさんざん悩んだ挙句に、ようやく日記を辞めることができそうなのだ。
日記は執念く、僕に書かれることを望む。書かれた日記は書き手に偽りの充足感をあたえる。
日記とその習慣のの善し悪しを決定するのは書き手と読み手だ。習慣に飲み込まれてはならない。
僕はこの文章を書くことによって日記という究極的な自分語りを毎日行うという罰ゲームみたいな呪いから解放されるのだ。
それこそが、「僕が147日の間日記を書き続け、そして辞めた理由」などという陳腐なタイトルの記事を書く理由なのだ。
最後に断っておく。
147日の間の日記に関する事柄について、悪かった人間など存在しない。
僕がただ、勝手に苦しんでのたうち回っていただけに過ぎない。
読まれない理由は明瞭で、僕の力不足のためだ。それは間違いない。
また、数少ない僕の日記の読者たちには本当に深く感謝している。
普段は恥ずかしくて言えないというのもあるが、あんまり読者に媚びていても仕方がないと思うので控えていた。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/86409891/picture_pc_78f099b4d2ad4cf2a51fec2188d3fbff.png?width=1200)
なんだよ。
こいつ、僕より良い感じのこと言ってるじゃん。
これからもがんばります。