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墓場珈琲店9。

つねに笑顔を絶やすな、
愛らしくあれ。
ファンから要求されることは、真っ向からは絶対に断るな。

そんなことばかり言われて育ってきた。
ボク自身、そうありたいと思っていた。

しかし、どうやらそれも限界らしいと感じている自分があった。

ボクは、目の前の長蛇の列を見た。

ボク一人の為だけに、こんなにたくさんの人がやってきてくれている。
そう考えると、まぁ、まだなんとかやっていけそうな気になった。

「わざわざ来ていただき、ありがとうございます!」

なんとなくポジティブになったお陰で、ボクの声は底抜けに明るかった。
ファンの瞳を、じっと見据える。
童顔の少年は、ボクから目を逸らしてしまった。

「わわわわ、すごい……。ホントにいたんだ……あああ、感激です!」

握手会というのに、彼は手を伸ばさなかった。
多分、初めて握手会に来たのだろう。
ボクは彼の手を、無理矢理握って言った。

「うわぁ、そんなにですか! 嬉しいです、また来てください!」

握手した時間は、ものの二秒。
たった二秒で、ボクは彼から手を離した。
でも、その二秒で彼は笑顔になっていた。

次、次、次と、ボクはたくさんの人と握手してゆく。
時間はほとんど二秒。

それを、何千回も、だ。
ボクも有名になったものである。
この活動を始めた当初は、こんなに人が集まるなんて考えられなかった。

ごった返していた人混みも、気が付くと残り数人まで減っていた。
残った人数とスタッフは、もはや同じ数である。
時計は午後6時を指し、体はそろそろ怠さを訴え始めた。

「復帰おめでとうございます。いつも応援してます」
「ありがとうございます?」

ここにきて、初めて『復帰』という言葉を使うファンが現れた。
ボクはその言葉を、怪訝に思う。

復帰などしていない、もとよりボクは、活動休止などしていない。
ボクの眼が、まっすぐ彼を捉えた。

彼は握手会に慣れている人なのか、
緊張しているそぶりを全く見せていない。
ボクが見返しても、動揺の一つさえ確認できなかった。

その人はまだ何かを喋ろうとしていたが、
思わず、それを遮って口が言葉を紡ぎ出した。

「『復帰』って、どういう……」

言いかけたその時、ボクの目は見開かれた。

彼が突然、ポケットに手を突っ込んだ。
最初はプレゼントか何かかと思って手を伸ばしかけたが、
途中で止まった。

彼が取り出したのは、透明な液体の入った小瓶だった。
彼は、伸ばしかけたボクの手ではなく、ボクの顔に向かってそれを投げた。

視界の隅で、警備スタッフが動くのが見えた。
反射的に身を引く。
しかし時は既に遅かったのか、すぐ目の前まで、瓶は近づいていた。

パチッ、と部屋の電気を切るみたく、呆気ない痛みが額に走った。
最初は針で刺されたような、微かな痛みだった。

しかし、二秒後────この二秒というのが、中々に長かった────には、火で炙られているような、耐えがたい痛みが襲ってきた。

ボクは顔に手を当て、床に転がり落ちる。

視界はもはやなかったが、会場の喧騒から、
スタッフがファンを私から遠ざけているのが分かった。

例の男は、どうなったのか。

探ろうとするが、人間という生き物は視覚に依存している点があり、
視覚なしではなんの確認もしようがなかった。

彼の声もよく覚えていなかった。
『復帰』なんて特徴的な言葉があったせいで、内容にばかり意識が向いて、
余計に声質が記憶されていなかったのかもしれない。

ああ、ボクのバカ!
こっちから身を寄せたりしたらダメだって、言われてたのに!

そうこうしているうちに、ボクの意識が消えつつあった。

嘘、ボク、死ぬの?

