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「強運なスケート人生」 (4年・千葉紫織)

はじめまして。
今年度早稲田大学スケート部フィギュア部門の主将を務めさせていただいております。文化構想学部4年の千葉紫織(ちばしおり)と申します。
私たちは2025年3月1日(土)に「WASEDA ON ICE 2025」というアイスショーを控えています。


私はもともとかなりのおしゃべりで、
就活時「1聞いたことを(3、4でいいのに)10で返してくるね」とフィードバックをもらった経験もあるほどですが、話すことと同じくらい書くことも好きなので、思っていたよりも長くなってしまいました。

不特定多数の皆様へ届ける文章は初めてで少し緊張もしますが、最後まで楽しんで読んでいただけますと幸いです。

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ちなみに「WASEDA ON ICE 2025」の先行入場券などがリターンに含まれるクラウドファンディングも2025年1月15日(水)23:00まで実施中です!

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はじめに


実はnoteをやりたいと言い出したのは私で、その経緯を簡単に説明させてもらいます。

私たちが2020年度から開催している「WASEDA ON ICE」は毎年いろいろなこだわりを持って創り上げています。

フィギュア部門の部員は様々なバックグラウンドを持った人たちが集まっていますが、「部員全員がWASEDA ON ICEに出演する」というのもこだわりの一つです。(留学組や拠点が遠いことで現地出演が難しい部員もいますが、全員の力が結集し、1つのアイスショーが成立します。)

例えば、小さい頃からスケートを続けていて、全日本選手権に出場することを目標にしている者、ずっとスケートを習ってみたいと思っていて大学生になって始めた者、昔習っていたけど一度辞めて、それでもまた大学生になってスケートをする道を選んだ者、、、いろいろな背景を持った上で「早稲田大学スケート部フィギュア部門に所属することを選んだ」という共通項を持った人たちが集まっています。

そんな一人一人がどのような想いで今ここにいるのか、どんな想いでスケートと向き合っているのか、私たちの「想い」を少しでも見てくださる皆さんに届けられたら、きっともっと私たちのスケートを楽しんでいただけるんじゃないかなと思い、note企画をスタートさせました。

ということで、これを読んでくださった方がより千葉紫織のスケートを楽しんでもらえることを願って、執筆してまいります。




スケートとの出会い


私は8歳でスケートを始めました。小学校の行事でスケート教室が毎年あったため、その練習を兼ねて(今は閉鎖になってしまいましたが)高田馬場のシチズンプラザに遊びに行ったことがきっかけです。

やってみると「氷の上を滑る」という非日常感が楽しく、小学校2年生ながら「ちゃんとスケートを習いたい!」と両親に伝え、私のスケート人生がスタートしました。

紆余曲折ありましたが、スケートを始めてからシチズンプラザが閉鎖する(高校3年時)まで、約10年お世話になりました。家で過ごす時間よりもきっとシチズンで過ごした時間の方が長いだろうな、というくらいには毎日何時間も友人たちと練習をし、休憩時間には他愛もない話をし、私にとってかけがえのない場所です。

シチズン最後の日に親友と撮った写真


余談ですが、
私が早稲田に入ろうと思った理由の1つに「スケートリンク(シチズン)との距離が近いこと」があったので、もし私がスケートを始めるよりもっと早くにシチズンが閉鎖していれば、スケート教室がシチズンで開催されなければ、私が(スケート教室があった)附属小に入学していなければ、「今」はないなあと思うし、つくづくご縁や巡りあわせの大切さを実感します。




強運の持ち主


私はこれまでの人生を振り返って、自分は運がいいな、恵まれているなと思っています。上述のようにご縁に恵まれていることも「強運」な証だと思います。その中でも今の私を形成していると思う出来事をご紹介したいと思います。


12歳。難病を発症。
タイトルだけ見たら「病気?全然強運でもなんでもないじゃん」と思ったそこのあなた。ちょっとお時間をください。説明します。

当時の私は、(スケートの)バッジテスト級・5級だったのですが、6級をとらないとノービスAという上位カテゴリーには上がれないという壁にぶつかっていました。(フィギュアスケートは級の数が大きいほど上の級となっています)

