早稲田卒ニート37日目〜「無駄なヘッドスライディング」の美学〜
仙台アーケード内に、中央競馬中継所ができていた。確かここで馬券は購入できないはずだが、馬券はスマホで買い、レースはここにあるテレビ画面で見ればよい。
JRA公式のぬいぐるみも豊富に揃えてある。
いずれは全種類をコレクションしたいところである。ちなみに店先のお馬さんは、リアリティあるロボットであった。
さあそして、いよいよ今週日曜は天皇賞である。
最後方から上がり最速の末脚で大外を一気に突き抜ける如く、人生もマクってやろう。今はそのために脚を溜める待機期間である。人生ホームラン主義で生きていく。大逆転の必要な逆境に敢えて身を置いた方が面白い。人生送りバント主義?コツコツ貯めてだって?そんなしょっぺえこと言いなさんな。逆転サヨナラ満塁ホームランだけを狙おう。
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ところで、なか卯は不採用であった。知らない番号から電話が来たので試しに取ってみて何も言わずに黙っていたら、「なか卯の〇〇です」と聞こえたのでその瞬間直ちに電話を切った。するとその直後、「今回は採用を見送らせていただきます」とのメールを頂戴した。
おかしい。今回ばかりはちゃんと靴を履いて行ったのに。こんなに人を選ばず誰でも採用される様なアルバイトに落選するなど、さすがにちょっと先行きが心配になってきた。いやいや、むしろ私が選ばれ過ぎし人間でさえあるということかもしれないとして納得しておくことにしよう。それから、もう2度と靴は履いてやらん。
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私は「落ちた」のである。学生の様に試験なるものを日常的に受ける日々を逃れようとも、こうして「敗北」を経験しなくてはならない。恐らく仕事でも人間関係でも。
高校の野球部に指導へ出向いたイチローに、高校生が質問をした。
2分03秒辺りからそのシーンが始まる。走塁についての質問であるが、それに対してイチローは、
と答える。「アウトにならない様にリードを広く取るべきか」という旨の質問に、「そういうことではない」と言う。
イチローは「綺麗な野球」などと「美」を語るが、それは見た目が綺麗かどうかだけに収まらず、美的価値観や美学の問題でもあると思う。
イチローは他の高校の指導においても、「声を出せ」や「元気が無い」、「声が足りないよ」などと、とにかく声を出す様に言う姿も目立つ。技術の指導から始まるのではないのである。これは興味深い。
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3年前のプロ野球の試合で、巨人が11点差をつけられて負けていた。既に8回であるから、今日はもう敗戦確定である。そこで原監督は、野手である増田大輝を敗戦処理として登板させた。
そのとき巨人は、確か6連戦くらいの最中で、登板スケジュールがすし詰めになっている投手を少しでも温存させるためである。この采配に対しては賛否両論が飛んだが、どうやら「賛」の意見を多く目にしたと記憶している。「アメリカではよくやっていることだからいい」や「原監督が日本野球に風穴を開けた」など。
中畑清も、原采配を理屈的に肯定している。さて、この采配に対する評価はどうだろうか。
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戦いは合理的である。強い奴が勝つ。が、それでは敗者が救われない。そこで、敗北に「美学」を見出す必要が生まれてくるのである。
甲子園なんかを見ていると、プロ野球と比べて、一塁ベースへの全力疾走やヘッドスライディングが目立つ。どれだけ懸命に走ろうがアウトになるに決まっているタイミングなのに全力疾走し、ファーストベースを超えてもなお少しの距離を余分に駆け抜ける。
9回裏ツーアウト、最後のバッターが内野ゴロを打ち、ファーストへ送球。とっくに一塁手が捕球し終わっているのにもかかわらず、つまり既にアウトだと決まりきっているのにもかかわらず、そこでヘッドスライディングをする。これはお決まりの光景である。が、もうアウトになるのは分かりきっているのにヘッドスライディングをするなど、ある観点に立てば「無駄」なことに違いない。それでもこのような光景を見て観客は拍手をするし、テレビ観戦者は清々しさを抱く。それはなぜか。そこに「美」を感ずるからではないか。
実は一塁ベースへは、ヘッドスライディングをするよりも駆け抜けた方が到達タイムが速いし、ヘッドスライディングは怪我のリスクも高まるから止めた方がいい、と言う指導者もいるが、こういう人は、スポーツにおける「美学」が欠如している。
だからといって、合理的なものが美しくないというのではない。合理性とは本来、秩序立っていて無駄が無く、普遍的な美しさを人間の前に提示するものである。例えば自然科学とは、明らかにそういうものである。しかし、そういった合理的美からかけ離れた、凡そ無駄に溢れた非合理が人に感動を与えることがある。そもそも人間が合理性を要求するのは、社会が混沌としてある時だ。しかし今、これだけ経済合理的な言動ばかりが敷き詰められた時代にあってはむしろ、無駄かと思われる非合理の方を求める反作用が働くのもまた、必然的な力学である。
どうせ負けるのだから余計な力は使わずにおこうではなく、どうせ散るなら、最後くらい美しく散ってやろう。少なくとも「プロ」という存在には、それくらいの美意識は持ってもらいたい。敗戦処理への野手登板は、そこにたとえどれだけの合理的な理由が認められようとも、敗北に対する美学を持てぬ人間のする事であるということだけは断っておきたい。原辰徳は、決して名将なんかではない。
そしてまた、人間の死というものが合理的には意味を持ち得ないものである以上、僕らの一生においても、「いかに美しく死ぬか」という問題が提起されるはずである。全宇宙史にたった一度だけ現れたかと思いきやわずか80年程度という一瞬で姿を消すことに、一体何の合理的意味を見出せるものか。僕らの死などは単なる個体の喪失に過ぎず、それが持つ意味は合理的には虚無でしかない。死んだところでどうにもならない。たとえ生がとれだけ充実していようと、虚無としての終わりを引き受けねばならないのである。そんな死の意味を合理的に考えているうちは、いつまでたっても僕らの死は救われない。そこで、「死への美学」が求められることになるのである。それは、きっとどこか、合理性から遠く離れたところにのみあるはずだ。
どうせアウトになるのだからヘッドスライディングをするのは「無駄」だというのは、結果至上主義の価値観である。そこにおいて、過程は結果に対する手段として存在する従属関係にある。つまり、ヘッドスライディングとはセーフになるための手段である。すると、セーフにならないヘッドスライディングは無駄であるということになる。しかし人は、その「無駄なヘッドスライディング」に対して拍手を送る。それはなぜなのか。それは、ここでのヘッドスライディングは最早、セーフになるための手段ではないからである。即ち、無駄なヘッドスライディングによって、結果と過程との経済合理的な服従関係が克服されるのである。「どうせアウトになるのなら、ヘッドスライディングなんか無駄だからやめておこう」ではない。無駄だからこそやるのである。無駄の遂行とは、合理性という虚しさへの抵抗である。その虚無に対する抵抗が、美しさを生み出す。「美学」とは、ややもすれば経済合理性に屈服してしまいかねない無駄を救済する価値観のことである。僕らも死の瞬間にどれだけ「無駄なヘッドスライディング」を決めてやれるか、「死への美学」を考えておいた方がいいかもしれない。
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(※私が「論破」を美しく感じないのも同じ理由である。つまり、そこでの「論理」というものが相手を打ち負かすための「手段」に堕落しているからである。彼らには論理の虚しさがわからないようだ。そしてその虚しさに立ち向かおうとする努力も見られない。これは論理に対する安住である。)