頭の中、疑問がもたげる。
恐怖を覚える余裕もないまま、ボクは不確かな温かみに包まれつつあった。

体は動かない。
ああ、これはもう、死んだと同じだな。

その感情は、一種の悟りに近かったかもしれなかった。
しかし、結局、最期の最後に感じたのは俯瞰でも恐怖でも、なかった。

……こんな仕事、やらなきゃよかった。

それは、後悔だった。


「……あれ、ここは……?」

気が付くと、ボクはしらない場所に立っていた。

御洒落な喫茶店のようで、貫禄のある、落ち着いた店だった。
それだけで十分驚くに値する事だったが、それ以上に驚くことがあった。

「顔が痛くない……!」

さっきまでのが夢だったみたいに、顔が痛くなかった。
大抵の傷は治った後でも多少の『名残』が残るものだが、
今回はそれさえもなかった。

「お客さん、注文は?」

一人の女性が、にこやかに近づいてきた。
喜びに浸っていたボクは、その声で我に返った。

『注文』、つまり、ボクは何か頼まなくてはならないということか。
ボクはしばし悩んだ。
なんでここに来ているのか、などといった根本的な疑問ではなく、
単純にオーダーに迷った。

こういった突拍子ないことには仕事柄、慣れっこだから、さして動揺しなかった。少なくとも、驚きは外に出ていないと思う。

ボクの鼻を、つんと突くコーヒーの匂いが掠めた。

「……コーヒーを一杯」

口が、言葉を紡ぎ出していた。
彼女は「わかりました」と言って、そのままカウンターに戻ろうとする。

どの席に座ったらよいかわからずしどろもどろになっていると、
カウンターで器具の手入れをしていたマスターが

「空いてる席に座んな」

と言った。
戻ろうとしていた女の店員の耳が、赤くなっていた。

ボクは空いていたカウンター席に座った。

カウンター席には子供が一人と男が一人いた。
相手を疑っているわけではないが、二つほど空席をあけた場所に座った。

しかし、とボクは考える。

ここは一体、どこなのだろう。
テレビの撮影ではないだろうし、
病院なんてのはもってのほかだ。

ここは間違いなく、街角にあるような、ただの洒落たコーヒー店である。

ボクは窓を見た。
遠くに、町が広がっているのが見えた。
どうやら、ここは街角でもないようである。

「……はいよ、お客さん」

ぼーっとしていると、さっきの女の人ではなく、
初老の男性がカウンター越しにコーヒーを渡してきた。

「ありがとうございます!」

アイドル時代の癖で、ボクは底抜けに明るい声を出した。
すると彼は笑顔になって、「飲みな」。

ボクは言葉の通り、マグに口を付けた。

コーヒーは、飲みやすい程度の熱さだった。
ブラックではあるがフルーティで、これまた飲みやすい。

……このいかついマスターがブレンドしたのだろうか?

彼の姿を横目に見たボクには、到底信じがたかった。

絶対、この人は、コーヒー全部ブラックで出してくる。
そういった確信があった。
ブラック以外コーヒーと認めてなさそう。

そんなボクの視線を感じ取ったのか、彼が口を開いた。

「さっきお前さんに注文をとった、あの店員が自主的に淹れてくれたんだ。
 ……お前さんのファンなんだと」

彼は、見た目より低い声をしていた。
その言葉を引いた瞬間、ボクは心の奥底で何か、
コーヒー以上に温かい物を感じた。

「なんだっけ、確か……『ファンの皆にチョコを配る企画』みたいのを、去年やったんだろ? それのお返しと言っていた。今日、ホワイトデーだろ?」

ホワイトデー、か。
去年渡したチョコレートのお礼を今年に、なんて。
多分、発送に時差があったからとか、そんな感じだろう。

ボクははにかんだ。

「ありがとうございます!」

アイドルをやっていて、よかった。

コーヒーの匂いが強くなり、私は白いマグカップを置いた。
さきほどの店員は、カウンターの向こうで忙し気に働いている。
ボクがその背中に微笑みかけると、彼女はまた耳を赤くした。

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