私にとっての6級の大きな課題はダブルアクセルだったのですが、練習してもしてもなかなか兆しが見えない、苦しい時期でした。またダブルアクセルに苦しむと同時に原因不明の股関節の痛みにも半年ほど悩まされていました。なかなか診断がつかず、記憶にあるだけでも5.6病院を巡り、セカンドオピニオンを求めました。

2014年8月19日。
急激に症状が悪化し、まともに歩けなくなってしまいました。
そして6病院目ついに診断が下され、

「大腿骨頭すべり症」

と医師から告げられました。

続けて
「歩くことも危ないからすぐに車椅子を用意します。歩かなくては行けないところは松葉杖を使いましょう。今から紹介状を書くから大きな病院ですぐに手術をしたほうがいいです。」そんなようなことを言われました。

1週間前まで6級のテストを受験していたし、痛いながらも練習はしていたため、小学校6年生の私にとってはすべてが青天の霹靂でした。当時の言葉では表せない感情は今でも覚えています。

ただ、診断してくださったお医者さんは、以前大腿骨頭すべり症の患者さんを診たご経験がある方で、その経験もあったからこそ迅速に判断してくださりました。今思うとその先生に診ていただけたことは、本当に運がよかったし、有難いの一言だなと思います。

そしてこれもまた有難いことに、幼稚園の友人づてで大学病院を紹介してもらうこともでき、翌8月20日には手術することが決まりました。

良かった、、と思ったのは束の間、
私は執刀医の言葉によって絶望の淵に立たされました。

それは執刀医にまたスケートをすることができるのか尋ねた時でした。

「(手術で状況をみてみないと分からないが)スケートはおろか、最悪の場合歩くこともまともにできる保証はない。」

と告げられたのです。

思いもよらない出来事が次々と訪れ、現実を受け入れられていないままその場にいた私を一気に現実に連れてきた、ある種魔法の言葉に感じました。
その瞬間の絶望、恐怖、不安、あらゆる負の感情が一斉に込み上げてきたことをよく覚えています。

そんなどん底にいる状況で、人生初の大きな手術を前にした私に母が声をかけてくれました。


「この経験を乗り越えたらなんでもできるようになるよ。」


縋れるものがなかった当時、スケートだけに限らず日々の生活を支えてくれた母の言葉を信じて「前を向くしかない」そんな気持ちになりました。

手術は無事終わり、状況としては上述のような「最悪」ではなかったため、1か月入院、入院中・退院後の2か月間車いす生活、その後松葉杖生活と少しずつ日常生活を取り戻すリハビリを行っていきました。

術後、執刀医には「すぐに手術を行えたことも「最悪」ではなかった要因だと思う」と言われ、診断してくださった医師、大学病院を紹介してくれた友人(のご両親)、執刀してくださった医師、多くの方のおかげで健康に過ごせていることに心から感謝した日々でした。

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12歳の誕生日

誕生日が入院中だったため、お医者さん・看護師さんたちが特別に許可をしてくださり、病院食に加えて誕生日ケーキを食べることができました。家族みんなも来てくれて、これまでの誕生日の中でも印象に残っている1日です。これはこれで特別な日だったなあと思います。

少し話は逸れるのですが、私が入院中、中学校への内部進学のための大事なテストがありました。最初は受けられない可能性も覚悟していたのですが、当時の担任の先生が交渉してくれたことで、病室で受験することが許されました。他の先生方に掛け合ってくださり、遠い中授業後に監督として病院に来てくださった先生のおかげで、私の学生時代があると言っても過言ではありません。小中高を通じて、この先もずっと大切にしたいと思える友人、居場所と出会わせてくれたという意味でも、この時の先生には感謝してもしきれません。

話を戻して、入院から半年と少し経った頃。
松葉杖なしで歩く許可が出ました。

この時、私は
「スケートをまたしても良いですか」
と医師に尋ねました。

入院中、出場予定だった大会の棄権者に私の名前があるのを見て、一緒に練習をしていた友人らのスコアを見て、自分は病院で何をしているんだと悔しい気持ち、やるせない気持ち、もうスケートに関わりたくない、スケートを見ることもいやだ、実はそんな気持ちが生まれていました。

