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来たる2023年に向けて&2022年の振り返りや就活のあれこれ

この文章を書き始めた数時間後には個人的に激動だった2022年が終わる。中国人の友達にあれほど臭くなるから冷凍餃子は窓際に置こうと言われたことをすっかり忘れ、アメリカ留学大晦日の夕食は地獄のような味と匂いを発する餃子とカップラーメンをただ部屋で食べるだけの日本にいた時より酷い大晦日となってしまった。そして、留学も何だかんだ4カ月が経過してしまった。1学期のみの滞在の友達、2学期の留学が終わって帰った友達などを思い出すと、徐々に「帰国」の2文字が自分に重くのしかかってくる時期となった。まだやりたいことがたくさんあるが、時間は限られている。加えて、成果も残したいので、来期は自分史上で一番本気で遊び、勉強をしたい。遊びに関しては、成長した部分があって本当に疲れていた時2回を除いて誘ってもらったものには全て出向いた。ただ、時限がある人間の振る舞いというよりかは、さも長期滞在する人間のような振る舞いで、積極的に人を誘うということが足りなかった。今年は月ごとに何が起こったかも鮮明に覚えていて、1日1日を振り返れば、長かった、つまらないと思う日もたくさんあったが、全体を振り返ればあっと言う間に終わってしまった。今年の収穫は友達、知り合いが多くできたことだ。自分が留学しているとあって国籍の違う友達が出来たことに関心が行きがちだが、今年は自分にとって刺激になる日本人の友達も沢山出来た。それは日本にいた時もそうだし、ここ留学先でもだ。やっぱり人の存在はかけがえないと感じた。自分に足りない思考法や思いつかなかった発想を与えてくれるからである。ちなみに今回なぜ「だ・である。」調を採用しているかというと、何の意味もなくそんな気分だからである。

まず、2023年は自分にとって勝負の年であり、自分の人生で一番頑張ったといえる年にしたい。来年は1月から12月まで走り抜けたい。これは最近今までの人生を振り返った時に、明確な成功体験が存在しないことに気付いたからである。将来を考えた時に、「学生のうちに努力する」→「実を結ぶ」の体験があると無いとでは確実に大違いでその後の人生に大きく影響すると他人を勝手に見ていると思う。それは再現性の問題と個人的には考えていて、過去にはこのやり方で成功したから、次もこれくらいやればいけるかな、と考えることによって、新たなことに挑戦するハードルを下げ続けることが出来るから、「どうせ」思考で止まっていて負のスパイラルで生きている人間とどんどん差が広がるのではないか。(時には、傲慢となってしまうから、自信くらいで止めておけると丁度よいし、その成功体験が仇となって大失敗するかもしれないトレードオフも存在する。)はっきり言って今の自分には人生の芯となるレベルの成功体験が欠けている。以前も書いたが、受験というコンテンツはその主たる要素だと思う。中学校受験で大失敗をかまして以降は、高校、大学とさして努力した感覚もなく、今に至る。だからこそ、今年は必死になって勉強や努力をしたい。なぜかというと、このままただ漫然と生きていると、何者かにはなりたいけど、なれないという現実にいずれ直面することが目に見えていて、それに抗えるきっかけを掴めるきっかけの年を2023年にしたいからだ。大半の人が言語化しているかはともかくとして、他人と己を差別化したい、個性化がどうのこうの(一昔前には「一億総活躍時代」という標語があった。)という割には今の自分も含めて殆どの人間が似通っているわけであるが、個や差別化の実現は他人よりも努力しなきゃ無理という分かり切った話であり、非凡でない凡人代表の自分はやるしかない。屍にだけはなりたくないからね。中学校受験の時はもう10年くらい前になるから正確には覚えてないけど、他律的ではあるとはいえ、落ちた後に悔し涙が自然に出てくるくらいには勉強したことだけは覚えている。次は、自律的にそれに近いことをやろうとしている。折に触れて意識してしまう他人から見てどうのこうのを置いとくと、この時の自分に打ち克ちたい、こんなものじゃないはずだと思う自分がいる。だから、2023年は自分の中で一番頑張ったと胸を張って言えて、自分を肯定できる年にしたい。軸は、勉強、遊び(留学期間中は)、より多くの新しい人と話して学びを増やすことに据える。

