【-12- 39(サンジューク)|ディスレクシア・カタルシス(12)】
立春も過ぎて卒園も近づく6歳の私。
4月から普通の小学生。理論上では。
いくら検査をクリアしたとはいえ、現に文字と言葉を認識出来ていない。本人が真面目に授業を受けているつもりでも、黒板の文字も読めないし書き写せない。先生の話す説明や内容も理解出来ない。義務教育だってエスカレーターではない、成績や単位が取れなかったら留年もある。義務教育の留年なんて前代未聞だけど、そもそも私自体が前代未聞だった。さて、どうしたものか。
県の教育センターとの重なる相談の結果、基本的に「普通学級」に籍を置きつつ言語訓練として週に一日、昼休みに早退して午後から「特殊学級(現:特別支援学級)」に必要な時間だけ出席する。その出席を「足りない普通学級の単位」に当てる。
要するに「通級学級による指導」という特例授業プログラムで小学6年間を過ごすことで話が落ち着いた。
現在では「特別支援教室」というこれと似たシステムがあるが、当時としては無名の超法規的措置に等しかった。でも、県の教育センターや市の教育委員会にも承諾を得ているので、そういうプランになった。
今はだいたいの小学校に「特別支援学級」があるが、それは2006年6月の「学校教育法改正」からなので、1996年当時は「特殊学級」のある小学校は県レベルで少なかった。
人によっては「特殊学級」を受けるために、わざわざ引っ越して転校する家庭もあったが、奇跡的に通学できる範囲内に「特殊学級」があったので推薦状も書いてもらい、そこに通うことになった。
卒園式も近い3月3日。来月から始まる特殊学級の前に私を担当する先生と面会した。私が受ける授業は言語障害のこともあり、ゆっくり丁寧に学ぶ個別式授業。いうなれば先生と生徒のマンツーマン授業。私を担当する先生は中年の女性だった。この先生の経歴によると、早くから学習障害の指導と教育について詳しく研究している方らしい。
そして、この先生との授業が後々大きな意味合いを持つことになるのだが、見えない・聞こえない・話せない『三重苦』と戦ったヘレン・ケラーとアン・サリバン先生の授業にあやかって、この先生の名を『伴理佐子先生』とする。
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【螢雪書店[本日の推薦図書]】
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【あとがき】
ケラーとサリバンが出会ったのは、ケラーが6歳の時の1887年3月3日。
この出来事をモチーフに設定しただけなので、実際に面会したのが何月何日かは詳細には覚えていません。ただ、覚えていないからこそ、このときの出来事を伴先生とサリバン先生に捧ぐ。