【早稲田カップ2025 epilogue】 「私にできること」 R7卒・築地育
早稲田大学ア式蹴球部女子部R7卒築地育です。
今年も参加させていただいた早稲田カップ。
ア女の部員としての最後の活動。
この活動を通しての出会い、感じたこと、気づいたこと、そして明確にできた“私のやるべきこと”を綴らせていただきます。
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早稲田カップへの想い
昨年初めて参加させていただいた早稲田カップ。
子どもたちにたくさんサッカーの魅力を伝えよう。
楽しむ姿をみてもらい地元の方たちにパワーを!
と思い臨んだ。
現地に着くと
心からサッカーを楽しむ子どもたちがいた。
“大学生”という彼らにとっては“大人”な私たち部員が見せること、話すこと、全てが新鮮なようでキラキラした純粋な目で見つめられた。
楽しい!面白い!できるようになりたい!上手くなりたい!勝ちたい!そんな溢れ出る思いのままに過ごす彼らに刺激をもらった。
また、各チームの関係者、保護者の方々、地元の皆さまの温かさにも支えていただき、充実した時間となった。
帰りの新幹線で「1年後も楽しみだ。来年も絶対に参加しよう」そう思った。
しかし、当たり前のように早稲田カップが行われると思っていた自分を反省することとなった。
今年から大学からの支援がなくなり、ア式蹴球部としてこの早稲田カップを開催しなければならない。
0からのスタート。スポンサーを探すことから始まり、学生の負担額や人数制限、会場の問題、開催の雲行きが怪しくなった。
『当たり前』の尊さをこれまで何度も感じてきたはずなのに、「来年も参加しよう!」と当事者意識の低かった自分が恥ずかしくなった。
それでも、早稲田カップ2025を開催することができた。
開催にあたりご尽力いただいた、協賛企業の皆さま、気仙沼、陸前高田の皆さま本当にありがとうございます。この場を借りて感謝申し上げます。
そして、この大会の想いを繋げてくれた部員のみんなに感謝しています。
みう(新4年・伊藤未羽)を中心に私の見えていないところで本当にたくさんの人が動いてくれて実現した早稲田カップ2025。
そんななか、さらに無理を言って気仙沼、陸前高田の両日程に参加できるよう配慮してくれたねね(4年・生谷寧々)にも本当に感謝しています。
行くからには、自分にできることを全力でやろう。去年とはまた、違った心構えで臨んだ。
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私の見た真実
1.すがとよ酒店
陸前高田での最終日。
すがとよ酒店さんへ伺い、昨年に引き続き東日本大震災での出来事を私たちに伝えていただいた。
昨年、初めて菅原文子さん(すがとよ酒店女将)のお話を聞いた時の衝撃は言葉では言い表せないものだった。
地震と津波によって奪われた日常。やり場のない喪失感、怒り。
それでも過ぎていく日々。そんな時にかけられる「頑張ろう」という日本各地からの言葉が苦しかったと語った。
13年前の当時のことを話す菅原さんは、今まさにその感情に襲われているようだった。
「頑張ろう」という一見寄り添っているようにも思える支え方は、被災された方々を苦しめてしまうこともあるのだと…
何をすればいいのか、どんな言葉が正解なのか、当事者ではない自分が何をしても返って苦しめるのではないか
自分がいかに無力であるか痛感した。
今年も衝撃的な映像とともに菅原さんの口から、心が痛くなる言葉を聞くかもしれないと少し身構えている自分がいた。
しかし、そんなネガティブな自分とは裏腹に菅原さんはこうおっしゃった。
「震災から14年、いつまでも過去のことを引きずっていられないので、こんなものを書きました。」
菅原さんの言葉はこれだけで、その代わりにこのお手紙をいただいた。
あの日負った心の傷は癒えるはずないが、もう未来の光に向かって進んでいるのだと感じた。
自分にできることを考えていた私は、何かヒントをもらった気がした。
2.気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館
気仙沼大会では、協賛をしていただいたの株式会社アジア航測様とのご縁で気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館を訪問した。
震災で大切な人を奪われた方々のドキュメンタリーをみたあとに、語り部の方と共に震災遺構を回った。
当時高校の校舎だった建物からは、一目見ただけで地震、津波の恐ろしさが伝わってきた。
私のグループの語り部をしてくださった佐藤健一さんは、当時その地域の避難場所を決定する責任者だった。
「防災意識の高いこの地域で、多くの方が亡くなった。
避難場所を決めたのは私だった。
そこに多くの人が避難し、津波に飲まれた。」
背筋が凍った。
