自殺したスウェーデンのアーティストAviciiのドキュメンタリーを観て。
ネットフリックスで公開された、Avicii(アヴィーチー)のドキュメンタリーI’m Tim(2024)見終わった。2018年に自殺で他界したとされるスウェーデン人のアーティスト、プロデューサー。ドキュメンタリーて大体意図があるし、切り取り方も偏ってるとは思うけど、うーん、泣いた🥲
ナレーションに、生前の本人。
彼が実際、こんなに自分の気持ちを喋ってた(aiじゃないよね?今時簡単に作れるもんね)のを聞くと、悲しい気持ちと共にさすがスウェーデンで育っただけあり、不安や辛さを上手に口にしているとも思った。日本やアメリカでは、特に男性はマイナスに捉えられて、まず言えてないと思う。今となれば世代も変わってはきているけど、カナダの友達も、スウェーデンの男性みたいにカナダでは心理カウンセラーの話をフランクにしない、と言ってた。
ゆったり働いているのに、それでももう無理!というスウェーデン人を見ると、絶対日本で働くなんてメンタルむりやろな、と日本から来た人は口を揃えて言う。アメリカも私の体験では日本寄り。
本人の意思が尊重される国、自分を大切にする>努力、集合的な利益、があたりまえの価値観で育った彼は、アメリカでそれの極地に立たされたのかなと思う。
そしてこれを、弱さと捉えてしまうなら、それは日本やアメリカ的な考え方だと思う。vulnerability(もろさ)を理解している人はわかると思うけど、認める・向き合う、ことは本当はもっと難しい。
『問題が何かを突止めたいのに、突止める時間もない』なのようなことを、途中で本人が言う。それを、聞くと自分が大阪に戻った10カ月を思い出す。
毎日なんやかんや仕事も楽しい、けど大きい視野で見ることができなくなる。海外にいたら気にしていた環境問題や自分の将来、夢、家族との時間の使い方。反映して考える時間や余裕がなくなり、ここにいると毎日をこなすの必死で、気づいたら40、50歳になると感じてた。
『I want to feel content』とTim(Avicii本名)が言う。これで満足、充分満たされているという感覚。今スウェーデンに住む私は一昨年前くらいにcontentよりぴったるくる言葉がなくて、それをインスタに投稿したのを覚えている。
駅と家の帰り道で感じた日。その後何度もあった。なんってない日だけど、まさにcontent。まだうまく『なぜなら』と言葉にはできないけど、日々私の権利が守られていると感じるからかな、と思う。
実際、アメリカ、東ヨーロッパ、中東ではヘイト・スピーチ(特定の属性を理由に、憎悪や差別を煽る表現や発言)が多く見られ、逆にドイツ、スウェーデン、カナダ、ニュージーランドでは法律が厳重な事もあり、少ないようです。 (日本や韓国の名が上がらないのはあまり民族が混在してない国であり、LGBTQ+を公表できる環境さえないからでは?ある意味もっと悪い?)
スウェーデンは、法律の厳格な運用に加え、平等や人権を尊重する価値観が日常生活に根付いており、差別的な言動が公然と行われることはかなり少ないです。
グループに対してでなくても、例えば、アメリカや日本、韓国の都市のように容姿を褒められめる事もけなされる事もないので、女性はきれいじゃないと自分の価値がないとも感じにくい。(SNSで世界と繋がるティーンが自己肯定感低くなる話は一旦おいといて)
私が引っ越したてに、芸能人をみて『え〜、26歳には見えない!もっと歳いってると思った!』といって20代の前半の子に人間性疑われドン引きされました。
精神面でお仕事を数ヶ月お休みすることもまぁまぁ聞く話で、誰も理由を偽ったりしないし、詮索される事もない。アメリカや日本の都市に住み続けていると気づきもしないけど、日々不安に駆られる原因が社会に蔓延っている。
スウェーデンにだって課題は沢山あるけれど、こんな事を考えていると、ティムがスウェーデンから出ていなければ今も生きていたのかなぁとは、どうしても思ってしまう。アーティストとしての苦悩もわかるし、業界の違いもあるけれど、、今から生きていく人に、日本やアメリカの都市の社会で情熱があるわけでもないような事を『頑張る』ことが、当たり前ではないと知って欲しいと思いました。まずは自分が人の人権を尊重してあげるところからなのかなぁ。