早稲田卒ニート34日目〜「ポスト正解コロニアル」の時代〜
三本松市民センターのゲートボール場は、公園と共に、子供の頃の遊び場のひとつであった。土の上に靴のつま先で不恰好な直線をひくだけでそこに野球場が建築され、時にはドッジボールコートが出現する。そうして一時的に描かれた実体無き空間の中で子供は遊ぶのである。子供は予め仕組まれた世界に順応するのではなく、空間を創造的に構築していくのである。その創造のために、学校の校庭にはなるべく何も無い方が望ましい。子供の頃は、世界に対する先入観無しに、自ら世界を創造的に意味づけていたような気がする。しかしいつからか、先入観という曇ったレンズを通して世界を眼差すようになり、しかもその曇りに気づかないままでいることさえある。
人間は言葉によって世界を意味づけ了解する。言葉とは、世界と私たちとの間に介在するレンズである。すると、その言葉が何かしらの先入観で曇っていると、世界の真相が霞んでよく見えなくなってしまう。時に、ある言葉の意味がそのまま価値判断へと結着することがある。例えば「古い」、「無駄」、「間違い」などという言葉はいずれも、それが使用された文脈に依存することなく直ちに「悪」という価値を私たちに印象づけはしないだろうか。
「君の考えは古い」と指摘されたらば恐らく、自らの考えをアップデートしないといけないと思う。「君のやってることは時間の無駄だよ」と言われれば、無駄をなくして効率化しなければならないと考える。「君の答えは間違いだ」と言われて、ではその間違いを正さなければならないと思わずにいる学生はあるまい。しかし、「古い」も「無駄」も「間違い」も、これらの言葉の中に、「悪」という意味が初めから含まれ定義されているわけではない。古いことは悪いことでもなければ、無駄が悪でもない。間違いが悪いものだという意味でもない。それなのに、これらを「悪」と結び付けてしまうのは先入観である。とすれば、その言葉に対する先入観を一度お祓いしてみる必要があるかもしれない。ちょっと注意しないと、その「悪」に取り憑かれたままでいてしまう。
私は、「正解」を主語または述語に位置付けて発言をしたことが一度もない。「正解は」という提示は同時に「間違い」の存在を対比的に暗示することにもなる。「正解は◯◯です」や、「◯◯が正解です」など、努めて言わぬようにしていた。正解を当てることは間違いを外すことと表裏一体の関係であり、そこにおいて間違いは、取り除かれるべき「悪」としてみなされることになる。
何が正解であるかということ自体に囚われぬようにする必要がある。授業の最後に正答例を配布すると、こちらがまだ喋っているのに目線が机上のそれに集中し、赤ペンを走らせる音が立て続けに聞こえてくる。季節講習において頻発する光景であるが、これは、どれが正解であるかにばかり気が向いた行為である。
間違いを「悪」とみなすことによって、それに対する正解は「善」であるということになるから、「正解」を積み上げることは「善行」を積むことと同義になる。そうであるならば、人の話を聞かずして答え合わせを優先することに何らの無礼も感じないのは物の道理である。本人はまさに善行を積んでいる最中なのである。そうして、勉強は単なる点取りゲームとして錯誤されることになりつつも、しかしそれが「善」である以上、価値的な否定を成し難いという状況を招く。このように、レンズの曇りは、意味を価値と履き違えるのみならず、価値の相対化可能性さえも削り取っていくのである。この時、「善」は「悪」という対立者を失って独り歩きする。「善」はそれが「善」であるという理由で無条件に肯定され、また、「善」である以上それは拡大されるのがよいということにもなる。この「善」と「悪」の勢力関係図は、恰も「文明」と「野蛮」の如き構図である。文明は文明であるが故に優れており、未だ文明化されざる野蛮どもにも文明の光を当ててやらねばならない。また、正解は理性によって導かれる文明的「善」であり、間違いは理性の不足によって生まれる野蛮的「悪」である。すると、間違いという野蛮は一つ一つ、正解という文明によって塗り替えられていかねばならない。即ち、間違いという「悪」は、正解という「善」によって啓蒙(enlightment)されるべきである、と。ここに植民地主義を見出すのは容易なことだ。先入観というレンズの曇りが招く意味と価値の倒錯によって、勉強における正解のコロニーがここに創造されるのである。
そして今この、価値による意味の侵略を反省すべき「ポスト正解コロニアル」の時代に突入しつつある。多様な入試制度の動きというのは、まさしくそんな時代の象徴と言えるだろう。ただしそれが長続きするかどうかは別として。
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