【#Real Voice 2024】 「山あり谷あり」 1年・網代陽勇
はじめまして。
この度部員ブログを書かせていただくことになりました、スポーツ科学部1年網代陽勇です。
サッカーを始めて14年。
幸運なことに、今もサッカーを続けることができています。
サッカーを始めての14年間、サッカーを通じて様々な経験をさせていただきました。その中でも、印象に残っている高校サッカーでのこと、そしてア式蹴球部に来てからのこと、これからのことについて書きたいと思います。
長くまとまりのない文章になってしまいますが最後まで読んでいただけると幸いです。
きっかけ
第97回大会全国高校サッカー選手権大会
準決勝尚志対青森山田
私はこの試合で尚志のFW染野唯月選手に魅せられた。
セットプレーからニアでそらした見事な先制点。
相手3人を欺くキックフェイントからの2点目。
味方が綺麗に繋いで最後は流し込んだ3点目。
すげぇ。かっこいい。
間違いなく、この試合が私の進む道を決めるきっかけでした。
私は親元を離れ、尚志高校に入学することを決意しました。
高校サッカー
1年目は入学早々の大怪我に悩まされ復帰してもなかなか試合に絡めない日々でした。2年目からはTOPチームに昇格し試合に出場する機会が増えました。そして、その年の冬に迎えた第101回高校サッカー選手権大会が、私にとって大きな転機になりました。
スタメンで出場させてもらい初戦で2G1A
当時はまだ2年生で、頭に包帯を巻いていたこともあり、注目を浴びました。憧れの舞台でゴールを決めたことで、夜も眠れないほど興奮しました。しかし、中日の練習では頭のケガを理由に休み、どこか慢心していた自分がいました。
そして迎えた2回戦ではゴールへの欲望が強く、チームプレーを無視して個人技に頼りすぎた結果、前半終了間際に無理な体制から左足シュートを放ち左膝の内側側副靱帯を負傷しました。
そのまま負傷交代しチームは試合に敗れました。
試合後監督にめちゃくちゃ怒られた。厳しい言葉を沢山貰った。
このままではダメだと痛感しました。そんな嬉しかったり悔しかったりのあった初めての選手権でした。
3年目最高学年となった私は調子が上がらず自信をなくし消極的なプレーばかりしていました。
味方からの要求に対して迷いながら振ったシュート。自分のプレーの何が正解で何がチームにとって必要なのか分からない。そんな状況でシーズンを戦っていた事チームのエースとしてチームの9番としての重圧、プレッシャーも重なり練習に集中できないことが多々ありました。2年生の頃とは打って変わって悩みながらプレーしている私がいました。
そしてそれは気づいたら
プレミアリーグ最終節にまでなっていました。
チームは優勝のかかった大一番でメンバーに入っていない選手も福島からわざわざ応援に来てくれていました。
相手は前期私の迷ったプレーでのバックパスミスが原因で失点し負けた相手、川崎フロンターレ。
正直ボールを受けるのが怖かった、ミスしたくなかった。
そんな気持ちで試合臨もうとしている私がいた。
試合前に監督が
「ピッチに立っている11人が責任と覚悟をもって戦いなさい、頼むぞ。そして楽しめ」
自分がとても恥ずかしかった。
尚志高校サッカー部全体で11人しかピッチに立てていないのに責任や覚悟を持って試合に挑めていないそして何よりサッカーを楽しめていない私が。
試合が始まった。
先制点こそ奪ったものの後半開始早々に追いつかれ以降も相手にボールを握られる苦しい展開だった。
後半37分だった。
DFにあたって跳ね返ったボールが目の前にころがってくる。ファーストタッチをした後落ち際を叩いたボレーシュートは綺麗な弧を描いてゴールネットに突き刺さった。迷いながらプレーしていた私が完全に吹っ切れることが出来た瞬間だった。
試合はそのまま2対1で勝利した。
優勝こそ逃したが高校最後の年をプレミアリーグチーム最高成績2位で終えることが出来た。
そんな中で迎えた3年目の全国高校サッカー選手権大会 高校サッカー最後の集大成
プレミアリーグで好成績を残せていたこと
大会前の練習試合でも負けなかったことから
正直どこのチームにも負ける気はしなかった。
結果は初戦敗退。
人生で1番短い80分間だった。
もっと仲間と戦っていたかった。
そして日本一を取りたかった。
私の高校サッカーは終わってしまいました。
そんなこんなな3年間を過ごして私は今ア式蹴球部に所属しています。
ア式蹴球部に来てから
私はア式蹴球部に来てからなんの結果も残せていません。それどころかまともにサッカーすら出来ていません。
理由は脳震盪
今年の3月にキーパーとの接触で1度目の脳震盪
4月には練習試合で相手DFとの頭のぶつかり合いで2度目
3度目はセットプレーの練習中にクリアした時
スパンが短かったことそれに何回も連続して繰り返してしまったことが原因で当分脳が揺れる可能性のあることを制限された。練習にはもちろん参加できませんでした。
脳震盪は普通の怪我と違ってどこも痛くない状況それでいて復帰の目処も見えない。
何をしたらいいのか分からない毎日でした。
同期がどんどん試合に出て活躍している姿を見てめちゃくちゃ悔しかったり、辛かったり焦りも感じていました。
診察に行ったら先生に
「30代40代になった時に脳の機能が低下して名前を呼べなくなるかもしれないですよ」
「サッカーをやめるという選択もあるのではないか」
結構キツめなことを言われました。
しかし私はサッカーをやめるという選択肢は考えられませんでした。
それは私がサッカーが大好きだから
私の人生の1番がサッカーだから
正直それ以外に答えはありませんでした。
8月に復帰し、試合に出場。
交代直後にゴールを決めました。
私がゴールした時に自分の事のように喜んでくれる仲間。ゴールした時のあのなんともいえない感情。これを私は忘れられない。だから私はこれからもゴールを追い求め続けるし私にサッカーができるまでサッカーをやり続けます。
改めてサッカーの素晴らしさを実感しました。
その後、再診に行った際、復帰していることを伝えたら
先生に「復帰するにはまだ早い」ってだいぶ怒られちゃったので10月末まで再びサッカーは出来ませんが今は出来ることを全力で取り組み感謝の気持ちを忘れずに必ずパワーアップして帰ってきます。
これから
大学の4年間で
「プロサッカー選手」
「日本一」
この2つのことを必ず成し遂げます。
「山あり谷あり」
人生良いこともあればよくないこともある。
そんなありきたりな言葉ですが、私のモットーなのでタイトルにさせていただきます。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
次のブログは林奏太朗(1年・サガン鳥栖 U-18)です。
彼の左足から放たれる滑るような縦パスは見ていてとても気持ちがいいです。CBからボランチまでこなすスーパープレーヤーな彼は早慶戦では自身を祝うバースデーゴール。こんなすごい彼が何を思って何を書くのか期待大です!
是非読んでください!
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