命を奪われたことで悲しみが生まれるだけでなく、重大な選択をしたことで『命を奪った』と感じさせてしまう。
そんな苦しみを背負う人がいるのだと、この震災を憎らしく思った。
「防災マップが全てじゃない。世に出る情報が全てじゃない。自分の目で見て逃げてほしい。」
その言葉から自然の持つ想像もつかない脅威と佐藤さんが自らの口でそれを伝えていくと決意した生き方に心を締め付けられた。
強く生きる。そんな言葉が頭をよぎった。
3.私が伝えられること
2011年3月11日
小学2年生だった私は、父の仕事の関係でアメリカ、ニュージャージー州にいた。
アメリカのテレビに映る東北の様子を受け入れられず、映画か何かだと思った。
当時通っていた日本人学校には、地元のテレビ局が押し寄せた。先生たちは、その対応に追われながら母国の悲劇に不安そうな表情だった。
その日は父の誕生日だった。
毎年当たり前のようにしていた父の誕生日会について家族全員触れることはなく、開催もされなかった。
誕生日とは対照的な空気が築地家を包んでいた。
小学生ながらとても家に居にくかったのを覚えている。
私の震災に関する記憶は、そこから毎年流れる『震災から◯年』というニュースによって更新されるだけに留まり、父への「おめでとう」はいつも複雑な気持ちだった。
【早稲田カップ】の存在を知ったとき、これまで具体的な接点がなかった東日本大震災に触れ、復興の力になれると思った。
しかし、
被害を受けていない私がこの出来事を語り継ごうとするのは無責任ではないか。
サッカーは本当に復興に繋がっているのか。
参加する子どもたちに至っては、震災のときまだ産まれていない。そんな子どもたちに何を伝えればいいのか。伝えるべきなのか。
そう考えてしまうこともあった。
それでも、この2年、計8日間。
気仙沼、陸前高田の方々と共に過ごさせていただいたことで、未来に進むため“私が伝えられること”が何かを明確にできた。
◯何かに注がれる熱は必ず自分とその周囲に力を与えること
「何か」が今回はサッカーであっただけで、これから子どもたちが全力で取り組む「何か」が前へ進む力となる。
ア式蹴球部のみんながこれまで全力で取り組んできた「サッカー」が早稲田カップで活かされ、多くの人の心を動かしていた。
それは上手いからではない、全身全霊だからだ。
そして気仙沼、陸前高田の子どもたちがこれから、その想いを感動を力を周囲に与えられる人になってくれると思う。
◯誰かと共に生きることの大切さ
サッカーを通して、1人では成長できないこと、1人では味わえない感情があることを体験できる。
誰かの言葉が存在が自分の支えとなるように、自分自身も誰かの支えとなれる。
サッカーをしているとそんな瞬間とたくさん出会える。
そして、サッカーではない場面でそれに気づけるようになる。
◯目標を持つこと
大きくても小さくてもいい。
苦しい時、逃げ出したい時、自分の進むべき道を見失わなくなる。
この早稲田カップで私が目標を持って取り組んできた「サッカーとの関わり方」を多くの人に見てもらえたと思う。
そんな私が誰かの目標になれたり、誰かの目標を決めるヒントになれたりしていたらいいなと思う。
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ア式蹴球部の本質
昨年よりずっとずっとこの早稲田カップの本質・意義を考えながら過ごすことができた4日間。
大会中も大会後も多くの方から嬉しい言葉をいただいた。
気仙沼大会の閉会式では、「楽しかった人!」という投げかけに多くの子どもたちが手を高く上げた。
大会中、ふとした瞬間に周りを見渡すと地元の方々と子どもたちと全力で同じ瞬間を過ごす部員がいた。
悔し泣きしてしまう子もたくさんいたけれど、
早稲田カップは多くの笑顔で溢れていた。
そんなア式蹴球部のみんなを誇らしく思った。
サッカーのことばかり書いてしまったけれど、その根底には「人間としてのあり方」がある。
それぞれが自分にできることを考え、体現していた。
そういった、一つ一つが早稲田カップを創り上げている。
ア式蹴球部を創り上げている。
早稲田大学ア式蹴球部は日本の大学の象徴だと思う。
そんな素晴らしい組織が創り上げる、素敵な大会早稲田カップ。
私は、この活動の虜なので、
卒業後も何かしらの形で協力させてもらえたらなと思っています。
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最後に
早稲田カップを通して、感じることのできた繋がりに改めて感謝いたします。
ア女の部員としての締めくくりにこのような経験ができたこと、私の財産になりました。
やはり学ばせてもらう、気づかせてもらうことの方が多い早稲田カップになりましたが、それでも“私が伝えられること”を1人の人間としてこれからも大切にしていきたいと思います。
全力で生きていこうと
強くそう思う。