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【#Real Voice】 「仮面と私」「諦念」「虚」 2年・山田怜於

はじめに:今回リアルボイスがテーマであるため、「今の私」の本音を書いたが、他の人のように「これから俺は頑張って、自分のやりたいことを実現させるんだ!俺が主人公だ!」といったなろう系のようなポジティブな内容ではなくネガティブな内容に寄っています。正直あまり読んで欲しくなさはあります。単純に逃げてきた人間の書くことなので。ただ同学年の平山レオのnoteに共感できたので、私も書いてみようかなと思った次第です。
 
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【序】
「私」は演じるのが得意だ。少なくとも自分自身ではそう思っている。もしかすると実際には他からすれば本音がバレバレなのかもしれないが。だから本当に言いたい本音というものはあまり人前で話したことがない。いや、本当に言いたい本音というよりは「本当の自分の本音」か。そしてその期間が長かったからか「本当の自分というのは何か」すらわからなくなる始末である。
 
人間なら誰しも経験があると思うが、各場面(公共空間・私的空間)と対する人(対親族・対友人・対他人etc...)によって人は「仮面」を使い分けている。公共空間であれば社会のルール・モラルに準じた振る舞い方、私的空間であれば割と思うがままに。親族・友人であれば気兼ねなく話すことができる(本当の)自分、他人であればまるで聖人かのように。
 
そうやって仮面をつけて生きている。
 
「私」も冒頭で述べたように例に違わずいくつかの仮面を演じてきた。それを認識し始めたのは高校くらいからだったように思う。学校で過ごすときの仮面、サッカー部の部長としての仮面、学校の代表としての仮面など、必然的に使い分ける機会が増えたことも影響していたのであろう。そしてそれらが非常に有用であることにも気付いてしまった。
単純に楽なのだ。
ある意味それらは「本当の自分」であって本当の自分ではないから。

だからどんなに嫌なことがあろうとも我慢できるし、下手に使い分けることが上手かったから、すぐに切り替えて他の仮面に付け替えていた。そうして気付いた時には仮面の数も増えていたし、割れ目ができたり、粉々になってしまった仮面もあった。
スクラップになったそれらを含めて自分であることを認めてあげるべきだったのではないかと「今の私」は思っている。(もう遅いか。)
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【破】
こうして書いてみると、実際に仮面を被って初めて逃げたのはおそらく中学だったことに気づいた。
 
中3の夏、横浜FCのJr.ユースに所属していた私は内部昇格の内定をもらった。当時の自分はおそらく全国大会に出るようなチームで出場することができていたから下手くそではなかったが、身長のことが常に頭によぎっていた。
中2の時に当時の代表のGKコーチが来ていて、その人の私に対する評価が「技術はあるけど、もう少し身長が伸びたらいいね」だったのである。GKには身長が必要であることを認識した瞬間であった。
 
そこからが地獄だった。
 
小学校からとんとん拍子で挫折も経験せず成長してきた分、周囲からの期待も大きかった。
「いずれはプロに」
「代表になってテレビで見ることができるようになるのかねえ」
小学校・中学校にはこうした言葉をよくかけてもらっていたしありがたかった。それに対して絶対に期待に応えて見せるという意欲も、実現させるビジョンも見えていた。
それが一気に反転した。
 
周囲からの期待は自分を蝕む毒となり、これまであった将来へのビジョンは遥か彼方へと消え去っていった。なんて名前かは忘れたが身長を伸ばすために必要な栄養剤も飲んでみたし、身長を伸ばす方法も何度も調べた。
しかし伸びない。頑なに伸びない。なぜ伸びない?
 
ユースに内定をもらった理由も骨密度検査で高校年代で身長が伸びるとされたからだったはずだ。
ならば伸びるはずだ。医学を信じることができなくなったらそれこそ信用できるものは無くなってしまう。高校までは可能性を信じてみよう。
そう思いたかった。
もう糸は切れていた。
 
家庭の事情でユース始動の直前に辞退した。
両親は直前まで家のことは気にしないで行きたいなら行けと言ってくれていたが、一度逃げる口実ができたことで私の気持ちはすでにそちらに流れていた。高校で活躍しているビジョンは見えなかった。間違いなく家庭の事情という隠れ蓑を使って逃げたのである。
 
(誤解のないように書いておくと、いきなり辞退したわけではなくもちろん事前にそういう可能性があるという話はさせていただいていた。)
 
「私」は仮面を被った。
ユースに行っていれば間違いなく素晴らしい環境で、中学からともに頑張ってきた仲間と共に戦い続けられるし、「私」の夢であるプロになって周りの期待にも応えることができる。
だけどこれまでサッカーしかしてこなかった「私」に足りないのは他の経験だ。ならばサッカーだけではないバックグラウンドを持った多くの人が集まる公立高校、鎌倉高校に入学することが間違いなく「私」の将来に役立つと思い受験した。グラウンドは土だし海風で砂が持っていかれてコンクリみたいになることも多々あってGK練習は痛みを伴うものでしかないけど、要は「私」がそこで何ができるかだ。周りも環境なんて関係ないっていうし、「私」もそう思う。(環境は間違いなく関係あるし大事だろ。綺麗事言ってんじゃねえよ。)
幸いここは青春偏差値日本一らしいし学校生活も充実して楽しいさ。

