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早稲田卒ニート355日目〜第十一大吉〜
大学3年の頃だったか、その年の3月11日に、特別のわけもなく浅草寺へ行った。特別なわけはなくとも特別な思いはある。それが毎年3月11日である。その曰く言い難い思いが、私の足を浅草寺へ向かわせたらしい。
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浅草寺のおみくじは、筒を振ると数字の書かれた棒が出てくる。その数字と同じ数字が割り当てられた引き出しを開けるとそこにおみくじが入っている。私の引いた数字は11。妙な偶然だと思いつつ中を開けると、大吉であった。
この経験は私に、偶然の神秘性を教えた。
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人はお参りをする。願い事をする。しかし願ったところで叶いはしない。願えば叶うなどという保証はあるはずもない。私どもの思いとは無関係に運命は進行していくという点において、願いとは全く虚しいものに過ぎないではないか。
人間を超えた存在がそこに想定されていなければ、願いは起こらない。何かを願うとき人は、自らの意志の力が及ばぬ限界のあることを認め、したがって願いとはそもそも、本来的に虚しいものなのだろう。
思いが届かないから願いが虚しいのではない。人間がそもそも、偶然性に逆らうことのできない無力な存在でしかないからこそ、願うという行為に虚しさが伴うのである。