墓場珈琲店11。
全身が、冷たい痛みに覆われていた。
腹痛のように『波』のある痛みではなく、常に一定の痛みだった。なおかつ普通の痛みではなく、明らかな恐怖を覚えさせる痛みである。
おそらく、この痛みを経験したことのある者はいないだろう。
そう思いながら、私は目を開いた。
私は、明るい部屋にいた。水色のカーテン、真っ白な照明、埃一つない床。純白の布団は温かく、指先には透明なチューブが繋がっていた。
ここは、病棟302号室。
『病棟』は、広義で病にかかった人のための場所を示す。
横になって眠っている私は、ここの患者だった。
私は今、両耳にイヤホンをあてている。
イヤホンから流れてくるのは若者に人気というK-popだった。歌詞の意味はわからないが、音の流れる感覚が非常に心地よかった。
……いや、闘病中に書く話じゃないか、これ。
四十代後半のオバさんが聞くジャンルでもない。
でもいっか、暇は潰れているし。
音に乗って頭を上下に振ると、全身の痛みが増すようだったけれど、
構わなかった。
「母さーん」
低い男の声が聞こえて、私は入り口に目をやった。
白いドアは横開きで、ノックはなく開いた。
開いた場所から、現れるは男の子。私はイヤホンを外した。
「大丈夫、母さん? 辛くない?」
童顔の彼は、私の息子だった。
ヤンチャで、幼い頃は手を焼いたものである。それが今は、手にレジ袋を持って、ピンと背筋を伸ばして立っている。
「だいじょうぶよ」
私は口元を緩ませた。
当然、それなりの痛みは伴っている。でも、まぁ、「つらい」と言って何か変わるわけでもないから、「だいじょうぶ」と言ってあげたかったのだ。
「よかった……」
我が子は顔を綻ばせた。
「ほら、これ。母さんの好きな缶コーヒーだよ」
彼はビニール袋を私に渡した。
袋の中には金色の缶コーヒーがあった。
「……ありがとう」
私は袋ごと受け取った。
その際、私と彼の手がぶつかって、私は彼の温かみを感じた。
「母さん、手、冷たい……」
彼の瞳孔が小さくなった。
私は首を振る。
「あなたの手が温かいのよ。だって、温かい缶コーヒーを持って、ここまで歩いてきたんでしょう? もう3月だし、私よりあなたの手が温かいのは当然よ」
窓の外を見ると、確かに桜が咲いていた。
桜の花びらが風に舞い、雀が鳴いているようだった。
「……そっか。心配すぎだね、俺」
息子は嘆息を漏らした。
「あと、これは父さんから」と、写真を手渡した。
何かと思えば息子と夫のツーショットで、私の見た事のない物だった。二人は桜をバックグラウンドに、ピースをしている。
はにかみを堪えきれない昔の息子は、そこにいなかった。
「母さんがいない間に撮ったんだ。母さんが退院してからにしようって言ったんだけど、『今すぐ見せたい』って言って父さんが聞かなくて……」
今度は、私がはにかみを堪えきれない番だった。
「……父さんったら、母さんのことが心配で心配で仕方ないんだって。忙しくて今ここにはいないけど、今度来るように言っておくね」
それじゃ、と言って彼は私に背を向けた。
扉が、パタンと締まる。
彼は私が入院してから、一日も欠かすことなく私の元へ尋ねてくれていた。その度、私は缶コーヒーを貰い続けている。
彼は今、高校三年生だった。
しばしレジ袋と写真に目をやってから、イヤホンを付けなおした。
写真とレジ袋を、机の上に置く。
花瓶に飾られた花は、白百合だった。
***
そのあとも、白髪交じりな両親や、夫の両親、さらには学生時代の友達、職場の同僚などが見舞いに来た。
せっかく来てもらって悪かったけれど、闘病に疲れていた私は、彼らに笑いかけるほどの余裕を持っていなかった。
顕著に体の衰えを感じたのは、イヤホンを外す時である。
「……あれ……」
耳に触れた手が震えて、
ベッドの上に黒いイヤホンが落ちた。
幸い、あたりに人はいなかったので、その様子を見られることはなかった。
私は天井を見上げた。
白いライトがついていて、明るい。
K-popのリズムは、絶え間なくなっている。
私は自分の病名を反芻した。
……ステージIVの、乳がん。
ビクンと体が震えた。
