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【#Real Voice 2023】 「本物の幸せ」 4年・小松寛太

この冒頭はあとがきではありません。


私にとっての本当の幸せはなんだろうか。


これからの人生を社会のレールに沿って生きていくことが、私にとっての本当の幸せなのか。


22年間生きてきて、多くの情報を、サッカーを通じて得てきた。


私の小さい頃の夢
「バルセロナに入って、カンプノウで観客を魅了するプレーをして、バロンドールを受賞して世界一のサッカー選手になる」


これを今の皆さんはどう思うだろうか。


こんにちは。
今回最後の部員ブログを書かせていただく小松寛太です。
最後のブログということで、何を書くか非常に悩みました。
私は部内ではいじられキャラで同期(中谷、松沢など)はもちろん後輩(安斎など)からも「これって言い過ぎじゃない?」「他の人なら病んでいるだろうな」というほどにいじられます。
だから私は「いじられ日記」でもここに示そうか迷いましたが、
noteというのは、市場的検閲を通り抜けなくても一人間のありのままを発信できる貴重な機会であるので、私のreal voiceを綴らせていただきます。
あとは、そんなことを書いたら私の母が落胆し、声を大にして説教してくる未来が見え見えなのでやめておこうと思います。
仕返しとして、中谷君(4年・中谷颯辰 / 静岡学園高校)のブログの冒頭部分を真似ることにしました。周りから「草すぎる」と言われ、顔を真っ赤にして照れていたからです。

前置きが長くなりましたが
ここから、私が思う私自身の本当の幸せとはなんなのか。
についてありのままに綴らせていただきます。






「サッカーを引退します」
「第1の人生の閉幕です」


こんな言葉をよく聞く。


これから周りの22歳は社会人となり、第2の人生を歩むのだ。


そんな中、私の来年以降の人生は未定である。
サッカー選手になりたいという夢を諦められないからである。


「ラスト2.3試合やり切るぞ」
「引退したら国内、海外色々なところへ旅行しよう」
「来年はこれくらいの手取りがあるから、一人暮らしをして、華金に飲みに行って、欲しいものを買って…」


楽しそうだな。幸せそうだな。


そう感じる。


それと同時にそれって私にとって本当の幸せなのかな。


そう感じる。



サッカー以外で熱狂し夢中になれることがあるか。



私にはそれがない。



私にとっての「本物の幸せ」は大好きなサッカーと共に歩む人生なのだ。



サッカー選手になれなかった結果を受け入れ、この経験を活かして第2の人生を歩んでいくということは、正当なルートであり、多数派である。



ただこれは私にとっては、ただの自己疎外であった。
本当の自分の思いを抑制することでしかなかった。



私は「サッカー」という自分がやりたいことに早くから出会えた。
だから、そこに全力で向き合いたい。
そこには後悔があったり、周りからの見られ方が気になることだってあるかもしれないがそういう人生を歩みながらでも成し遂げたい。



好きなことができる事が本当の幸せなのではないだろうか。
その幸せは十人十色である。



既定のルートとして
小学生から中学生は義務教育として暗記学習を繰り返し、行かなくても良い高校にもなんとなく通って、19になると大学に入学し、22になると全国の大学生が狂ったように就活を始める世の中だ。

それ以降の40数年の時間は、労働に充てる。

日本のトップ企業に就いたとしても労働者階級に属すことになる。
ましてや労働の大半は、大学教育なしに努力と根性だけでこなせる職業だと感じた。
(ここには異論があるかもしれませんが、あくまで個人的感想ですのでご容赦ください)

大学階級は時代とともに変化してきている。
戦前は、地位表示(家庭の裕福度)
戦後は、人格表示(学歴社会、従順であること)
21世紀以降は、可能性拡張である。


私が行かなくても良い高校に進学し、19になって行かなくても良い大学に進学した理由は何か。


大学生期間は、人生最大の夏休みである。
大学は、多額のお金を払って通うレジャーランドと表現されていたことを思い出す。

そんな大学に私は何をしにきたか。


学びたい学問があって来たのか。
早稲田という対外的評価に依存して一流企業に就いて経済的成功を求めていたのか。



いや



私は「サッカー」の可能性を広げにきた。



自分が大好きなサッカーで生活したい。
国を背負いワールドカップに出たい。
そうして経済的にも成功したい。



この夢、目標の可能性を広げる為に来たのだ。



自分の好きなことではないことをやってお金を稼いで生活することは私にとっての幸せではない。
そんな生活の中で些細な幸せを見つけながら生きていく事が私にとっての幸せではない。

