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荷物を背負って歩く

山の木々が赤く色づく季節。都会の喧騒を離れて、自然豊かな土地へ訪れた。

仕事帰り、自宅に帰宅する電車とは違うルートの電車に乗った。都会を走る間は短い間隔で停車していた距離が、停車するまでの間隔が長くなっていく。いつもだったら目的地までスマートフォンをいじりながら乗車するのだが、その気力もなく、駅に泊まるたびに減っていく人の数を何を考えるでもなく眺める。だんだんと民家の数も減り、車窓から見える景色が山木ばかりになる。電車はまもなく山奥の終点に着こうとしている。平日の夜、自宅に帰らず山奥に向かう電車に乗るくらいには、少し、疲れていた。

遅い時間の来訪者にも関わらず、笑顔で迎えてくれた個人宿の店主。素泊まりで1泊したい旨を伝えると、快く部屋を提供してくれた。来訪の理由を聞かれることもなく、部屋まで案内してくれた。部屋には大きな窓があり、窓からは流れの速い渓谷が見えるそう。だが今は夜間、それが見れるのは朝日が昇ってからのようだ。

背負っていた荷物を下ろして布団に入る支度をする。いや、一つだけ仕事を忘れていた。電車に間に合わないかも、とやりかけの仕事を途中で中断してきたのだ。しぶしぶノートパソコンを立ち上げて残りの仕事を片付ける。こういうところがいけないのだ。やりかけでも良いじゃないか。自分がやらなくても誰かがやる、そう思えれば楽なのに、生真面目な性格がそれをさせない。残った仕事を片付けて、今度こそ寝支度をする。明日は早めに起きてあの場所に行く予定だ。

ザーっという音で目が覚めた。都会に住んでると聞こえることのない音だ。だがうるさくは感じない。気怠い体を起こし、音の発生を探るため、閉じられた障子を開けると音の正体が判明した。

眼下には渓谷が広がっていた。

音の正体は、ゴツゴツとした岩と勾配によってできた速い流れの川。水が岩にぶつかって起こる渓谷の音だった。透き通った水。美しい水しぶき。この清流の先は、都会のど真ん中を流れていくあの下流だ。にわかには信じられないが。そして渓流を囲む木々は赤く黄色く色づき、寒い冬の訪れにむけて準備をしている様子が感じられる。

部屋に用意されていたドリップコーヒーを飲みながら、この景色を心ゆくまで眺めていたいが、今日は行きたい場所がある。荷物に詰め込んでおいたジャージとフリースを着て、リュックタイプの仕事用鞄にタオルと昨夜買っておいたお茶のペットボトルを入れて部屋を出る。
近くのバス停まで歩いていくと、朝7時だというのに、すでに人が数人並んでいた。皆、登山用リュックに登山服、そして登山靴。これから乗るバスの終点には神社があり、神社のさらに奥にはハイキングコース、そしてその奥には登山者が挑む山がある。朝早く出発することでその山に挑むのだろう。そのための装備を身に着けた人たちだ。
それに対してこちらはハイキングコースが目的だ。かろうじて靴が運動靴であるだけで特別な装備はない。ついでに言えばこんなに朝早く出る必要もない。往復3時間程度の道のりだ。ただ、人の少ない時間に行きたかった。誰にも邪魔されることなく、誰かに気を削がれることなく歩きたかったのだ。

登山口に着いたバスを降りたらまずは神社を目指す。この山には神社があり、今回のコースに入る途中に建立されているのだ。しかし山の神様には申し訳ないが、参道を抜けたら本殿には進まずに、横にそれた山の奥へ向かう道へ入る。
早朝の山の中、人の気配はなくざくざくと落ち葉を踏む自分の足音。すっかり秋の色に彩られた赤、黄色、茶色、目を楽しませてくれる。

山道を小一時間ひたすら歩いていくと、どこからか水の流れる音が聞こえてくる。
目的地は近い。

そして辿り着いた、ずっと来たいと思っていた奥山にひっそり佇む静寂の地。
双方に切り立った岩肌、その間をゴロゴロとした大小の岩が道をつくり、湧き出した水が、微かな音をたてて流れていく。岩肌や大小の岩、木々には苔がつき、新緑の季節にはきっと青々とした場所だっただろうが、今は周りの木々から落ちた落ち葉が岩や道や水面を覆い、すっかりと秋の装いだ。

苔が生えていない大きめの岩を見つけてそこに腰掛けた。背負ってきた荷物を肩から下ろすと、荷物に入れていたペットボトルのお茶を口に含む。大量に量産されたどこにでも売っているお茶だ。だが普段飲む味とはまた少し違うような気がする。
お茶を飲みながら水面を眺めた。木々から落ちたいくつかの種類の葉が水面に浮かぶ、その合間をかき分けるように流れていく水。そして流れのない緩やかな場所には、ヤマメだろうか、透き通った小魚が自由に泳いでいる。

この景色が見たかった。だから仕事帰りにも関わらず電車に乗ったのだ。

そのまま目を閉じて流れる水の音を感じる。チロチロチロ、チャプン、岩の間を流れていく耳通りの良い音が染み入ってくる。日常的に聴いている人工的な音は一切ない。
そして肌をなでて行く風。僅かに冷気をまとった秋風ではあるが、ここまで歩いてきて体温が上がっていたため、寒いよりというよりむしろ涼しいと感じている。

まぶたの少し奥をよぎるのは、逃げてきた現実だった。
正直、競争や成長が激しい社会の中で毎日を生きるのはしんどい。成果物、目標の達成、自己研鑽、人との関わり。社会の中で働いている以上は逃れられないことだと分かっている。そうしないと生活をしていけない。昨日の自分より成長していると思いながら藻掻き足掻いているけれど、時々逃げ出したくなることがある。疲れてしまうことがある。こうやって一人になりたいことがある。

だからこんな時間が必要だった。明日をまた頑張るために、この景色と空気が必要だった。
この景色が心の淀みを浄化していく。

それからどれくらいこの場所にいただろうか。涼しいと感じていた風を寒いと感じるようになった。できればもう少し、この場所で美しい景色と空気に浸っていたかったが、帰らなければならない時間が来てしまったようだ。いつだって非現実に浸れる時間は一瞬だ。

残念だが現実は離れてはくれない。どんなに辛くても、明日を生きていく必要がある。
だけどたまに疲れたとき、またこうやってこの場所を訪れよう。季節が変わって見える景色が変わっても、この場所はなくならない。また来ればよいのだ。

来た道を帰ろう。
座っていた岩から腰を上げて、一度下ろした荷物を背負い直した。


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