その感覚に、私は出産を重ねる。
あの時と違って、これは命を奪う痛みだ。
心臓の鼓動が弱まり、
K-popのリズムが遠くなる。
私はむせようとしたけれど、できなかった。
手も、腕も、唇や瞼でさえも、動かないのである。
体の感覚が消え、物が見えなくなり、
暗くなる。
そして最後の最後に、音が聞こえなくなった。
最初に戻った感覚は、嗅覚だった。
鼻先をくすぐる感覚に、
ぼやけていた意識が明瞭になる。
初めのうちは匂いがするということしかわからなかったが、それが苦みを孕んでいること、正確に言えばコーヒーの匂いだという情報が、次々脳内に入ってきた。
私は目を開いた。
オレンジ色の明るい照明が照らし、子供の声が聞こえる。
いくつかの木製のテーブルと高い椅子、ソファなどがあり、
うちいくつかには客が座っている。
白色のマグカップと鋭く光を反射しているスプーンが机にのせてあり、
高価な喫茶店を思わせた。
窓の外ではピンク色の桜が咲いていて、
それが私が最後に見た景色から半年経過していることを示している。
「……注文は?」
眼鏡をかけた男の人が、私の視界に入ってきた。
あまりにも気配がなかったせいで、驚きの身震いをする。
彼は、口に手を当てて咳払いした。
「注文は?」
繰り返すさまは、あたかもAIのようだった。
「注文って……
ここ、何を売っている店ですか?」
私は彼から視点を逸らしつつ、尋ねた。
「『店』……『墓場珈琲店』って店名だ」
「墓場……」
何を売っていると尋ねておきながら、
私はより強烈なワードに吸い寄せられるのだった。
彼は、曇った眼鏡越しに私をまっすぐ見据えている。
あえて、何も言及しないでおいた。
そのかわり、呟く。
「この店の、普通のコーヒーを、一杯」
「はいよ」
彼は満足げに口角を上げて、カウンターへと歩いた。
オーダーをメモしていないのは、注文を自分で覚えられる自信があるからだろうか。
実を言うと、甘いコーヒーが飲みたかった。
でも、なんだかここの雰囲気にそぐわないような気がして、当たりさわりのない回答をしたのである。
カウンターの向こうへ完全に彼が移動したのを確認したのち、
私は空いている席に座った。
カウンターでもよかったが、私が選んだのは四人席だった。
口を拭くための白い紙だけが席に置いてあった。
墓場珈琲店という割に、コーヒーシュガーは置いていない。
(コーヒーシュガーがあれば、ブラックコーヒーでも甘くして飲めたんだけどな……)
私は窓の外に目をやりながら、マスター(仮称)が来るのを待った。
退屈な時間だった。
待ち時間なら病院で嫌というほど体験して、もう慣れたと思っていたのに、
この待ち時間は億劫だった。
桜が咲いている。
パッと見た限りではわからなかったが、桜が咲いているのはかなり遠くのようだった。
そう言えば。
私は違和感を覚えて、耳を触った。
ない。
私は小さな悲鳴を漏らした。
イヤホンがなかった。
病院生活で一番世話になった、黒いイヤホンがなかった。
それが、この待ち時間を退屈に感じた原因だと私は知った。
背筋に冷たい物が走る。
服のポケットに手を入れた。
「あった……」
「お待ちどうさん」
私は反射的にイヤホンをポケットに戻した。
マスターは眉をひそめたが、ポケットに手を入れたことに関しては何も言及しなかった。
「やけに顔色が悪いな、お前さん?」
「……?」
予想外の事を聞かれ、私は口ごもった。
彼は質問しつつ、私の前に白マグカップをおいた。
銀色のスプーンが添えられていて、眩しい。
真っ黒い黒い液体は、石油のようにも見えた。
「冗談だよ」
と言いつつも、口角は上がっていなかった。
しかも、彼は中々カウンターに戻ろうとしない。
マスターが隣にいる状態のまま、私はマグの持ち手に指をかけた。
その時、彼が声を発する。
「……ところで、コーヒーは好きかい?」
「まぁ、好きですよ」
私は持ち上げかけたマグカップを降ろした。
コーヒーは好きじゃなかった。
「嘘つけ」
「……!」
視界が揺らいだ。
私は顔を下に向ける。
向けた先には、器に入った黒い液体があった。
「いや、嘘じゃないですよ」
