「幸せになる」ということ
「幸せになんてなれない」、「幸せになる資格はない」ということを鬱になると考えてしまうことがある。それは本当に一時的なものでいつもはそんなこと考えないのだけれど、最近その「幸せ」についてよく感じることがある。
私は今、幸せである。毎日幸せで、地球上の誰よりも幸せだと言える。
※ここからは私の自慢話になるので、もし気に入らないようでしたら読むのをおやめいただいて結構です。
そしてこの文に関しましては「じゃあどこどこの国のあーいう人たちはどうなんだ!」などの意見はご遠慮願います…。そこまで考えた文ではなくあくまで今の自分の環境での文です。
私は今、障害者手帳を持ちB型事業所で働きながら、そして年金を受給しながら生活している。お金はないし高学歴でもない。大きな家があるわけではないし体は元気ではあまりない。好きな洋服はほとんど買えないしお酒も飲めない。
でもとても幸せ。
多分私は『その環境の中で幸せを見出す能力に長けている』と自分で思う。そしてこれは自分の長所であると思っている。
これはまた別のnoteでお話しするが、高校の頃過呼吸になって保健室で泣いていた時、保健室に置いてあった漫画『PEANUTS』をよく読んでいた。
その中でスヌーピーは「配られたカードで勝負するしかない」というようなことを言っている。
(気になったら見てみてほしい。PEANUTSはたくさん名言が書いてあるから読んでいて面白い。)
現代医学では今のところ多分私のHSP気質なところはなかなか変えられないしパニック障害を1日で治す薬はないし鬱を1日で治す薬もないと思う。お金は呪文を唱えても増えないし持っている洋服も家具も目を閉じて開ければ全て欲しいものに変わっているなんてことはない。
それでも、今あるもの、今あるカードで私は私を幸せにできている。
毎日ご飯を食べられるありがたさ、布団が温かい喜び、ぽいんちょとおはようもおやすみも笑って言える安心感、B型事業所という居場所、いつでもかかれる医療がそばにあること…。私は本当に幸せだ。(けしてご飯を食べられるということが幸せだという定義を押し付けてはいない。人には人の、幸せ。)
でも高校生の頃はそんなこと思っていなかった。何でみんなあんなに勉強できるのに私は置いていかれるんだ。むかつく。私ばっかり。どうせ。
毎日苦しかった。死にたかった。何で自分ばかり。どうせみんな。どうせ。どうせ。
自暴自棄で眠るのも怖くて起きるのも怖い。朝が来るのも怖いけど来ないのも怖い。眠れないのに起きれない。制服が怖い。みんなの声が怖い。通学路が怖い。怖い怖い怖い怖い。怖い。
でも、その中でも「あ、幸せだなぁ」と思うことができるようになった。これに関しては本当に私自身も何がきっかけだったのか分からない。いつから前向きになっていたのかも覚えていない。でも、いつの間にか幸せになっていた。
たぶん幸せの尺を他人と比べることにしてしまうと私なんて、になってしまう。だから幸せの尺は「自分」にしている。前の自分と今の自分。少なからずよくなっていることはあると思う。
昨日より今日、私はぽいんちょといる時間が長くなってぽいんちょとより仲良くなれた。昨日より今日、秋を感じることができた。去年より今年、秋をより好きになれた。去年より今年、自分の好きなこと、物、人がたくさん増えた。
私は確実にどんどん幸せになっている。
もちろん悪いことだって増えている。嫌な思い出も、無くしたい記憶も長く生きれば生きるほど増える。
それでも、それも含めて、私は幸せになっている。
そして、感謝することを忘れないこと。たくさんの人が手を差し伸べてくれて、たくさんの人が背中を押してくれて私は今ここに立てている。本当に本当にありがたい。
でも、その助けてくれるたくさんの人に巡り会えたのは自分のおかげだと思う。
他人はいくらでも手を差し伸べることはできる。でも、最後にその手を握るのは自分だ。そればかりは誰もできない。私はその手を握ってこれた。たとえそれがたまたまでも、私はそれを握った、自分の選択で、自分の力で。
多分今後の人生「何で私ばかり…」と思うことはたくさんあると思う。今だって普通に働きたいと思ってしまう。それは当たり前で、上に上にと思うのは仕方ないことだし悪いことではないと思う。でも、私はどんな状況になっても、自分にその時配られたカードをよく見て自分にとっての幸せをいつでも生み出せる。
たしかマツコさんも言ってたけど、差し伸べられた手を握る勇気を、そしてそれができる自分を褒める勇気をいつでも持って歩んでいく。
私は今日も幸せだ。