そんな当時を振り返ると、「スケートをする」選択をしようと一歩踏み出した自分が不思議な気もするけれど、驚くほど自然に「またスケートをしたい」という言葉がでてきました。

手術によって、大腿骨と股関節にずれが生じないようにボルトで止めている状態だったので、ジャンプやスピンはやらない約束でスケートをする許可が下りました。

執刀医の先生は大学時代にアイスホッケーをやっていらっしゃった方だったので、スケートに対する理解がある方でした。だからこそ思っていたより早く氷の上に戻ることができたし、これもまた自分が恵まれていることだなあと思っています。

半年以上ぶりに氷の上に戻った日。
久々にスケート靴を履いて一周滑った時、嬉しさ、喜び、懐かしさ、戻ってきたんだという実感、、、とても一言では形容しがたい、そして今後もそうそう味わうことができないであろう感情が湧いてきました。

中学2年生の夏。ボルトを抜く手術を受けました。
特に大きな問題もなかったため2年の時を経て無事完治。

スポーツも、もちろんスケートも、何も制限なくできる。やっとスタートラインに立ったな、という感覚で再びシチズンプラザの門を叩きました。

この時スケートの先生と競技復帰にあたっての目標を話しました。
私「6級をとりたいです。ダブルアクセルを跳びたいです。」
先生「6級をとること、ダブルアクセルを跳ぶことはそう簡単なことじゃないし、あなたが休んでいたこの2年のブランクはかなり大きいよ。」
そんなやりとりをした記憶があります。

負けず嫌いの私にとって、この言葉は火をつけてくれました。絶対やったるぞ。そんな気持ちが生まれました。

でも先生のおっしゃった通り、そう簡単に習得できるジャンプではなかったです。休養前一緒に6級を目指していた友人たちは、2年経って戻ると7級を目指す段階にいました。

病気がなければ、休んでいなければ、そんなタラレバを全く考えなかったと言ったらウソになりますが、競技復帰しなければよかった、スケートを辞めたいと思ったことは一度もありませんでした。

これもまた先生をはじめ、一緒に練習していた戦友たちのおかげであり、自分が恵まれているからこそだと思います。
結果として競技に復帰してから2年弱経った高校1年生の4月。6級を取得することが叶いました。

振り返ってみると、自分自身も頑張ったとは思いますが、それと同時に自分一人では達成できなかった目標だったなとも思います。
たいていのことはきっとそういうものなのかもしれないですね。

ここまで長々と書いてきましたが、


要するに、、、

私はどうしようもない!と思ってしまう出来事に直面したとしても、その状況を打開するよう導いてくれる人たちが周りにいて、自分ももうひと踏ん張り頑張ろうと思わせてくれる環境があって、そんな環境で過ごせていることは当然のことではなくとても恵まれたことであって、、


だからこそ私は「強運」なのです。


宝くじに当たったこともないし、抽選くじを引いても大体参加賞ですが、
私は自分を「強運だ」と思えるくらい幸せに囲まれているから

きっと強運なのです。

この章のタイトルでもある「強運の持ち主」は私の好きな作家さん・瀬尾まいこさんの作品から使わせていただきました。
この本の中で私の好きなフレーズをご紹介します。

"占いに直感に、アシスタントに師匠に恋人に。いろんなものを頼りに進んでいけば、なんとなくそれらしいものにたどり着けそうな気がする。"

『強運の持ち主』/ 瀬尾まいこ (2006)

勇気を持って一歩踏み出さなくてはいけない時、自分1人の力でできることはたかが知れていて、自分の周りにいるたくさんの素敵な人たちの力を借りて、自分の意思で「まあなんとかなるはず」と前に進むことができれば、そう思えたみんなが「強運の持ち主」ということだと思います。

