教行信証の会 2024年9月26日(木)
教行信証の会とは?
佐野明弘さん(大谷専修学院(京都市山科区)学院長)と共に、安田理深「教行信証行巻講和※」を読む勉強会。毎月1回18時から21時。
砺波詰所にて開講中。(zoomでも参加可。)
参加希望の方はこちらへご連絡ください。→6utterf1yeffect@gmail.com
※昭和38年当時左京区岡崎天王町にあった大谷専修学院内にて開講されていた「教行信証の会」の講義の講述輯。
(昭和38年1月座談開始、昭和39年1月時点で6輯。)
このnoteは参加者washidaの勉強用メモです。
第七輯(一) P309
まず聖典の出典箇所の確認。
言葉の大事さとやっかいさ
「いのちが私を生きている※」とあるように、実は「言葉が先」にくる。(※「今、いのちがあなたを生きている」2011年の宗祖親鸞聖人750回御遠忌テーマ。)例えばlanguageとしての日本語の意識構造が、日本語的「思考」を生じさせる。
「法」を指し示すものが言葉。「月を指す指」が言葉であり、言葉で「法そのもの」は語れない。言葉では表現できない「語りえぬもの」は、言葉では「指し示す」事しかできない。(ヴィトゲンシュタイン!)
筏のたとえ「あなたは筏を作り川を渡った後、その後筏を頭にのせて運ぶだろうか?」(阿梨咤経)
「義によりて語によらざるべし、」化身土本巻p420
「一字不説」釈迦はひと文字も説いていなかった。
言葉が思考をしてしまうことがある。とてもやっかいな問題。言葉って心に残ってしまう。
禅宗の修行では、言葉を使わない。言葉は襲ってくる。頭の中でずっとしゃべってる。お経を読んでるとき、頭の中であっち行ったり、こっちいったり、忙しい、うるさい。薫習されていかない。
和田稠曰く「子どものころは、人の名前を軽々しく読んではいけない。と言われてた。」言霊。
親鸞聖人も源空と書いて、上人と呼ばす、本当の名前を呼ぶのは避けている。乱暴な言葉には、乱暴な業が強くはたらく。
釈迦「口を開くときは、聖なる言葉を語るか、聖なる沈黙を守りなさい。」釈迦の教団はとても静かだったという。ガンジーは月に何日か「言葉を語らない日」があり、何か言わなければならない時は、筆談をしたという。現代、何でも好きなように喋れる感覚があるが、昔は「口伝の言葉」として、大事なことは書かれないで、口で伝えられてきた。
親鸞聖人も大事なところは、「偈文」(げもん)や、文字数をそろえたがる。6文字、3文字。
語るときは、ひそかに。昔は言葉に対する意識が高かったのかもしれない。
18願を、人間はそんな簡単に受け止められない。
観経(観無量寿経)韋提希夫人が子アジャセに幽閉された悲劇、悲惨なこと。定散二善(ジョウサンニゼン)序文、悲惨なこと、理想主義的発想が生んでいる。
テキストP310 自覚「的」存在。無常の願、終わらない願、さらに深く呼び返し続ける。
蓮如上人御一代記聞書 聖典p1052
安田先生もよく言った。「帰命せよ」と言われてから、「ハイ分かりました帰命します」ではダメなんだ!「念仏申せ」と南無阿弥陀仏は同時。「帰命せよ」=「南無阿弥陀仏」
KKさんより。先にある事について。
「ヌミノーゼ(Numinose)」聖なるものへの畏怖。ラテン語ヌーメンからルドルフ・オットーが造語。「聖なるもの」(1917)
供養、供(そな)えるではなく備えるではないか。してあげるとかではなく。
KNさん。北陸の方に教えてもらった。新築の家。まず仏間にお仏壇に添える、ご本尊をかけた途端に、一家の主人は「わしの家ではなく、阿弥陀さんの家に住まわせてもらってる。」
今も能登大変。Sさん「ご本尊出してくれ!ご本尊出してくれ!」2階から穴開けて、ご本尊を引っ張り出す仕事。泣いてお参りする。。
木越先生が北米の別院で教わった事、日系の3世4世のご門徒。キャンプ、ハロウィン、イベントは必ずご本尊が中心にあった。
現代は、AIの方が、上手に言葉を作って、慰め、やさしく語ってあげる。心の支えにしてる。AI牧師人気がある。非常に上手。誰が語ろうと、法は真実です。人間は、あまりの悲しみに、うろたえたり、言葉が出なくなったり、AIのように上手く立ち振る舞えない。
仏陀AIは、なんとなく原始仏教、全ての聖典読み込んでプログラムされて成立する。それは、なんとなく納得できる。あり得る。数年で、いつでも私の仏陀がスマホに備わるときくるのではないか。
ただ、親鸞聖人なんて、あんなわけわからない人AIになるか? AIの方がぶっ壊れるんじゃないか?
