「だからぼくはサッカー選手をやめた。」 3年・西川玄記
本日バースデーボーイなニシカワハルキです。
最初に言っておきますが、ぼくはひねくれて尖った人間ではなく、ポジティブで明るいナイスガイです!
まずは誕生日に担当させてくれてヤシくんありがとう。団子買ってあげるね。
らしくないけど真面目にいきます。
スタート。
自分の「好き」が“好き”ではないと分かったとき、人生がすごく楽になった。
ぼくはサッカーをすることが「好き」だと思っていた。
でも練習に行くのが面倒くさい、ツラい。億劫になっていた。
試合の日には変にプレッシャーを感じて体が重くなる。
サッカーが「好き」という言葉で自分の本音に蓋をして、自分を騙して、“好き”を追求しているとカッコつけていた。
うっすら「好き」の裏にある本音に気づいていたけど、「好き」が“好き”じゃない事実を認めることが、これまでの自分を否定する気がして、ずっと目を背けていた。
自分に素直に向き合うことができず、何か心の中で引っかかっていた。
それでも外向きには笑っている自分がいた。
それを客観視している自分もいた。
色んな自分が本音を隠して心の奥底から笑えた日はなかった。
そして高校サッカーが終わった。
幸い1年間の浪人生活を選んだからこそ、嫌でも自分の本音に向き合う時間ができた。
その本音は簡単なもので。
認められたい。
褒められたい。
といった、「承認欲求」だった。
練習は面倒くさくツラく、試合は億劫になるが、仲間や家族や観客からの称賛を得るたびにその経験がクセになった。まさに承認欲求を外からの称賛で満たしていた。
「好き」の裏に存在する本音は“認められたさ”だった。
だとするとサッカーをすることはこの欲求を満たすための手段であり、この世の中には他の手段になり得るものは無数に存在する。
じゃあ無理して続けなくても良い。
サッカーしかしてこなかったから、視野を広げて色んな経験をして手段を増やして選んでいけば良い。
それでも、大学生になったぼくはサッカーに固執した。
うまく言いくるめる気がないので正直に言うが、まだまだ自分に甘かった。
新しい環境に飛び込んで、チャレンジすることが怖かった。
上で述べた通りまだまだ未熟で甘い自分だが、「好き」の本音を理解して受け入れたことで、他にどう思われようが自分自身が納得する決断ができるようになった。
だからぼくはサッカー選手をやめた。
確かにやめる必要は必ずしもなかった。
何をするにも、自分が嫌なことはセットでつきものだから。
でも甘くて未熟な自分を自覚して、何か変化しないといけないという衝動に駆られていた。
声を大にして言いたい。
逃げではない。
慣れない日々は苦しくて、泣きたくて、時には体を壊してしまうこともあった。
手術もしたな。笑
でも、昔の自分が目を背けていた違和感はなかった。
“今”に夢中になっている。
選手をしていた時よりも圧倒的に自分が自分でいる実感と結果を手にしている。
自分にとっては大きな大きな一歩だった。
このように多くのことを経験し、気づき、考えることができたのは他にもないサッカーのお陰。
必ず将来恩返しします。
今後も変化し続けて、多くのことを経験して、手段を増やしていこう。
最後に、サッカーに固執する理由をひとつ。
やっぱりサッカーを通じて出会う仲間は最高だ。
良い時は全力で喜んで、悪い時は死に物狂いでもがく。
1人では絶対できない。
仲間がいるからこそ見える景色が必ずある。
今年の早慶戦は任せといてよ。
みんなのためならどこまででも頑張れそう。
“好き”が溢れる同期たちとの最終章が楽しみで仕方がない。
みんなで頑張ろう。
こんなぼくのブログを読んでいただいて、ホントにありがとうございます!
未来は分からないことだらけですが、新たな日常を楽しんでいきましょう!
止まない雨はないですし、曇り空の上は青空が広がっていると言いますよね。
それでは失礼します。
◇西川玄記(にしかわはるき)◇
学年:3年
学部:スポーツ科学部
出身校:金沢桜丘高校