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【#Real Voice 2023】 「何度でも」 1年・牧野羽瑠

初めまして。
今回、部員ブログを担当させていただきます、1年文化構想学部の牧野 羽瑠(まきの はる)です。
このブログでは私のサッカー人生をありのままに書いていきます。
拙い文章ですが、最後まで読んでいただけると幸いです。






小学校入学と同時に始めたサッカー。

特に誰かの影響があったわけでも、自らサッカーがしたいと言ったわけでもなく、ただ母の後ろをついて行った先が地元のサッカークラブだった。
それまでサッカーの試合は1度もまともに観たことがなかったが、目の前にあるボールを何も考えずひたすらに追いかけてゴールを目指していた。

気がつけばサッカーの虜だった。

2011年に日本で開催されたクラブW杯の決勝。メッシのプレーをテレビで見て、「ボールってこんな風に扱えるのか」と思った。その瞬間からメッシのプレーをずっと見るようになり、よく友達と一緒にマネをしたりしていた。この時に「バルセロナに入りたい」という夢が初めてできた。

得点することの喜びを覚え、日々成長していった私はチームのエースストライカーとなった。引越しの関係でチームが代わってしまったが、そこでも入った当初から実力を認められ、4年生ながら6年生の公式戦に出場し、デビュー戦で決勝ゴールを決め、周囲からの信頼を得ることができた。

そして、私はチームの代表として地域トレセンの選考会に参加した。

しかし、トレセンというものをあまり理解していなかった私は、いつもと同じように参加してしまい不合格となった。
それまで私のサッカーにあまり口出しをしてこなかった父に初めて怒鳴られた。
自分はただなんとなくサッカーをしていたということに気付かされ、本気でプロサッカー選手になりたいと思うようになった。



バルサを夢見ていた私は、父が見つけてくれたスペイン人コーチが指導するサッカースクールに通わせてもらうことになった。
そこでは今までのサッカーとは別次元のことを学んだ。
さらにそのスクールでは夏と冬に開催されるキャンプから選抜された選手で、スペインの大会に参加することができるということを知った。
私はその大会に出場したいと思い、毎日スクールで教えてもらったことを必死に落とし込んだ。

スペイン人コーチにも気に入ってもらい、小学5年生の時に初めてスペインに行くことができた。








しかし、大会中に突然の発熱。
ベッドに寝込むだけの日が続いた。スペインで。


初のスペイン遠征は練習試合と初戦の2試合だけで終わった。





小5にしてかなりショックを受けた。
諦め切れなかった私はそれ以降、中学3年まで毎年そのスペインの大会に参加し、最後の2回はキャプテンも務めさせてもらった。
しかし、最高成績はベスト16に留まった。世界の壁は本当に大きいものだと感じたが、逆に自分が通用するところもあると感じた大会でもあり、自信がついた。



小6の時にはFCバルセロナの下部組織が来日する通称「ワーチャレ」という大会の、街クラブ選抜の選考会があった。この選考会を通過すればバルセロナと試合ができるチャンスがある。
バルサと試合がしたいという一心で毎日過ごしていた。




結果は、不合格だった。
同い年がバルサと対戦しているのを外から見ているだけだった。




「自分には何が足りなかったのか。」
「自分は何を表現すれば他の人に認めてもらえるのか。」
そんなことを考える日々がしばらく続いた。

幸いなことに、私は早生まれであったため1個下の代の大会ではあったが、選考会に参加できる資格を持っていた。

バルサと試合がしたい。

そのことしか考えていなかった私は、自分の足りないところを1から見直した。とても辛い毎日が続いたが、目標のためだと考えたらそんなことどうでもよかった。


迎えた2度目の選考会。
正直、手応えはあまりなかった(笑)
それでも、自分のできることを出し切ってなんとか合格することができた。


本戦では、開幕戦に左CBでスタメン出場した。相手はサガン鳥栖。

前半5分。
相手のロングキックにヘディングで対応しようとしたが、来たボールに届かず相手に裏を取られ失点。
そのプレーをした5分後に交代させられた。
あまり覚えていないが、かなり怒られた。
失点から流れが悪くなり、最終的に0-4で敗戦した。

その日の夜はホテルで何も考えられなかった。
でも次の日にはバルサとの試合が残っている。切り替えて次に進むしかなかった。

バルサ戦。
もちろんスタメンでは使ってもらえなかったが、後半から出場し、20分間バルサとガチンコ勝負をした。(小学生の大会であるため20分ハーフの試合だった。)
結果は後半に2失点をして、最終スコア0-5で負けた。
たった20分だけだったが、受けた衝撃は大きかった。技術、スピード、体格、どれをとっても圧倒的な差を感じた。絶対にこの差を埋めて次は勝ちたいと強く思った。この試合は私のサッカー人生において1番大きな財産となった。