第七輯(二) テキストP309
まず聖典の出典箇所の確認。
Q:言と言葉の区別、何を注意しているのか。
使い分け、言というとき「言葉にならないものを言葉にした」ということ、
教言といった時には「離言」「離言の法性」
「願そのものは聞く人をこえているが、本願というものは、聞いたことによって顕わになる。text.p311」
話には段階がある。「しゃべる」はtalk、とくに意味のない言葉。「いい天気だね」speakには内容がある。さらに「物語る」は大事な言葉を語っている。理性では伝えきれない者を、物語る。Storyはtell?
48願を18願ひとつの願で読んだ。善導は天才的。48を説く一つの心で聞いてる。言葉になる前の本願がある
人間を本願に触れささんが為に、体験させるために、南無阿弥陀仏という姿をとった。
本願自体は編纂できない、48の願になった時は、編纂できる。言説、言葉になっている。
Yさん:動物の文字という認識、言葉通じない蠕動の類はどうなる?
結局私たち人間の方が、法性を覆う。言葉の概念をもって、真如を覆う。仏説、何も聞こえない。理解したことによって何かが得られたんだ。という感覚。何か覆いがある。
阿難が、お釈迦様がこう言っておられた、逆にいけないと言っておられた。「ではその言葉を残そう。」そこには仏法が残ってゆく、という感動があったのであろう。パーリ語で言葉を限定し、残していった。ただし、それゆえに、閉じてしまうという事がある。南無阿弥陀仏
ミミズには何という言葉通じる?違う言語形態があるのではないか?そう悩む人間こそが「言葉」にとらわれている。言葉でしか考えられない人間が言葉でこだわっている。。
なぜ南無阿弥陀仏になったのか、そのいわれを聞け。
「離言真如法性」
仏陀は無理に言葉にした。「大恩教主」であり、救主ではない。
散文が偈文になっていった。韻文の形式をとったもの。
うたわれることで、響きで、大事なことが伝わる。
意味は分からなくても、唱え続けられてきた、その響きが、たくさんの人生を見てきた。お経の響きがあるようなその中に、私達も命を頂いてきた。
ご縁があると内容をお話しするが、言霊の一つ。響き。声。聞かれるもの。
響いたものがその次のものに響く。
私達が、響きのひとつを形成する。還相のはたらき。法界に回向する。十方に響き渡る。
なぜ人間か?
私達は、「四暴流」生老病死、おしながされている。親鸞聖人、業を渡る、私達は、「生」を荒れ狂いとしてとらえられるか?難しい。
ハッピーバースデイ。生のみの称揚。死んだらびっくりしてしまう。
「生まれる前の記憶」のエピソードは、世界中でほとんど一緒。
「誰のもとに生まれようか?」お母さんを選ぶ。ワクワクする。この時、既に煩悩に取りつかれている。「これで生まれる!」という段になって「しまった!」また老病死を、この流転を越えるために、この生を送らなければならないではないか!!「おギャー」と、生まれた途端に「しまった」さえも忘れてしまっている。
無明から始まる。無明とは何か?
仏教学的には、四聖諦(ししょうたい)などの真理を認められないこと。ただ愚かというだけではなく、人間だけ、苦しめられるのは人間だけ。死ぬ死ぬうるさい、不安、「ああ、どうしよう。」老病死の根底に、生まれたしまった、という苦しみ。この自分に生まれた。
「生苦」
「人間とは?言葉を使う人間とは?」親鸞聖人の尋ねてきた事と重なっている。いつも「わたし」(の心境)が問題だが、「人間」(存在)を問題にしていない。
Oさん、から。例えばアマゾン奥地の部族。遠近感のない世界把握。法は響くのか?
この孤独は近代的理性の問題。自然と分裂していない、大地に所属したピグミー族、業が違うのではないか?大地から圧倒的に離れてしまったから、浄土という、大地が用意されたのではないか?
「苦悩」に見出されてきた。苦悩を包んできた。苦悩を抱えたのは、農耕、年、政治、豊かさと貧困、集団的宗教が発達。言葉が発達。四大文明とほとんど同じ時期に、宗教おこる。宿業の存在、アリも、人間も、蜎飛蠕動の類、原爆を作るおろかな人類も、、!
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