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「マネージャーとして生きる」 3年・林隆生

大学3年の終わりが近づくと、色々と悩みを抱えるものだ。
就活、人生設計、最上級生になるというプレッシャー、後輩との関わり合い。
挙げたらきりがない。

悩める。
とても悩んでいる。

大抵の悩みは、誰かに吐き出せばスッキリするものだ。
でも、誰かに吐き出しても、なかなか共感されず、最適解も見つからず、モヤモヤが溜まったままのものも中にはある。

「マネージャーとは一体何なのか」という壁。

「マネージャー」とは。
どういう存在なのか。
どういう存在であるべきなのか。
なぜ私は「マネージャー」であるのか。


思考の無限ループが始まっていく。

そういえば、後輩マネージャーたちが、部員ブログで「マネージャー」について書いていたなあ。
1年以上経験が多い身として、彼らよりは鋭い考察ができるはずだ。
何かヒントにでもなればいいや。もちろん他の方にとっても。

「マネージャー」とは、一体なんなのだろうか。




まず、ここに宣言しよう。

私は「マネージャー」ではない。
自分のことを「マネージャー」だとは思っていない。
むろん、他の「マネージャー」のことも「マネージャー」だとは思っていない。

「いわゆるマネージャー」ではない、と書いたほうがいいだろうか。
「マネージャー」という肩書きでア式蹴球部に所属しているだけだ。

何をいきなり、とお思いになるでしょうが、気にせず読み進めてください。
話すと長くなってしまうキャラなので、始めからエンジン全開でいきます。


「(スポーツチームの)『マネージャー』とは、どのような存在ですか?」
「チームの中ではどのような役割ですか?」

皆さんも少し考えてみてください。

これが意外と難しい。
最適解っぽいものは見つかるかもしれないけれど、明確な、絶対的な答えは存在しないと思う。
ある種の専門的分野を扱っているトレーナーや審判、コーチのことであれば、同じ問いでも少しは答えやすいのかもしれない。
でも、「マネージャー」となると難易度が増す。
じゃあ、そもそも「マネージャー」の専門領域って何?

無限の思考ループのさなかです。


少し掘り下げてみます。

では、「マネージャー」という言葉自体を聞いて、どんなことを思い浮かべるだろうか。
雑用? お手伝いさん? 脇役? 黒子?
どれかが正しくて、どれかが間違っているということはない。色々な見方がある。
ただし、一般的に、華やかな印象を持たれることは少ないだろう。

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これは個人の見解だが、マネージャーの役割はただの雑用ではない。
マネージャーには、マネージャーなりの輝き方がある。

ただ、悲しいことに、多くの現場で「マネージャー=雑用をして当たり前」という雰囲気が漂っている。
確かに、チームから求められている仕事のほとんどは、ボトルの水汲みや練習メニューのオーガナイズといった、いわゆる雑用に近いのかもしれない。

ただ、我々の本当の役割は、選手が持たない視点で物事を俯瞰し、新たな気付きや発見を組織にもたらすこと。個人的にはそう思っています。

選手じゃないから、我々は尊い。
選手じゃないから、我々は輝ける。

これこそがマネージャーの存在意義だ。


はい、ここで一旦ストップ。考えよう。

選手じゃないから、我々は尊い。
選手じゃないから、我々は輝ける。

だったら、その方法は「マネージャー」でなくてもいいのかもしれない。「マネージャー」に固執する必要は決してないだろう。
トレーナーや審判などの選択肢もある中で、自分がたまたま「マネージャー」という選択肢を選んだだけのことだ。
ただし、その決断が正しかったと胸を張って言えるようになりたい。他の人にもそう思ってもらいたい。

私のことを話せば、
サッカーをしている時はついつい熱くなってしまって、その熱量が漏れ出てしまうというか、抑えきれないものが声となって出てしまうキャラだった。だけど、サッカープレーヤーという世界から主人公である自分が消えると、この熱量には居場所がなくなってしまった。かと言って、この小さな身体にしまい込んでおけるようなものでもなかった。
でも、久々に心の底から熱くなれるものが見つかったみたい。
爆発的な、メラメラする感情。
大声を出したりする"動きのある熱量"ではなくて、"静かな熱量"。
"動の熱量"ではない"静の熱量"でも、確実に、マネージャーとしての「今の自分」を突き動かしている。

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マネージャーは雑用要員ではない。
もし仮に、マネージャーを雑用要員としてしか見ていない選手がいたとしたら、そのチームにマネージャーは集まらないだろう。