中学は足立区にある街クラブに所属していた。
強豪クラブではなかったが、自分たちの代はとても強かった。
東京3部リーグは1度も負けずに昇格したし、クラブユースでは東京予選で東京1部、2部のチームを撃破してクラブ史上初の関東大会出場を果たした。
私は小6から始めたボランチを中学でも続け、アンカーの位置でほとんどの試合に出場していた。

いま振り返れば中学の3年間が1番サッカーを楽しんでいたと思う。






高校は東山高校に進学した。

練習会に参加した時に、監督から「今年はJ下部で中心だった選手が10人ほど集まるから成長すれば全国優勝も狙える」と言われ、迷わず東山に決めた。

小中ともに特に強豪でもない普通の街クラブに所属していた私はJ下部の選手がどのようなプレーをするのか未知数であった。
中学ではFC東京むさしに1-8でボコボコにされたし、スクールにもJ下部の選手はいたが技術がとても高いという印象しかなかった。

少し不安もあったが、それ以上に期待とワクワクが大きかった。

最初の顔合わせでのミーティングでも監督は選手全員に「この代で全国優勝せなあかん。」と言っていた。


高校での結果は選手権準優勝。



個人としての3年間の結果は、










トップチームで1秒も公式戦に出場できなかった。







高1の始めは少し期待されていたため、1年生チームのボランチのスタメンで出ていたが、その後調子が上がらず。
関西ルーキーリーグで全勝優勝をし、全国ではベスト4だったが、自分が出場したのはCBで40分くらい。
全国に限っては1秒も試合に出れなかった。

高2のときは、選手権で同期達が青森山田に善戦していたことしか覚えていない。

プロ内定が決まったり高校選抜に選ばれている同期を間近で見ていた自分からは、少しずつ自信がなくなっていた。

「自分はこのままサッカーを続けて意味があるのか。」

そんなことを考えてしまうようにもなっていた。
何度もチャレンジしてみるが上手くいかないというのをずっと繰り返していて、当時何を考えてプレーしていたのかは全く覚えていない。

高3。最後の年は絶対にメンバーに入ると覚悟を決めてスタートしたが、蓋を開けてみれば京都3部リーグからのスタートだった。
リーグ戦で結果を残して、後期は1つカテゴリーを上げたが手遅れだった。
最後までトップチームに上がることはできず、高校3年間は終わった。

最後の選手権。
同期のことは心から応援していたが、正直、屈辱でしかなかった。
6万人弱集まった国立での決勝のあの景色は今でも忘れられない。

この高校3年間は人生で1番大きな壁にぶち当たった。打ち砕くつもりだったが、跳ね返されて終わった。






そして現在、私はア式蹴球部に所属している。


入部するために受けたランテストでも、体力に自信がなかったわけではないが5回も落ちてしまった。
一度心が折れかけた時期もあったが、高校での悔しさを晴らしたいという気持ちが強くあったため、乗り越えることができた。

ここでも壁は高い。高校よりも全然高い。
全国を舞台に活躍していた選手が普通に同じカテゴリーに所属している。
全国優勝を経験した選手が何人もいる。

この素晴らしい環境の中で自分がどれだけ成長できるかが本当の勝負だと思っている。

現状として私はア式で唯一メンバーに入ったことがない。周りからはネタにされるけど、感情を表に出さないタイプだから特にキレるとかはない。
ただ、プライドが少し高いため正直内心ムカついている。でも何も言えない。認められてないから。
それでも、挽回できるチャンスは必ず訪れる。今はへっぽこボランチだけど、4年後ア式で1番のボランチになる。









これまで何度もサッカーを嫌いになりかけたし、サッカーを辞めたいと思ってきた。
でも気づけば足でボールを触っている。その度に思う。

「自分はサッカーが大好きなんだな」と。



私の名前の「羽瑠」という漢字の由来は「世界に羽ばたき、瑠璃のような希少な存在になって欲しい」という両親の願いが込められている。
これまで両親に何度も助けられ、何度も迷惑をかけてきたが、その恩返しは何1つできていない。



だからこの4年間で必ず恩返しをする。


大好きなサッカーで。親の願いを叶えて。



牧野羽瑠(まきのはる)
学年:1年
学部:文化構想学部
前所属高校:東山高校

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