漫画の持ち込み、初受賞
丁度西暦2000年から、私は正規の規格である、B4漫画原稿用紙に向かい、gペンというつけペンを使って、漫画を描き始めました、商業誌への投稿のために。
それまでは、幼少のみぎりから、広告やカレンダーの裏に、ボールペンで漫画を描くクセが完全に身に付いていて、高校生にまで成長しても、まだそのスタイルを崩さずにいました。楽ですからね、その描き方は。
ある日、このままではいけないですと思い立って、自転車で隣村の文具店に、画材を買いに行きました。しかし、その頃はつけペンは廃れていたのかどうか判然としませんがそのお店においては販売されておらず、仕方なく、インクとケント紙だけを買って帰りました。インクとケント紙だけでどうやって描くつもりだったのか、指で線を引く前衛漫画でもやるつもりだったのかどうか、定かではないですが、まあ、間抜け様である私の事なので、多分そ知らぬ顔してボールペン漫画の方に回帰していたのだと思います。
長じて、遂につけペンをめでたく入手した私は、便利な罫線の付いている、専用の漫画原稿用紙を買いました。無地のケント紙に向かう勇気が無かったからです。
しかしそれでも、初めて、人生において初の、投稿作品を描こうとすると、B4の白紙の大きさがそれ以上に大きく感じられ、何だか、やってはいけない事をおっ始めたような気すらしてきて、すごく緊張しました。同時に、これは我が人生における大きな一歩、分岐点、スタートの号砲、とかいう感じで色々と興奮して(大げさ)、すごく嬉しかったのでした。この時の事は、生涯忘れないでしょうし、忘れてはいけないと思います。
一丁前に、スクリーントーンという、中間色や模様の表現をするための画材まで買った私は、真夏の暑い間、1か月程かけて、34頁の漫画を完成させました。通例、漫画は印刷の都合上、4の倍数で描く事が推奨されますが、そこの所はすまし顔でスルーして、自分を納得させました、半ば強引に。そして、固定電話のプッシュホンを手に取り、持ち込みに行く漫画雑誌の要項の頁を開いたまま、O社に電話で持ち込みの予約を入れました。漫画を描くのにアレだけ緊張していたのに、こういうもっと緊張するような場面では全然緊張しない、変人のワタクシでした。
住まいの尾道から、新幹線で上京し、O社を訪ねました。
思った通り、完成原稿とはいえ、他人様に原稿を読まれている間は、恥じらいの気持ちが大きくして、普段通りに貧乏ゆすりを激しくしたいという欲望に駆られましたが、我慢しました。そして講評を拝聴しました。
やっぱり、キラースルーした、34頁という中途半端な頁数について言及がありました。「と、なると、削るのはこの2頁ですね、描きたい気持ちは分かりますけど」と、編集者さんが仰られました。その通りでございました。それで、よく分からないラストについて、意見を述べられました。このラストシーンには、私は自信があり、よう分からん終わり方じゃけえこそ読者様のお目に引っかかるんじゃ、と、考えていました、姑息な事に。
編集者さんは、この分かりにくさに代わる、面白い案を示してくださいました。やはりプロの編集者さんが提示された代替案は、魅力的で、分かりやすく、誰にでも納得されるような、面白い案でした。ちょっと、初めてという事も手伝ってか、編集者さんに後光が差しているようにも感じられました。プロの世界は違うわ〜、と。
この漫画は、一応、訳の分からないラストがあるという事に目をつむって、賞に応募する選択をして、編集者さんに原稿を預けて、尾道に帰りました。それは、別に持ち帰っても良かったのですが、折角、上京したし、賞に通す好機を自ら逃すのも変な気がしましたから、東京に残してきました。そして秋になり、実家の稲刈りの手伝いなどして、普段通りの生活を送っていました、口の周りに米粒付けて。
晩秋になり、珍しく佐川急便の車が我が実家の庭に止まったよと思ったら、佐川男子が小さい小包を届けて下さいました。それはO社からの物でした。B4漫画原稿用紙サイズよりも、一回り小さかったので、アヤ?原稿の返却じゃあないのか、なら何なんな、と思い、封を開けました。
それが、献本という事象だったのでした。何で献本されたかというと、その中に、ワタクシめのペンネームが掲載されていたからでございます。すなわち、掲載こそされませんでしたが「奨励賞」を受賞したのが分かったのでした!
自分で書くのも恥ずかしいですし手前味噌なので割愛しますが、講評の一部には、ラストシーンが好きでした、よく分からないですが。と、記載されていました。おお!やっぱり、自信のあった箇所が強みになったんだ!と思い、大変嬉しくなり、思わず小踊りしながらガッツポーズを繰り出し、はたから見ていた飼い猫は、コイツとうとう狂ったと思ったに違いありません。
漫画を描き始めました最初の年にいきなり受賞するとは、何と幸先の良い事か!と、また飼い猫に小バカにされるような尻文字を書いていた私でした。しかしながら、そんなには甘くないのがこの世の常と申しますか、その先、3回、受賞、掲載1回、があったのみで、東京の商業誌に載るのはホンマに難しいという事を学習しました。ただ、地元のタウン誌やフリーペーパーに、挿画や1頁漫画を描くような仕事に繋がっていったのは幸運でした。その積み重ねで、現在の私があり、仕事ができるので、大変良かったのには変わりありません。それに、この件はうまくいったケースで、持ち込みにその後何度も行きましたが、ボツ原稿の方が遥かに多い事を、最後に記しておきます、ちょっとシブい顔をしながら。
今回の記事も、拝読して頂きありがとうございました。若い頃の事を書くのは楽しいですね、若返ったみたいに錯覚するので。また書きます。