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「切ない」の意味について

(2020年に書いて下書きのままにしていた記事を、今更ながら公開します)


ここ1年近く頭を悩まされてきた卒業論文を、先週ついに提出した。

締め切りの本当にギリギリに出して、提出直後にみんなで喜びや涙を分かち合った。青春ドラマみたいだった。同時に、「こうやってみんなで達成感を味わえるのはきっともう無いんだな」と感じた。
もうすぐ私たちは大学を卒業する。


こういう時に出てくる感情を、「切ない」と呼ぶ人がいる。
「切ないって何だっけ」と思って辞書で調べてみると、例えばこんな意味が出てくる。

悲しさや恋しさで、胸がしめつけられるようである。やりきれない。やるせない。

辞書の意味はなんとなく合ってると思うけど、なんとなく違うと思う。

私が思う「切ない」は、「自分ではどうにもできないことをどうにかしたいと思ってしまった時に起こる感情」だ。あるいは、理想と現実のギャップが起きた時か。
「卒業したくないな〜」と思っていても卒業するしかない今の状況や、終わってほしくない夏の終わりや、思い出したくもないけど頭に浮かんでしまう思い出は、全てそういう類の「切ない」が浮かぶ。


この持論を親友にふと投げかけてみた。そしたら、自分とは違う捉え方を教えてくれた。友人は、「切ない」は「いろんな複雑な感情を抱えて、心にしまって、しまい切れなかった気持ちが、ふと外に出てきてしまった時に起こる感情」らしい。

さっき挙げた3つの例でも、しまい切れなかった気持ちが溢れてくる感覚はなんとなく分かる。私の解釈と重なっている部分はある。でも、少し違う。

友人は「切なくなる対象が明らかな時もあれば、明らかじゃない時もあると思う」と話してくれた。ここがまさに自分の解釈と違う点で、自分は「自分ではどうにもできないこと」がある時に「切ない」は起こると思っていたけど、そうじゃなくても「切ない」は起こる、というのが友人の考え。


「あぁ、確かになぁ」とそれを聞いて思った。


例えば、息を呑むような夜景を見た時、尊敬する作家の墓参りをした時、露天風呂でふと空を見上げた時、思い切り自転車のペダルを踏んで受ける風を全身に感じた時、美術展で死の香りが漂う晩期の作品を目の当たりにした時。

目にしたもの、感じたもの自体をどうにかしたいわけではないけど、それらが刺激となって自身に返ってきて、無意識の中にある感情が溢れてきて、なんだか「切ない」感じが起こるのだ。


こないだの「ゴッホ展」で見た『麦畑』に対する心のざわめきも、きっと「切ない」だった。『麦畑』の中に溢れる、痛いほどの黄色い麦は、命の輝きを伝えると共に、その輝きが後に控える麦刈りまでの短い営みであることを暗示していたように思う。また、この作品の描かれた年がゴッホの自殺の2年前(1888年)であることから、「画家自身もこの麦と同様に先の短い将来を自覚していたのかもしれない」と感じた。
そうした感じを受けて、あるタイミングで鑑賞者である自分にふと返ってきて、「切なく」させられるのだ。そうさせるのは麦の輝きかもしれないし、紫色の空かもしれないし、背後に潜む死の存在かもしれない。はっきり分からない。ついでに言えば、「じゃあその『切ない』そのものの意味はなんだ」と聞かれても多分答えられない。

絵画に使う「切ない」は、「エモい」と同じくらい何かを説明しているようで説明していない感じがするから、よくないかもしれない。切ないね。「切ない」って、なんだろうね。

ゴッホ麦畑wheatfield

Vincent van Gogh
Wheatfield
June 1888 P. & N. de Boer Foundation, Amsterdam
https://www.wikiart.org/en/vincent-van-gogh/wheat-field-1888-1

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わたこ
ここまで読んでくださりありがとうございました。