カミングアウト、するもしないも「多様性」
女性と暮らしている女性であるワタクシ、一応「LGBT当事者」の端くれである。そんな自覚はうっす〜いけどね。私はフルオープン、相方はセミオープン?で生きているわけだが、この「カミングアウト問題」、なかなか根深いものがある。
私みたいに何も考えずにオープンに生きている人はいいとして、「カミングアウトしたいけどなかなか……」とか「カミングアウトせずに生きたいけど、それだと不便もある」とかいろいろ悩んでいる人が多い。今日はこの「カミングアウトするかどうか」の話。
以前は「カミングアウト至上主義」だった
今は「それぞれ事情があるから、カミングアウトするもしないもその人の自由だな〜」と思えるが、以前は「権利を勝ち取ろうとしている当人が隠れててどうする!」なんていう「カミングアウト至上主義」的な考え方を持っていた。
まぁ「権利〜」の基本的な考え方は変わってないんだけど、すべての当事者が啓発活動家になるわけでもなく。「国を良くしたいならみんな政治家になろう」なんてこともないわけで、その辺も「多様性」で良いのかなと。
もちろん「カミングアウトしたいのにできない」人がいることは問題であり、それを阻んでいるのは社会の在り様なわけで、そこは変えていかなければならない。
LGBとTの問題の違い
「LGBT」とひとつに括られていても、「LGB」と「T」とでは抱えている問題が大きく違うところがある。「LGB」は「誰を好きになるか」の問題が大きいので、黙っていればその人が「同性を好きになる人だ」と分からなかったりする。「T」の場合は「自分の性自認」の問題が大きいので、自分の望む生き方をしようとすると、外見的特徴でそれと分かってしまう場合がある。
つまり「T:トランスジェンダー」の場合、「自分らしく生きること= カミングアウト」ということになる。服装や扱われる性を変えたい場合、人に隠しては絶対にできないからだ。なので、自分らしい生き方を獲得しているトランスジェンダーの人には、「権利獲得のためには、まず自分がカミングアウトしなきゃ!」なんて言う人もいる。
なぜLGBTだけ……?
しかし、しかしだ、根本的な問題として、なぜ「LGBT当事者」だけが「自分の性」とか「自分の好きな人の性別」とか、そんな個人的なことを「公表せよ」とか言われなければならいのか……?言うも言わないも個人の自由、カラスの勝手でしょ!?
一般的異性愛の方だって、人に言いたくないこと、探られたくないことなんていっぱいあるでしょ?人目を忍んで何かをするにしろその責は自分が負うわけで、その辺はLGBT当事者の恋愛や生き方も同じなわけで。「誰にも言わない」って決めた人は、その人生に含まれる不自由さも寂しさも引き受ける覚悟なわけだし、「批判されてもオープン」な人は、差別されても戦う覚悟なわけだし。
そもそもこの個人的なことを誰かに話そうとする時に、一般的異性愛の人にはないリスクがあることが問題なのだけどね〜。なんの障害もなければ、「言わないこと=個人としての選択」と見られるけど、今の世の中だと「言わないこと=クローゼット、差別を恐れて言わないでいる」になるもんな。あぁ、フラットじゃない。
早く過去の問題になれ!
現状、体感的には9割方の人がクローゼットで生きていて、啓発活動に関わっているような人には残り1割のオープンな人が多かったりする。社会で「LGBT」なんて言葉が知られるようになったとはいえ、当事者が抱えている問題はほとんど変化していないのだ。
周囲のクローゼットな人には「死ぬまで親に言うつもりはない」なんて人が多い。「理解されるわけがない」「要らぬ気苦労をかけたくない」という悲しい理由……。私たちが死ぬ頃には、そんなことを言う当事者はいなくなっているのだろうか?時代よ〜流れろ〜、早く過去の問題になれ〜。