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【日記】とめどない解釈の奔流 2022.5.28

遍く解釈――殊に文学的分野におけるそれ――はほんとうに際限ない関連付けによって増幅し、性質を異にし、既存の解釈から枝分かれしたり分裂したりして、それと相反する立場を取ったりする。

今日の日記で僕の思うところは以上で凡そのところ示されている。
解釈というものは本当に多岐にわたり、学問の分野をも超え、あらゆる事象と絡みついて実を結ぶ。


こゆこと。

先人たちの解釈、基盤というものは便利なんだけど、解釈されるテクストとそれをしたためた本人が述べているわけではない、あくまで説明として示されていたり推察に留まる道具となるものを原作自体がそう表現しているんだ!と受け取ってしまっているケースは少なくない。
ツイッターで「村上春樹 id 井戸」とかで検索するとそういうのが出てくる。

実際便利でクリティカルで、もうこれ作家自身もバリバリ意識してんだろと思うところではあるのだが、作家自身はそうは公言していなかったりする。

春樹なんかは実際フロイトのことを嫌いだと言っている。(もう手元に引用元がないので原文を書くことは叶わないが、『ウォーク・ドント・ラン―村上龍vs村上春樹』にて記述が見られたことを示しておく。)


研究の上でこの解釈方法を無視することは難しいし、僕が文学的解釈に対して興味を持つようになったきっかけは間違いなくこの解釈であるから、その解釈を痛烈にdisるようなことはしない。実際筋が通っているし、フロイトやカントを念頭に置いていないとしても、それらに変換できる概念が描かれていることは確かだ。「id」などを用いた解釈は、春樹の文学的表現を既存概念によって喩えたものとして完成度が高い。

だがやはり、研究というものをしていくのであれば、先行研究を参考にしながらもそれに対して意見し、別な解釈を見出していくというアプローチが求められるはずだ。


真面目なことを書いてきたけど、論文を読んでて研究者脳になって書かずにはいられなくなっただけで、普通に疲れている。疲れる。本当に。

もっと速く論文を読んで理解できるようになりたいですね。めんどくせえので。研究資料作んないと発表が近くてやばいし、就活もできない。就活はしたくないけど。あ~ちょっと本当に嫌になってきたな。まじで助けてくれ。


くるしい。




最近ストレスか知らないけど過食気味だ。お菓子とか買っちゃうし、外食もしてしまう。よくないな。写真のは昨日食ったやつだけど。

昨日の日記がんばったので読んでください。


では。

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