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実際、サッカーだけやっていたら出会うことがなかった人とも仲良くなれた。今でも結構な頻度で飯に行ったり、PCゲームもする。それだけはかけがえのないものだし今の私を支えている。(感謝してます。)

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【急】
これまで過去について書きすぎて、今について全く触れていないので書こうと思う。
 
つい先日、早大ア式FC(社会人リーグ)の最終節が終わった。
FCチームとしてはもしかするとこのチームでやる最後の公式戦になる可能性もあり、それぞれがさまざまな思い入れを持って試合に挑んでいた。私自身も同様の気持ちだったが、それに加えて今シーズン抱えてきた「ジンクス」を解くためには勝利が必要だった。
 
私は今季のFCの初戦、そして2試合目に出場しどちらも勝利できずそのままスタメン落ち、そして変わってスタメンになったドリンさん(3年:宍戸凛)が勝利を収め続けた。(ちなみにその時から今の今まで彼が出て負けた試合は一度もないので彼はバケモノ)
そして私はというとスタメン落ちから膝の怪我、ワクチンによる重度の副作用などを繰り返し、約4ヶ月弱公式戦にかかわることができずにいた。この期間のメンタルはズタボロであった。
サッカーというのは勝ってなんぼのスポーツでもあるので、チームを勝たせる選手が評価され勝てない選手が評価されないのは自明の理である。
そのため、もちろんそんなことはないと思うが「試合に出ると勝てない」と思われているのではないかと一度思ってしまうとそれが引き金となりズルズルとメンタルが落ちていった。
初めの頃こそこれまで通り演じることでメンタルを保つことができていたが(できているつもりであった)、ちょくちょく膝の怪我から復帰している際の練習中に声を出すのもきつかったし、実際練習場にいるのも人と話すのも辛くなってしまった。寮のベッドで座ってぼうっとしているのが一番楽になってしまうこともあり、これではまずいと茨城に一人旅をしにいったり尾瀬に高校の頃の友人と歩きにいったりしたが、「疲れた」が最初に来てしまい虚しくなるだけであった。
(景色や経験は非常に良かったし楽しかったし、まあこれで治るくらいのメンタリティならそもそもそこまで落ち込まないだろうから気にしてはいない。)

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やはり、時間と距離というものが一番の解決法のようで、コロナによる活動休止期間などで物理的にも時間的にも離れたことで考える時間ができ、そこから少しずつ向き合うことができるようになった。そうして今に至る。
こうした経緯もあって、私は最終戦に懸ける思いと怖さが恐らく人一倍強かった。試合に出なければ負けることもないが、試合に出て勝たなければ一生このジンクスが残る。ただ、試合に出るのはやはり楽しいこととわかっていたし、チームを勝たせるためにできることを最大限やらないのは信念に背くことであった。だから当日までは無心で何も考えずに試合に挑もうと思っていた。最終戦だからとか、これまでのジンクスとかを考えたらおそらく自分に負ける。チームが負けないためには私が感情に揺れることなく心を無にして戦うことが必要だと思ったのである。
 
ただそれは実現しなかった。
 
図らずも最終戦ということで試合前に4年の想いを一人一人聞いてしまったからである。
FCに対する想いや、この最終戦にかけてきた想いには信念があったし、FCの4年生に対する私の信頼は非常に大きかった。その想いを背負って戦わないことは私にとってあり得なかった。
結果としてはその想いに報いることができたのではないかと思う。(試合を見た人しかわからないが、だからこそのGKの長さだったのである)
私は勝利に対する嬉しさよりも安堵の方が大きかったが。
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この期間を過ごしてひとつ思ったことは、時に「正論」や組織の中の「そうであれ」は盾で人を殴ることになりかねないということである。
属している社会の中では当然その社会の理念に共感し、共に理想を目指すことが求められるし、それはひとつの姿として正しい。ただ、そうした理念や理想は時に恐ろしいほどに人を殴るものとなる。全員が全員「正論」が正しいと常に考えることができるわけではないし、内心では分かっていてもそれを受け入れることができる器がすでに溢れてしまっていることもある。それに気づかずに組織などの存在意義を守るはずの盾を個人に向けた瞬間それはもう盾ではない。
また、個人の盾となる「プライド」を時に捨てろという人もいるが、それは個人的には違うと思っていて、最低限自分を守るプライドを持っていないと気づいた時には折れていることもある。
組織は個人を守る盾であるべきではないか。
こんな社会の中では尚更。

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(読んで頂きありがとうございました。)



山田怜於(やまだれお)
学年:2年
学部:社会科学部
前所属チーム:鎌倉高校


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