【#Real Voice 2023】 「消えずの火」 2年・佐久間真寛
書くことが全然思いつかず、昨年は高校時代について書いたため中学時代について書こうか、好きな映画について書こうかなど思いましたが、文字数が全然いかなかったため現時点でのサッカーに対する思いを書きたいと思います。
サッカーを始めてから、小中のチームで書いていたサッカーノートにより、毎日自分のプレーや1日を振り返る時間をとることが習慣となり、言語化して思い出そうとすることができている。
攻撃面できたこと、できなかったこと、守備面できたこと、できなかったこと
簡単にいうとこのような項目で振り返り、明日はどんなプレーをするか思いを巡らせる。自分のプレーがいい日はその時間が楽しかったし、悪かった日はそれを取り戻そうと、次の日の練習が待ちきれなかった。そんな自分はどこへ行ったのだろうか。
今日どうやった。
この問いに対し
何したんやろ俺。
と思う日が増えた。もちろんサッカーが嫌いになったわけではない。
でも実際、サッカーのことを考えたくない日が出てきた。それはプロになるという長年追い続けている夢の壁の高さに目を背けられなくなってきたからだろう。大学で出会うバケモノたちが届かない場所、改めて考えるとゾッとする。彼らは能力的な面の高さはもちろんのこと、もっとできるという欲や向上心を果てしなく持っている。いいプレーをしたのに、点を決めたのに「いやーもっとできたわ」と言う。素直に喜んでくれ、天狗になってくれ。
私は悪い意味で大人になってしまったもので、そんな彼らと自分をフィルター無しで比べることが増えた。そして自分の理想とする高さに上ることは困難であると今までより強く感じた。さらに、得るものに対する喜びよりも失うものに対する恐れを多く感じてしまう保守的な人間になった。つまり、自分のかけた労力、時間、期待、それに応じた対価を主観的思考でありながらも見積もり、そこに結果が達しなかったときが怖いのだ。人生のギャンブルはしたくない。特に自分や誰かからの期待を裏切ってしまうのではないかという疑念にセンシティブになり、将来について聞かれたとき曖昧に濁すことがほとんどになった。期待がなければ落ち込むことはない。客観的に言ってしまえば、冷めた目で自分を見るようになってしまった。
Iリーグ国士舘戦にて、1試合で2回のハンド(内1回はPK献上)そしてファウルでのPK献上という大チョンボをかましたあの日も、胃腸炎から復帰したらカテゴリーが落ちていたあの日も、トップの練習に怪我人の影響で飛び入り参加し、最後までボールが暴れたあの日も
「やっぱりな」
と諦めの感情が私自身を喪失感、挫折から遠ざけた。
そんな中、つくづくサッカーという競技は意地が悪いと感じる。
昨年の7月に起こったFCスリップ事件で負った骨折でサッカーができなかったときは、サッカー早くしたいなと思わせてきた。考えられないような展開の試合をさせてきた。私にゴールを決めさせてきた。事あるごとに、もしかしたらと思わせ私の心の火を消させようとは絶対にしない。ピッチ外では絶対に味わうことができないほどの興奮で私自身の脳に大量のドーパミンを分泌させてきた。人間はドーパミンが放出されて快感を得ると脳はそれを学習して、再びその行為をしたくなってしまう。サッカーは私をいわば依存症のサイクルにはめてきた。
このようなことをされたせいで見事にこの罠に引っかかってしまった私はこの競技をまだ自分から手放すことはできないんだ、大好きなんだと思う。そして、私を今まで登ってきた景色よりも高い場所にいこうと突き動かす。
そんな景色を共に見たいと思わせてくれる同期はサッカーよりも意地が悪い。
だから多少失うものがあっても私は、私に期待しサッカーに私の人生をBetしよう。