「……無理して嘘をつく必要はない」
下に向けた顔が、熱くなるのを感じた。
「あなたが初めてです。なんで、嘘だってわかったんですか?」
「それくらい、誰だってわかるさ」
おかしな人だな、と思った。
コーヒー好きが来るコーヒー店のマスターのはずなのに、
客がコーヒーを好きか否か見分けられる。
「コーヒーが嫌い」と言っても、不快感を示さない。
この人は、本当にコーヒーが好きなのだろうか、と疑った。
「いや、案外、誰にだってわかりませんよ」
「……?」
マスターは首をかしげた。
私は首を上に向けた。照明の光が眩しい。
「……私、高校三年生の子供がいたんです。
その子の育児のためにコーヒーをたくさん飲んで、そのせいでまわりから『コーヒー好きだね』って言われてましたから。学生時代も、眠気覚ましとしてコーヒーを使っていました」
でも、好きではありませんでした。
「好きではない」と断言した時マスターの肩が震えるのを見て、
さっきの疑念が払拭されるようだった。
でも、彼は何も言わないままである。
「沈黙が金なのだ」と誰かが言っていたのを思い出す。
私はその沈黙に耐え切れず、口を開いた。
「そんな育児に嫌気が差していた矢先、癌で入院しました。
入院先の暇つぶしとして、音楽を聴いていたんです。そしたら、自分が音楽好きだということに気が付きました。……ここ」
一拍置いた。
「墓場なんでしょう?」
「珈琲店だな。でも、墓場でもある」
自分の死をはっきり自覚したのは、このタイミングだった。
私は上にあげていた視線を下に向ける。
なるようになれと、口が言葉を紡いだ。
「私、多分……癌になってなかったら、音楽が好きだってことに気付けなかったと思うんです。老後は、耳が遠くなってしまうから。
つまり、死んでよかった、と感じてしまうんです。子供を置いてきているのに。私、ダメな母親なんでしょうか……?」
一気に語った後は、急激に羞恥心が押し寄せてきた。
マスターがどんな顔をしているのか怖くて、視線を上げられなかった。
私が「ごめんなさい、必要ない話でしたね」と言おうとした矢先、
かぶせるようにマスターが言い放った。
「ああ、ダメな人間だ」
私は、白いマグカップを持ちあげ、コーヒーを啜った。
黒い液体は口にするのがはばかられるほど、冷え切っていた。
「あんたみたいなやつは、あんまりいない。
自分の事より先に、残してきた人の事を考えるなんて変人は」
……変人?
どこの、誰が、何より「なぜ」変人なのだ?
予想の範疇を越えた言葉に、私は口に含んだ液体を吐き出しそうになった。
しかし、マスターの顔が真面目そのものだったため、かろうじて堪えた。
「凄い奴、あるいはマトモな人間っていうのはさ、自分のやりたいことばっかやるモンなんだよ。音楽が好きなら好きなだけ聞くし、コーヒーが好きだったらそれを極めぬく」
彼は、私を見ていた。その瞳の焦点は、意外にも定まっていない。
「勿論、そればかりに集中して他のことをないがし、他の人に迷惑をかけるのは論外だ。けれど、他の人に迷惑をかけなければ、俺はそれでよいと思っている」
空耳かもしれないが、咳払いが聞こえた。
私の手が、マグカップを置いた。
「お前は『好き』という感情を胸の内にしまい、誰にも迷惑をかけないままここに来た。
お前はダメな人間かもしれない。が、少なくとも俺は、ダメな母親ではなかったと思うよ。だから、後悔するのはやめにしないか」
瞬きした。
言われてみて、初めて気が付いた。
私はただ『癌になってよかった』と感じただけで、誰にも迷惑はかけていないということを。
熱くなった顔を覚ますようにして、私は窓の外を眺めた。
マスターも一気に語った後に羞恥心が押し寄せてくるタチなのか、
視線を下げていた。
「……まぁ、つまり、何が言いたいかっていうと」
咳払い交じりの声だった。
私は桜を見たまま、彼の声を耳に入れる。
「コーヒーシュガー、欲しいなら言えよ」
流石はマスター、バレてたか。
私は首を縦に振り、そして、黒いイヤホンを耳に付けた。
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