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今日は、私にとって、いやもしかしたら日本国民にとって忘れられない日でしょう。東日本大震災が発生して、今日で10年となりました。この10年、早いのか遅いのか、正直わかりません。それでも、あの時ランドセルを背負っていた幼い9歳の私が、来年には成人を迎えてしまうと考えた時、なんとも言えない気持ちになりました。震災、原発事故、そして復興。この事は、これまでもこれからも、私の人生において切っても切り離せません。この10年、私がどんな思いでいたのか、振り返りながら語っていきたいと思います。最後までお目を通していただければ幸いです。

「2011.3.11」この日は、はじめて未来が見えなくなった日です。そして、はじめて死ぬことを覚悟した日。大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、当時の幼き私は、本気でそう思いました。

当時私は小学校3年生。次の日には合唱部でお世話になった大好きな6年生のお別れ会が控えていました。普段通り、帰りの会が進み放課後になる直前の事でした。突然、ガタガタと揺れた校舎が、ガシャガシャガシャガシャと聞いたこともない音を立て、大きく揺れ始めたのです。なにがなんだかわからないまま、一斉に机の下に潜り必死に机の脚を押さえながら、泣き叫んだのを覚えています。

その時の自分の心情としては、「家族が死んでしまう。」その事しか考えられませんでした。おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん、妹、チャック(犬)の顔が次々に浮かび、助かっていてと、それだけを祈っていました。ちなみに自分の命など考えてもいなく、生きている心地がしてませんでした。後から、「あ、自分も生きれている」と気付きました。

一斉に校庭に避難し、親族が迎えにきてくれた人から段々帰れるとなり私は叔母さんが来てくれて、従兄弟と双子で車に乗り、家まで帰りました。しかし、それまでの道は、私の知る馴染みの通学路ではなく、変わり果てた場所になっていました。突き抜けるマンホール、倒壊した建物、亀裂の入ったコンクリート道。大好きな故郷が一瞬にして姿形が変わってしまい、ただただ呆然と窓越しに見つめていました。家に帰ると、どこもかしこも足の踏み場もないくらいものが散乱しており、数分に1回のペースで震度4くらいの余震がきて片付けようにも片付けられない状況が続きました。水は断水、電気もつかない中でお母さんと寝ました。この日はただただ元に戻す事だけを考え、片付けに追われ今後の事など一切考えられませんでした。

それから幸いにも我が家は断水や停電期間は短く、避難はしませんでした。というか妹と震災の翌日に喧嘩し、家出する!といって自転車で市内を一周するという訳のわからない行動に出ました。当時の自分を叱ってやりたい。家に帰ると、福島第一原子力発電所で水素爆発したというニュースが流れました。この日も、私達福島県人にとって忘れられない日でしょう。
放射線が空気で運ばれてきて、外に出るなと言われていましたが、実際に外に10秒だけ出た父が10円ハゲになったのは放射線の影響かはわからないですが、あの時の父も叱ってやりたい。それから1ヶ月が経ち、馴染みの故郷は段々と震災以前のような姿に戻りました。学校も、4月中にははじまりました。
この時、結局壊れたものも元に戻るという考えになっていた私は、高校入学後に大きく考えが変わるような出来事が訪れます。それはまた後ほど。

小学生の時は、ガラスバッジという放射能を測るための小さな機械を首から下げなければなりませんでした。毎日つけていたので途中から違和感はなかったけれど、県外の人から不思議な目で見られることもありました。毎年必ず学校で受ける、甲状腺検査も、福島県の子供以外実施されていないのもなぜか不思議な感じがしました。

中学生になると、震災、原発事故関連のニュースはテレビをつけると当たり前になっていて、震災特集で復興を唱える人たちを見て、「何年も経つのに、いつまで復興って言っているんだろう。まじでうざい。」とまで思っていました。本当にばかやろうです。震災以前のような街を見てきた私にとって、その考えはすごく浅はかで軽率な考えだったと思います。

他にも変わったことは、今も毎日天気予報の後には各地の放射線量がニュースになること。よく原発のニュースを目にすること。帰還困難区域が解除されて、今まで入れなかった場所に足を踏み込めるようになったこと。それがすっごく嬉しいと思うこと。こうして、自分や福島の人達にとって当たり前だと思う感覚が、他の県の人たちとズレがでてきたりしていて、今振り返ると震災や原発事故の爪痕が今も尚あることが改めて考えさせられます。

話は戻りますが、高校入学へ。ここが私の人生を大きくターニングポイントでした。私は地元進学を考えていましたが、従兄弟が着ていた制服に一目惚れし、「あの制服かわいい!私もあの制服で高校生活を送りたい!」そうして進学を決めた、ふたば未来学園高校。
ふたば未来学園は、福島第一原発から20km圏内にあり震災、原発事故で最も被害を受けた8町村の総称、双葉郡の内にあった現在休校する5つの高校の伝統を引き継ぎ、2015年に新しくできた総合高校です。
3期生として入学した当時、校舎は3つありJFAアカデミー福島の選手が通う静岡の三島長陵校舎、バドミントン部がいる福島の猪苗代校舎、そして広野町にある本校舎。アカデミック系列、スペシャリスト系列、トップアスリート系列があり私は大学進学を目指すアカデミック系列に所属していました。各々が地域と隣り合わせでやりたいことを形にできる、普通じゃない高校生活が私にとってすごく刺激的で楽しい毎日でした。