マネージャーに対する選手からの見方は、必ずしも良いものだとは言い切れない。
「風紀を乱す」「チームがまとまらない要因」だとか、色々な言われ方をすることがある。数が多いと特に。

でも、我々の強みは選手じゃないこと
当然、組織の哲学や理念に歯向かってはいけないけれど、選手の考えに全てを合わせる必要はないし、選手の要望全てに屈託する必要もないと思う。

選手じゃないからこそ見えるもの。
選手じゃないからこそ感じられるもの。

それらを大事にしたい。
むしろ、それらが大事にされる土壌を作り出したい。いつだって、我々の視点を必要としてくれる環境を作り出したい。いや、作り出さなければいけないのだ。

スポーツチームにおいて、試合に出て輝くのは選手だ。
そういう意味では、選手が主役になるのかもしれない。

でも、真の主役は選手ではない。
チームに関わる人間全てが真の主役だ。
選手もスタッフも、OBOGの方々、ファンの方々、地域の方々。
その全てが主役となって物語は進んでいる。

でも、マネージャーとは、その物語にどこか疎外感を感じてしまうものだ。
そう、我々の最大の課題は、その物語の中にいかにして「マネージャー・自分」を当てはめていくか。練習や試合といった、マネージャーを主役に据え置くのが一見難しい活動に、いかにして入り込んでいくか。自分ごと化できるか。

ピッチ外では選手とあんなに仲良く喋れるのに、いざピッチの中に入ると、彼らとの心理的な距離ができてしまう。
目の前で練習をしている選手がいるのに、そのわずかな距離の間に見えない壁ができている。壁を作ってしまっている。
目の前で笑っている選手がいるのに、まるで見ず知らずの人間を見ているかのような目で彼らを見てしまう。笑えていない自分がいる。仲間なのに。
これは、あるあるではないでしょうか。

私はこの壁を取っ払うことに成功しました。
結局は個人の意識の持ちよう。いかに入り込もうとするか、そこに尽きてしまう。
でも、そこに辿り着くまでの過程がなかなかに難しい。私自身も同じ経験をしたからこそ、断言できる。

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選手じゃないから、我々は尊い。
選手じゃないから、我々は輝ける。

先ほどこう書いた。
ただ、勘違いしてはいけないことがひとつ。
「マネージャー」という肩書きを得ただけで満足してはいけない。

有名な学校で、チームで、マネージャーをやっている。だからなんだ。所属するだけではなんの価値も生まれない。

「早稲田大学の体育会でマネージャーをやっています」と言えば、大抵「すごいね!」と言われる。でも、そこで満足してしまったら三流。「所属している」と言っただけで「すごいね」と評価されるのはどこか違和感があるから。「すごいね」と言われて喜ぶべきは、多分そこじゃない。

マネージャーというただの外枠に、どれだけ実体を伴えるか。その実体こそ、日々の「積み上げ」である。具体的に言うと、組織の現状を客観的に分析し、常に変化を感じ取り、自分が持っている能力で、その現状をより良くすること。素直さはもちろん必要。
コミュニケーションだけで本物の信頼は得られないし(お喋り上手な人は勘違いしやすいポイントなので要注意)、本物の積み上げとは言えない。



そう考えてみると、マネージャーというものは実に役回りが難しい。

トレーナーや審判、コーチなどと違って専門的な知識は何ら必要ないし、特別な技能を有している必要もない。
最低限の気遣いさえあれば誰にだって務まる役職ではある。なんなら、いずれはロボットに取って代わられてしまう仕事なのかもしれない。

つまり、極論として、マネージャーの仕事は誰にだってできてしまう。
選手にだって、トレーナーにだって代替可能。
その仕事を行うのは、自分である必要はないのかもしれない。

でも、組織にいる以上、最低限の存在意義や存在価値を見出さないことには、組織に所属している意味がない。
だからこそ、誰にでも取って代わることのできるマネージャーの仕事を、自分自身にしかできない「オンリーワン」の仕事に変化させなければならない。
これこそが、我々マネージャーに課せられた大きな使命である。


まずは、チームから求められている役割を理解すること。
そして次に、その中で自分が1番輝ける場所を見つけること。
最後に、そのアクションに周りを巻き込むこと。


我々の主戦場はピッチ内。だから、まずはピッチ内で貢献しなければならない。
ただ、ピッチ内での貢献は、その貢献度を数値化して評価することが難しい。だからこそ、自己満に陥る可能性を大きくはらむ。ここには注意しなければいけない。