私はよく「なんでそんなポジティブなの?」と聞かれることがありますが、ここにその所以があるのではないかと思います。




スケートの魅力


よく聞かれること、でいうと
スケートの何がそんなに楽しいの?
なんでそんな続けられるの?
です。

最初は、氷の上で滑る感覚、できないジャンプが跳べた時の達成感、そんなことを答えていたけれど、
WASEDA ON ICE 2021を終えて、

見ている人とスケートを通じて/表現を通じて、繋がれること

が私にとってのスケートの魅力だと考えるようになりました。

WASEDA ON ICE 2021は第2回開催だったのですが、有観客開催を予定していたものの、コロナの流行もあり、第1回に続き無観客配信での開催となりました。

アイスショーを滑る経験は私にとっては初めてで、ルールやレベルに縛られることなく、自分の表現したいものをありのままに表現できることがすごく楽しく、競技だけでは味わったことのない「滑る喜び」を噛みしめながら演じることができました。

ショーを終えて数日後。
シチズン時代に共に6級を目指していた友人から突然DMをもらいました。

「実はWASEDA ON ICEのアーカイブ配信を見てました。やっぱり紫織ちゃんのスケートが好きで、見ていて幸せな気持ちになったことをどうしても伝えたくてDMしちゃった。」

久しぶりに友人からメッセージをもらったことはもちろんのこと、画面越しにも自分が滑る喜びや幸せを届けることができたと実感でき、
「ああ自分は見ている人の心に届くスケートをしたくてこれまでやってきたんだな」と認識しました。

この時から私の中で引退を迎える時の目標が立ちました。

「私の演技を見てくれた人の心をあたたかくすること」

私は(スケートに限らず)自分と関わった人にはポジティブな影響をもたらしたいと思っています。

その延長に、私のスケートを見てくれた人に「見てよかった」と何か少しでも心がポジティブな、ぽかぽかするような、そんな気持ちになっていただけたら嬉しいなと思います。

WASEDA ON ICE 2021の個人演技後

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2024年10月12日。私にとって最後の東インカレがありました。この日のために、自分史上1番練習の量と質にこだわってきたため自信もあった一方で、不安も同じくらい大きかったです。

普段指導してくださっている先生、早稲田の部長先生方、同期、後輩、いつも一緒に練習しているクラブの子たち、リンクが離れても変わらず大好きな友人たち、現地にいなくてもパワーを送ってくれる大切な人たち、本当に多くの支えを感じながら滑った3分半でした。

人生ラスト東インカレ

スケート人生で初めて、試合を通じて「スケートをここまで続けてきてよかった」と思えた時間でした。

滑っていて自然と笑顔になり、観てくださっている方、応援してくれている子たちの顔が見えて、一つ一つの拍手が温かくて、本当に幸せな時間でした。

またこんな風にお客さんの前でスケートをしたい、と強く思いました。
そのために、残された時間は限られていますが、一試合一試合、日々の練習を大切に、悔いなく、楽しんでスケートと向き合い続けていきます。




おわりに


拙い文章を読んでくださりありがとうございました。

実はもっともっと書きたいエピソードはあったのですが、今回はひとまずこのくらいで、、、また機会があればと思います。

ここからインカレ、関カレ、WASEDA ON ICE 2025と怒涛の日々が続きますが、全ての瞬間に全身全霊をかけて、限界まで取り組んでまいります。

早稲田大学スケート部フィギュア部門の、個性豊かな部員一人一人の、応援をどうぞよろしくお願いいたします。


⛸️クラウドファンディング実施中!
試合出場費・練習貸切費用など競技成績向上のため、及び私たちが1からプロデュースするアイスショー「WASEDA ON ICE」の継続開催に向けて、クラウドファンディングを実施しています(2025年1月15日(金)23時まで)

⛸️WASEDA ON ICE 2025
2025年3月1日(土)
16時開場、17時開演、19時30分終演(予定)
会場:東伏見・ダイドードリンコアイスアリーナ
※上記のクラウドファンディングによる入場券をお持ちの方は、開場時間15分前(15時45分)より入場し、直前リハーサルをご観覧いただけます!
詳細は公式SNSにて順次公開してまいります!
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