しかし、その裏では身内や友達からの、放射能扱い。「なんでわざわざ危険なところにいくのか」「放射能が高いから、あまり外に出てはいけない」「放射能のとこ」同じ福島県の人から、心ない否定された言葉を言われ続けました。しかし、それでもめげずに発信できたのには、とあるきっかけがありました。

2017年4月。高校一年生は授業の一環として、必ず双葉郡の現状を知るバスツアーに参加します。
そこで見たのは、1枚のバリケードで仕切られた帰還困難区域。津波で流されたパトカー。人気のない商店街。誰も通っていない、綺麗な小学校。ここは本当に町なのかと疑ってしまうほど、信じられない光景がそこには広がっていました。各場所で語る、地域住民、いわゆる当事者の声。中学生の頃、復興は終わったと思い込んでいた自分を責めたくなりました。6年経っても時が止まっているような町で一生懸命復興という解のない答えに挑み続ける地域住民の姿。15歳の私にとって衝撃がすごいものでした。そして次第に私も、復興の一助になりたいと思うようになりました。

長期休みに海外研修で英語で福島の現状をプレゼンテーションしたり、休日も震災当時のことを知れる場所に足を運んだり、自分で県内外の高校生計160名に対してツアーを行ったり、地域交換留学という震災、原発事故で引き金となり見えた日本の社会課題の縮図ともいえる双葉郡と全国各地を繋ぎホームステイしながら地域未来について考える宿泊型プログラムを運営したり、福島第一原発を実際に見学したり、いろんなイベントに参加したり、大勢の大人の人、時には文部科学大臣に対して自分のプロジェクトについて発表させていただいたり、国連の総会議場で発言したり、ノーベル賞を受賞したマララさんと対談したり、自分が想像していた高校生活とはかけ離れているけど、この3年が自分の考えや価値観を大きく変えてくれたし、大成長できました。有難いほど貴重な経験を積ませてもらった母校には感謝してもしきれません。

そして大学。私は兵庫県にある関西学院大学に進学しました。私は関西でも福島について沢山発信していこうと思っていました。しかし、福島出身を名乗ると、信じられない言葉ばかりが返ってきました。
「放射能のとこやん」「福島って人住んでるん?」「放射能あびたんか」「行ってみたいと思わない」「これから原発帰るんか」など、まだまだ福島に対する偏見差別が日本国内に残っていたことがなによりもショックでした。それと同時に、課題が見え危機感も感じました。“他人事から自分ごとへ”をモットーに活動してきた私にとって、大きな壁にぶつかったのです。コロナウイルスの影響もあり、あまり活動できていませんが、西宮のさくらFMさんでラジオに出演して発信させていただいたり、オンラインで福島のイベントに参加させていただいたり、関西のNPOに訪問したり、少しづつではありますが出来ることをやっています。

兵庫という遠い場所にいますが、いつでも心は福島にあるし、いつか福島に戻りたいと思っています。
そんな私の夢は、探究の先生になることです。

私を大きく変えてくれた双葉郡という場所、そして未来創造探究という地域問題に高校生が自分たちでプロジェクト企画する実践授業。この科目は日本にとって必要であり多くのロールモデルを波及しなければなりません。しかし、まだまだ始まったばかりの探究授業には課題はあります。変革者として、地域という根っこから私は日本、そして世界を変えていきたいです。

まだまだ話したいことはありますが、最後に復興とはなにか、私は常日頃考えていますが今の考えを話して終わりにしたいと思います。
復興とは、復興という言葉を誰もが口にしなくなった時だと考えています。これは忘れることとは違います。
人それぞれ復興の定義は異なりますが、震災前のような姿に戻すことでも、帰還困難区域が全て解除されることでもないと思います。
まだ10年、されど10年。廃炉に50年はかかると言われる中で、もしかしたら震災を経験した当事者達が生きているうちに復興と呼べる日がくるとは限りません。
しかし、この出来事を絶対に忘れてはなりません。教訓を、次の世代に、そして今後の未来に活かす必要があります。だから私は発信を止めないし、誰かに否定されたって、行動し続けたい。まだまだ出発点です。震災がなかったらいいのにとも思えません。だって、今の私を形作るのは、いい意味でも悪い意味でも震災は核のような気がするから。沢山のことを教えてくれた震災を、当事者として私は教訓を同世代や多世代に伝えていきたい。

東北も、福島も素敵な場所。自分にとって大好きな故郷である福島に胸を張って帰れるよう、まずはこの大学4年間、関西という地で私は精一杯頑張りたい、改めてそう思った1日でした。


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