【#Real Voice 2024】 「主役」 1年・斎藤直晴
初めまして。日本大学藤沢高校から来ました、斎藤直晴です。今回は、今までの自分とこれからの自分について書きました。どーせ、部員ブログでもちょけるだろと思ったそこのあなた、ざんねーん、ちょけません。今回は、普段あまり見せることのない、真面目な斎藤直晴を見ることができるでしょう。長い文章ですが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。
まずは経歴から。私のサッカー人生の始まりは幼稚園生の頃まで遡る。親の影響で、始めたサッカーは、最初は何もうまく行かず、楽しいことなんてなかった。けれど、平日は、地元のサッカークラブの練習をし、週末は父親と2人で午前も午後も練習をし続けた。とにかく、ずっとサッカーに触れていた。すると、練習や試合でうまくいくことが増え、サッカーが楽しいと思える様になり、いつの間にかサッカーにのめり込んで行った。そして、小学5年生の頃、「強いチームに入りたい」という思いで、地元の強豪チームである、三菱養和巣鴨ジュニアのセレクションをフィールドプレーヤーと、遊び半分でやっていたゴールキーパーの両方で受けた。結果は、「ゴールキーパーなら合格を認める」そう言われた。父親と練習していたのはドリブルやパス、シュートの練習。チームでも、フィールドプレーヤーとして出場することが多かったし、得点を決めた時に感じる喜びは何にも変えられないほど嬉しかった。しかし、養和でプレーしたいという思いは固く、即決で「ゴールキーパーとして、プレーさせてください」と言った。そこから私のゴールキーパー人生が始まった。その後、養和では2年間プレーさせてもらった。ジュニアユースのカテゴリーに昇格が叶わなかった為、中学はFCトッカーノという世田谷区の街クラブでプレーをした。新型コロナウイルスの蔓延などにより、思うように過ごせた3年間ではなかったが、海外遠征やたくさんの試合を経験することができ、それなりに楽しかった。高校は神奈川県の日本大学藤沢高校というところに進学し、3年間プレーをした。3年間で4度の全国大会を経験することもできた。そして、自己推薦入試で、早稲田大学のスポーツ科学部に合格することができ、今はア式蹴球部の一員としてプレーしている。これが、私の今までのざっくりとした経歴だ。
「なおは苦しい立場だけど、頑張っている」
この言葉を、今までのサッカー人生で何回、言われたかわからない。
サッカーは1チーム11人でやるスポーツである。しかし、チームは11人だけでは決して、成り立ない。ほとんどのチームが余るほどの人数が所属しており、試合になれば、スターティングメンバーから外れる選手がいて、ベンチ外(ベンチにすら入れない)となる選手もいる。ベンチやベンチ外になった選手は、試合に出場したいという悔しさを押し殺して、チームのために行動しなければならない。スタメンの選手のサポート、自分が出場する時のための準備。仲間への声がけ。やることはたくさんある。その上で、サッカーを始めてから今まで、ずっと試合に出続けている人なんていないし、誰もが試合に出られないという状況に直面することがある。だから、「試合に出られない時、うまくいかない時の立ち居振舞いが大事だ」ということはサッカーをやっている人ならば、必ず一回は言われたことがあるだろうし、私自身も何回も監督やスタッフに言われてきた。その上で、先ほどの言葉に戻ろう。
「なおは苦しい立場だけど、頑張っている」
私は、今までのサッカー人生において、試合に出られない期間のほうが長い。というより、試合に出られない期間がほとんどだった。たとえ試合に出られたとしても、うまく結果を残せない、そんなサッカー人生だった。特に、高校時代は公式戦に数えられるくらいしか出場していない。全国大会を4度経験したと言ったが、試合に出場したのは0。全て、ベンチ、バックアップメンバー(ベンチ外メンバー)だった。さらに、Aチームのリーグ戦にすらほぼ出ていない。当時の写真を振り返れば、ベンチでビブスを着ている写真(一時期のインスタグラムのアイコン)や、チームの集合で変顔をしている写真ばかりである。
そんな状況でも、私はチームサポートやスタメンの選手のサポートやサブの選手への声かけなど、他の選手が嫌がることを積極的にやっていたし、自分が出ていない試合の勝利も仲間と共に、派手に喜んだ。だから、この言葉を何度もかけられたのだと思う。周りから見れば、試合に出られないのに、悔しさを押し殺して、積極的にチームのことを考えて行動できるやつだったのかもしれない。
だけど、正直に言うと、私に、
試合に出られないことに対する、心の底から湧き出てくる「悔しい思い」などなかった。