さて、以下で就活について思うことを書こうと思う。私は留学前に就活をちょこちょこしてたとはいえ全く力を入れていたわけではないので、当事者の観点からではなく、時には部外者からの感覚を意識しつつ書く。まず、就活がなぜ多くの人にとってつまらないクソイベントだと捉えられているのかと思いを巡らせると、色々原因はあるだろうが、個人的には一括採用によって同年代の他人の現状が見えてしまい日本人が長年をかけて浸み込まされてきた比較の代表的イベント「受験」の感覚を再燃させられることが主たる原因だと思う。それに加えて、大学が大学受験終了後の長い休憩場所の位置づけで捉えられ続けているから、自分で積極的に何かをしている人以外の多くは、「金を得られる」という事象と「社会と接点を持てる体験価値を得られる」ことの共通項であるアルバイトに時間を売って奔走するものの、結局多くの”他人”もそう考えるから、「気が付いたら3年になる」→「就活になる」→「自分の性能を客観的に見た時に特筆すべきことが浮かばず凡人だと気付く」→「萎える」のルートが王道化してるのではないか。そして、次のパターンもありそう。「アルバイトも大体は飲食業界か塾業界で働いている人が多く、いざ目指そうとする職種と大きく違うからその業界で働くことに対する想像ができない」→「やる気がおきない。」
前にも書いた気がしたが、自分が就活に取り掛かったころに一番辛かったことは、自分を客観的に評価した時に自分の程度が分かってしまったことだった。これが先述した何物にもなれないと悟りそうになった瞬間であった。でも、日本の数多くの統計を見るとそうなってしまう(もしくは、自己成就予言的にそこに自らが近づいてしまう)ことは明らかだ。母集団やソースは特定していないが、日本人が勉強時間や”有用な”スキルアップに割く時間の数字は壊滅的。何かを手立てを打たないと弱冠20歳にしてつまんねー人生に片足を突っ込むのではと履歴書のフォーマットを埋めているだけで考えてしまった。そんなことを頭の片隅においてアメリカに来たら、ある授業で大学以後の自分の生き方を決めて(決めてしまう)転職する時や失業した時に頼れるものは、自分のスキル(&人脈)のみとハッキリ言われ、何とも言えなかったモヤモヤが氷解した。ちなみにこの一言は、この授業で言われたどのコンテンツよりも鮮明に覚えている。講義中はいたって真剣に話を聞いていたつもりだったのに。そんでもって、今年は客観的に評価できるスキルの習得を目指そうとの運びになったわけである。日本にいた時にお試しがてら聞いていた就活講座のいくつかは、「バイトで~をした。」等の単体のエピソードをどれだけ副詞、形容詞を付けて受け手に魅力的に見せるのかといった本質とかけ離れた笑止千万なことをやっていて、そんな個人にしか分からない主観エピソードが本当に罷り通るの?とずっと疑問に思っていた。アメリカ信仰が過ぎて申し訳ないが、自分しか自分を守ってくれないという考えれば当たり前の事実を徹底的に教育されているからこそ学生が何か新しいことをする時にも、何かに特化したスキルの習得を自然と意識する。それにより即戦力型の就活が成立しているのではないか。これも考えようで、有力なコネクションのリソースがない学生、目立った業績を持たない学生はその時点でエリートへの入り口から排除されるから日本のほうが逆転可能な社会設計なのかもしれない。それゆえに、日本型と米国型の就活モデルの是非について意見を述べるつもりはない。私個人が日本時代に持っていたモヤモヤを解消した考え方がアメリカ型の発想だったからに過ぎないからだ。事実、多くの中堅以上の大学に入った日本人にとっては、高校で頑張り、大学がモラトリアム期間と位置付けられている。その一方で、多くの米国人にとっては、高校がモラトリアム期間で、大学が頑張る期間という大きな違いも存在するからである。そのように考えると、最大の力の時に就職と接続しないから、多くの日本人と就職の相性が悪い傾向があるのかもしれない。
そんなことを考えつつ、今後の私は抗えるだけ抗って自分の選択肢を増やしたい。今興味があることはおぼろけながら存在するが、実現可能性を正しく評価できているわけではない。その可能性を増やすために、自分が軸として設定したことをやり切って、今年よりも後悔の少ない2023年度末を迎えたい。

最後までお読みいただきありがとうございました。

よいお年をお迎えください。



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