だから考えて欲しい。

今の幸せは本当の幸せなのかを。

諦めたらゲームオーバーだと思う。
少しでも可能性があるのなら、その可能性を信じてやり続ければいいと思う。


私はサッカーを長くやってきた中で
サッカー界にはこんな化け物がいる。
サッカー選手になるのは、サッカーが上手く、戦力になることだけではない。
タイミングや運要素も少なからず存在する。など
情報が精査されることで、消極的になり、大きな夢を抱けなくなっていくことを痛感した。
そうして社会のレール、多数派としての労働が第2の人生をスタートさせることも知った。


現実を知り、諦めそうになったことはたくさんあるし
諦めなかったとして、多数派から外れる恐ろしさや周りからの視線、意見に敏感になり
自己決定性を失うこともあった。



ただ本当に諦めたことは1度たりともない。



自分の意思を出さないこと。
現代は組織の時代だから、組織の期待する行動様式に自分を合わせることに徹すること。


健全な人間は、自分で自分の生き方を選べる人間。
外界や過去や、そして虚構の神からも自分を解放している人間である。


適応よりも自己実現を目指すこと。
人から何を言われようと、自分の在りたいように生きることが善ではないか。


自分にとって意味があると思うことを行うこと。

「千万人といえども我往かん」


こんな言葉があるように


そうすることが損になろうとも、自分にとって意味のある最高の財産になることを知っているから。


自らの思想に支えられた行動・理想に向かっていったアクションでうまくいかなかったことや、挫折したことは多々ある。
それでも自己を卑下したことはないし、根拠ある行動でメンタル的なダメージをおったことはほとんどない。



だからこそもっと「わがまま」になっていいのだ。



日本でいう「わがまま」はネガティヴな形容詞として用いられることが多い。
特に組織における同調主義が強く働く日本において「わがまま」は最も忌避されるものだ。


そんな「わがまま」だが、私は最高の美徳であると思うし、私が今大切にしているもののひとつである。
私にとっての「わがまま」の解釈は「我が儘」と書くように、自分の中にある法律に
「我」の「心」のままに従うもの。
組織や社会が突きつける「こうあるべき」という規範に対して阿らず、自分の感情に耳を傾け、喜怒哀楽に対して素直になるということ。


同期の松沢(4年・松沢遥 / 松本山雅FCユース)も述べていたが、「わがまま」な人間がア式には少ない。
私は「わがまま」な松沢みたいな人間に魅力を感じるし、好きである。(ニヤけんな)



だからこれからも

私が求める「本物の幸せ」を我が儘に自分らしく歩んでいきたい。




最後にこの場をお借りして

家族へ

家族でこういう話を面と向かってするのが好きじゃないので、この場をお借りして。
高い金を払って、大学に行かせてくれたことに感謝で胸がいっぱいです。
家に帰ると、意味分からないくらいしつこく絡んできて苛立つ事が多いですが、感謝しています。
大学では、サッカーの可能性をさらに広げ、学問を学び、多くの価値観に触れ、人として著しく成長したと強く感じます。
大学4年間は本当に有意義で、多くの尊敬できる仲間に出会えました。
これからどういう人生を歩んでいくかは、未定で、親からしたらとんでもなく不安で、心配で、せっかく早稲田にいるのにという思いがあるのは重々承知ですが、これからも「わがまま」にチャレンジして、この恩にどんな形であれ必ず還元したいと思います。


本当に最後に

光田くん(3年・光田脩人 / 名古屋グランパスU-18)へ

こういうことをこの場で出来ちゃうのが俺だし、みっちゃんからブログを通してメッセージを書いてほしいといわれたので少しだけ。
みっちゃんの良いところは喜怒哀楽がめちゃくちゃ表に出ること。
周りからよく笑われているけど、1番の武器だし、そんなみっちゃんを見ているのが楽しいです。そして俺が今までサッカーしてきた中で、1番サッカーが上手い。これはおそらく多くの賛同を得られると思います。だからこそ、もうひとつ殻を破ってチームにとって必要不可欠な存在になってください。応援しています。




以上を持って
小松寛太の最後の部員ブログとさせていただきます。

◇小松寛太(こまつかんた)◇
学年:4年
学部:教育学部
前所属チーム:早稲田実業学校高等部

【過去の対談記事(早稲田スポーツ新聞会 企画・編集)はコチラ☟】


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