「試合に出たい」「なぜ俺を出さない」サッカー選手としてあって当たり前の感情がそこにはなかった。高校まではそう思っていたし、試合に出られないことに気持ち悪さや違和感を覚えていた。しかし、いつからか、サッカーを始めた時には強くあった試合に出られない不満や苦しさなどが、薄れていった。「試合が怖い」「出たいけど出たくない」そんな思いばかり募り、練習の最後に行う、紅白戦(10分程度)ですら、緊張で足がガクガクに震え、吐きそうになりながらプレーしていた。今じゃ考えられないけど、「早く、試合、終わってくれ」そう思いながらプレーしていた。そこには、サッカーを始めた時にあった、「楽しさ」などどこにもなかった。
考えられる要素はたくさんある。元々温厚な性格だったこと。プレーするのがGKという、試合に出られるのが1人であり、交代での出場はほぼないという特殊なポジションであるということ。高校2年生から、トップチームに登録されるも、試合に出られないという状況が続いたこと。失敗体験ばかり蘇るくらいメンタルが激弱だったこと。試合に出られないことで、自信がなくなっていったこと。いつしか、試合に出られないことを受け入れてしまっている、自分がいた。
その時の私の、立ち居振る舞いなど価値がない。悔しいという思いを、押し殺しながらやることに意味があるからだ。今になってそう思う。
そんな中、迎えた最後の選手権。「日本一」という目標を掲げ、試合に出なくてもいつも通り、行動した。自分が出る、出ないに関係なく、このチームで「日本一」になりたい。そう思っていた。迎えた初戦。ベンチから試合を見守る中、先制点を奪うものの、同点に追いつかれPK戦の末、負けた。結果は、2回戦敗退。最後に相手がPKを沈めた瞬間、試合が終わった瞬間、肩を組んで見守っていた横の奴が崩れ落ちる様に号泣した瞬間、「終わったな」と、自覚した。それと同時に、とてつもない悔しさと苦しさが湧き上がってきた。出られないまま、終わってしまったって。
そこから誰にも相談はしていないけど、大学でサッカーを続けるかどうか、毎日悩み続けた。すごいメンバーたちがいるのは知っていたし、そんな中に高校で試合に出ていないやつが飛び込んでも通用する自信などなかった。どーせ、また試合に出られないでしょって思った。ただ、自分が導き出した答えは、
「ここで終えたくない」だった。
自分のサッカー人生が負けっぱなしで、誰かの「陰」に隠れ続けているだけの、ちっぽけなものであることが、どうしても許せなかった。同時に、今までずっとそばで優しく、温かく支えてくれた母親、自分が出ない試合まで選手名簿を持って、見にに来てくれた父親、弟の試合を北海道まで見に来てくれた姉。チームメイトに名前を覚えられ、大好きで、大切な家族に恩返しがしたかった。このままじゃ俺のサッカー人生、終われない。
だから、私は大学で、サッカーをする。
圧倒的な技術不足でジュニアユースに上がれなかった小学生時代、試合に出ても、結果を残せなかった中学時代、試合に出られないのにも関わらず、悔しいと心の底から思いきれなかった高校時代。「陰」に隠れ続けていた今までのサッカー人生。
全てを払拭するために、私はア式で、サッカーをする。
そして、題名にもある通り、私はここからの4年間で必ず、この組織の『主役』になる。ア式蹴球部で活躍し、結果を残す。そして、今までのサッカー人生でつかめなかった『主役』になる。
高校で試合に出ていなかったやつが活躍できるのか。優れた経歴や実力を持った選手に立ち向かえるのか。実際、同期や先輩を見れば自分より、経験があって、上手い人ばかりだ。私が現状、勝っているところは1つも無いかもしれない。試合に出て活躍するなんて、簡単ではないことはわかっている。
ただ、決してその状況に納得してなんかいないし、必ず追い越してみせる。どんなに困難が迎えようとも、乗り越えてみせる。そして、必ず自分が、このチームの『主役』となって試合で活躍してやる。その様な、高校の時には消えかけていた、「情熱」が、今の私にはある。
最後に、私は早稲田で「日本一」を成し遂げる。高校の時、試合に出場することもできずに、成し遂げられなかった「日本一」を、長らく早稲田が成し得ていない「日本一」を『主役』として成し遂げる。
そして、ア式の、大学サッカーの、自分のサッカー人生の、『主役』に、私はなりたい。
いや、なる。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回のブログ担当者は、三輪一晴(1年・名古屋高等学校)です。
トレーナーとして、選手の士気が上がるアップを行うとともに、たくさんの仕事をこなす彼の最大の魅力は、なんといっても、可愛いらしい「声」今回、一晴のブログのみ、文字ではなく、音声での作成になります。嘘です。すみません。声が聞けないのは、悲しいけど、きっと面白い文章を書いてくれることでしょう。
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