これは、今緊張している私にお守りとして書いたものです。ただの強がりです。
今私は「ミスiD2022」というオーディションに参加していて、セミファイナル進出者の発表が今週末にあるそう。
オーディションである為、必ず「選ばれる人」と「選ばれなかった人」が出てきてしまう。これはオーディションだけでなく、たとえば就活だったり受験だったり、人生の中で多かれ少なかれ経験するものだと思う。
もしミスiD2022でセミファイナルに進めなかったら。選ばれなかったら。
私は今、内心すごく怖い。多分自分でもわからない程、実は自分自身すごくこのオーディションにかける気持ちが大きいのだと思う。「まあオーディションで通らなくても私の日常は激変するわけじゃないし。」。そう思い続けているが、頭の片隅には「発表まであと◯日」というのがあって、「もし選ばれたら」と「もし選ばれなかったら」を行き来しては頭の中を悶々とさせている。
オーディションに関してこれから書くことは、私が落ちても受かっても「私」を保つために書く。もし落ちて悲観的になってしまっても、受かって嬉しさと共にさらに緊張してしまっても、どちらでも大丈夫なように。
①選ぶ、選ばれるということ
人は人生の中で数々の選択をして生きている。そして、数々の選択をされて生きている。これは選ぶ対象、選ばれる対象が人だけでなく天候や環境、時間やモノなど沢山の事柄が当てはまる。
例えば、朝起きて先にトイレに行くか、カーテンを開けるか、そもそも起きるか。無意識にいろんな物事を選んでいると思う。
そして家を出た時に雨が降っているか、寒いか、それにより傘を持って行くとか上着を羽織るとかそういう選択が出てくる。しかしこの選択は「天候」によって私たちの服装が変えられている。私はこの状態は天候によって今日の1日を過ごす格好を「変えられた」と思っている。いわば受動的な姿勢であると思う。
なんと説明すればうまく伝わるか今の私には伝える術がなく悶々としてしまうが…。
能動的な選択、例えば「新しい欲しい服があって、その服を買いたいから服屋に行く」と受動的な選択、例えば「雨に濡れて服を買わざるを得なくなったから服屋に行く」という2つの選択の姿勢があるのではないかと思っている、と言えば少し伝わるだろうか…。
話をオーディションに戻そう。
私はミスiD2022を受けるということを「選択して」受けた。そして今選考委員による「選択を受けて」いる最中だ。
だから、もしセミファイナルに行けなかったとしても「落ちた」という気持ちではなく「選択されなかった」という気持ちになればいい。「落ちる」とか「勝ち上がる」という言葉を使うと、もし次に進めなかった時になんとなくあ〜れ〜と奈落の底に落ちてしまう感じがしてしまうが(あくまで私の気持ち)、そうではなく単に「選択されなかった」という道に進んだだけだと思うようにしよう。
なんというか、選考の過程を上下の関係で見るのではなく横の関係で見るというか…。
そうすれば、じゃあ選択されなかった今の私は次は何をするか選択しよう!と次に進めそうな気がして。
人生における数々の選択の中で、今回は選考委員に「選考されなかった」という選択肢にあって、じゃあ今度私は何の行動をするかまた選択しよう!と。
もし受かっていれば見える世界があるし、もし受かっていなければ見える世界がある。
受かったからこそ見える世界と、受からなかったこそ見える世界。受からなくても世界は終わらないし受からないからこそ体感できる何かがある。
選択された私の未来は私自身の選択により変えることができる。受動的な選択でも、能動的な選択でも、私自身で捉え方もこれからも少なからず変えて行くことはできる。
止まらずにずっと流れて行く時の中で、世界中の沢山の人、モノが選択し選択され、その中でたまたま私がオーディションを選択し、選択されて今ここにいる。選択していなくても、選択されなかったとしても、私の世界は終わらない。新しい世界がそこにあるだけ。
だから、大丈夫。
②「ふるいにかける」ということ
オーディションでなくとも、選考の過程を「ふるいにかける」という言葉を使って表すのを聞いたことがある人はいるのではないだろうか。
私は初めそれを聞いた時になんだか良いイメージは抱かなかったが、最近ふるいにかけられて落ちてしまっても良いのではないか?と思える出来事があった。
私の実家は田舎にある。田舎といっても、たぶんあなたが想像するより田舎で、山奥だ、というかそもそも山の中だ。携帯電話の電波は届かなかったし猿なんてしょっちゅう家の裏にいるし熊もカモシカも猪もたぬきも狐も普通にいる。じいちゃんの山に行って切った杉の木の上を歩いてみたり、ばあちゃんとキノコや山菜を採りに行ってみたり。たぶん本当に思った以上に何もないただの「山」だと思う。
そんな中で今も暮らす祖父母は炭を焼いて暮らしている。みんながバーベキューで使うあの「炭」だ。
この前その炭焼きの手伝いをさせてもらったのだが、その工程の中で灰と炭をふるいにかける作業があった。
窯から出された真っ赤な炭は、冷ますために灰をかけられて冷め次第大きさごとに分けて行く。その工程の中でもたくさんの選択がなされ、残った灰と小さな炭はさらにふるいにより選択がなされる。
イメージはこんな感じだ。(下記図)
小さい炭は自宅の七輪に使い、さらに小さいものは畑に撒く。「リフォームで縁の下に入れる」とその小さい炭を買いにくる人も居るのだという。
どんな形になっても全て無駄にならない。炭はなんでも売れる。
そう祖父母は言う。
「ふるいにかけられる」というとなんだか嫌な感じがしていたが、かけられて落ちたからと言ってそれが悪いわけではなく、その落ちた世界でもまた違う役割がある。これはきっとオーディションなどの世界でも同じではないだろうか。
①で「落ちる」という表現を否定的に捉えたくせに何を言う…と思われるかもしれないが、もし落ちたとしても終わらない。落ちたところでまた新しい世界が広がるし、そもそも「上は良い」「下は良くない」というものでもないと思う。
と、ここまであーだこーだ綴ってきたが、この文を読んで分かる通り、要は私の「強がり」だ。セミに行けないのが怖くて、選ばれないのが怖くて、怖くて怖くて書いている。
たぶん次に進めなかったらこんな文章を綴っておきながら悔しがるだろうし悲しむだろうし。落ち込むのは目に見えている。
そして、こんな文を綴っておきながら「セミファイナルに進みたい」と言う気持ちがとても、とても強いのもまた確かなこと。
「このオーディションが受からなくてもそれはたまたまだし。」なんて言葉で片付けたくはない。今は。
強がりはやめて、正直に言います。
セミファイナルに進みたいです。選んでください。
それだけです。
すなねこ🐈