もしも、ピッチ内での貢献だけを求めてマネージャーを志望したわけではない、というのならば、意地でもピッチ外で目に見える結果を残さないといけない。広報などといったピッチ外での貢献は、何かと貢献度が数値化されやすい。だからこそ、自己満に陥る可能性は高くはないが、結果が目に見えてしまう以上、その現実とは常に向き合わなければいけない。思っている以上にシビアな世界だ。



マネージャーというものは、実に奥が深くて難しい。むしろ考えすぎなのかもしれない。
でもだからこそ、この状況を楽しめるくらいの余裕がなければ務まらないのだろう。

この境地にたどり着けたことこそが、私のこれまでのマネージャー経験における「積み上げ」だ。



チームへの貢献の仕方は人それぞれ。
マネージャーの業務にマニュアルなんて存在しないし、活躍に制限をかける呪縛なんてものも存在しない。
ただし、自由で広がりを持つものだからこそ、その行動には自覚と責任が伴う。何をやってもいいわけではない。結果を残し続けなければいけない。
でも、ひとたび目に見える結果を残してしまえば、誰かが必ずその頑張りを正当に評価してくれます。

明確に規定された特定の専門領域で生きない、組織の中では稀有な存在
だからこその難しさはある。共感してもらえないこともある。

時には勇気を出してアクションを起こすことも必要です。
つらい経験をして思い悩んでいる人も少なくないでしょう。

何かと色々な現実が見えてしまって、入学時のようなキラキラした目で物事を見れなくなってしまった悲しい大学3年生にできることは、ただひとつ。
誰か(今も未来も)がやりがいを感じられる、よりよい環境を作り出すこと。誰かの代弁者となること。

マネージャーという道を選択したことを後悔する人を1人でも少なくするために。
そして、マネージャーという道を選択した自分に誇りを持てる人を1人でも増やすために。

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↑マネージャー以外から、友情出演2名(笑)




私の素性を知っている方からしたら、林隆生という人間が、「マネージャー」をテーマに語っていることに違和感を覚えるかもしれない。

自分でもこうなるとは思っていなかった。
もっとマネージャー以外の場所で輝けると思っていた。
でも、実際そうはならなかった。
理想とは程遠い場所で丸く収まってしまった。

こういう書き方をすると、どこかマネージャーの仕事を下に見ているんじゃないかと勘違いされてしまいそうだ。
本音を話せば、そう思っていた時期もあったといえばあった。
でも、それは過去の話で、今思えば随分と天狗になっていたものだ。
今ではマネージャーの仕事に誇りを持てるようになったし、それが自分の生きる道だと思っている。
だからこそ、悩みが尽きない。

カメラマンをやったり画像編集をしたり、ア式内では自由気ままにやらせてもらっているが、そんな自分の振る舞いが、後輩にとって良い意味でのお手本ではなく、悪い意味での逃げ道になっているのではないか。本気でそう思い悩む時もある。
自分だって、楽をして今の地位を獲得したわけじゃない。
それなりに苦しい過去を乗り越えて、なんとかここまで辿り着くことができた。
同期や先輩は、自分のこれまでをずっと見てきてくれたからこそ、今の自分に一定の理解を示してくれる。
でも、それを知らない後輩たちに、「マネージャー・林隆生」はどのように映っているのだろうか。ただのカメラマンとしてしか映っていないのかもしれない。
自分の過去を曝け出し、100%の熱量で理想のマネージャー像を体現しきれていない自分が情けない。


まさか、マネージャーのことでここまで悩むとは思ってもいなかった。
こんな文章を綴るとも思ってはいなかった。

マネージャーを始めた1年生の頃から、日々活動する中で疑問に感じたことや気付いたことをnoteやiPhoneのメモ帳にその都度記録していた。気がつけば、ひとつの文章ができあがるくらいの量になっていた。心の叫びすぎて、文章としてのまとまりはなかったかもしれない。
でも、それが今この瞬間、ひとつの形となった。
まだ完結したわけではない。
これからどんな情報を付け加えることができるか。そして、それをどれだけ他人に伝えることができるか。


今も誰かが自分のサポートを求めていないか。
自分の気付きを求めていないか。
自分の助言を求めていないか。

感じろ。そして、行動しろ。
まだまだやれることはたくさんある。

自戒の念を込めて。


マネージャーとして生きる。


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林隆生(はやしりゅうせい)
学年:3年
学部:スポーツ科学部
出身校:都立小石川中等教育学校



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