墓場珈琲店7。
「うげぇぇ、どうしよ、これぇ…」
私は目の前にあるモノをみて、ため息をついた。
そこには、もはや骸と化した黒色の液体──すなわちチョコレートがブチまけられている。
こんなはずではなかった。
理想ではもっと上手にチョコレートを作って、今日という日を大成功させるつもりだった。
しかし、現実はそううまくはいかないもので。
チョコレートの作り方を知らぬまま、インターネットでカカオを注文。
そこから砂糖やら苺やらを適当にブチ込んで(無論、計量などしない)、
レンジで三時間ほどチンする。
で、あっつあつにあったまったチョコを、容器にいれよう──
──としてブチ撒け、この惨状である。
これが私の踏んだ手順だ。
今思えば、馬鹿げているとしか言いaようがない。
そもそもなぜ、レシピなしで作ろうと思ったのか。
真昼間からこんなに汚して、恥ずかしくはないのか。
目の前のアツアツチョコと相反するようにして、
私の頭は氷水の如く冷静で、次々自責の念が浮かんだ。
全ては後の祭りである。
「あー、どうしよ……」
私は唸った。
当然、こんな大失敗作を渡すわけにはいかない。
もう一度作り直すか──
私は窓の外を見た。
二月の、涼しい昼がそこにはあった。空ははっとするほど青く、それが太陽の南中を私に告げる。
それから、私は視線を台所に戻した。
逃げ水のように広がっためっぽう汚いチョコレートは、掃除に時間が掛かるだろう。
口からため息が零れた。
「今日中に終わらせなくちゃいけないんだもんなぁ」
今から作り直してたら、絶対に間に合わないだろう。
つまり、作り直すという案は却下だ。すると消去法により、残される道は一つとなる。
私は自室に駆け込み、チョコで汚れた服をベッドの上に脱ぎ捨てた。
春先の涼しい風が、素肌をなでる。
持っている中で一番可愛いと思っているワンピース着た。
私は脱いだ服を畳みもせずに、部屋から出た。
「母さーん! ちょっと買い出し行ってくるねー!」
「あら、もう渡しに行くの? 頑張ってね、応援してるわ!」
二階で洗濯物を干している母は、大声で私をからかった。
チョコレートの残骸を片付けさせられる羽目になるだけなので、
わざわざ訂正するようなまねはしない。
家の外は、さっき窓から見た通りの晴天だった。
二月の割には雪もそこまで積もっておらず、体感気温は15°程度と、かなり快適である。
「どーしよっかなー。イトーヨーカドーで買うのもいいけど、ありきたり感が否めないな。スタバ……は、チョコ売ってないし」
私はもっと前もって調べておけばよかったと、私は後悔した。
直前にやればいいと高を括ってしまうのが、私の悪い癖である。
勢いよくエンジンをふかす車や浮かれて笑う人々が、上下して映る。
それは私が、行く当てもなく走っているからに他ならなかった。
汗が段々とでてくる。
運動は得意な方なので、あまり息は乱れない。
かわりにあるのは焦燥のみだった。
「って、あーあ」
私は立ち止まり、顔を上に向けた。
青と赤の二色の間に、白いハトが飛んでいるロゴが、そこにはある。
どうやら結局、ありきたりな私はありきたりな場所に来る運命らしい。
『2月と言えばバレンタイン! 義理も本命も、当店で!』
『「チョコっと」なんて量じゃない! 大量のチョコ、あります!』
店先には、ブラックボードに極彩色の水性ペンで書かれた看板が二つ立っていた。私がその間に立つと、自動ドアが開いて私を店内へと案内する。
店内も案の定、バレンタイン一色だった。
いつもだったら絶対に売っていない4,000円のチョコが何個も並び、
本来そこにあるはずの『お買い得コーナー』は居心地が悪くなったように隅っこに移動している。
心臓の高鳴りを感じた。
ここで選んだチョコによって、今日が人生最高の日か最低の日か決まる。
緊張せずにいられるわけがない。
私は吸い寄せられるように、
そのチョコが置かれている棚へと歩み寄った。
「おいしそうなチョコが、こんなにたくさん……最初からここくればよかったかもしれない」
どれだけ思いの詰まったチョコであったとしても、もらう側としてはこういうおいしいチョコの方が嬉しいのだろう。
というか実際、私もその方が嬉しい。
私は嬉々として自作チョコを作ろうとしていた自分をひどく恥じた。
とにかく、これだけの種類があれば選び放題である。
『あの人』は確か、ブラックチョコレートが苦手で、逆にホワイトもダメなはずだ。そして、高級品が好きと聞く。
チョコレートは沢山あるが、その条件で探していくと案外適応するものは少なかった。高級チョコレートは、そのほとんどが様々な種類の複合でできているのだから、当然と言えるだろう。
私の眼力が、鋭く光る。
有象無象の中、私は真っ黒な立方体を見つけた。
私は手に取る。
それは、パッと見た限りでは何の変哲もない箱だった。
金文字で『Perfect Milk Chocolate』と書かれていることと、
ここがチョコレート専用コーナーであることから、中にチョコが入っていることは推察できた。
私は箱の裏側を見る。
値段は7,000円で、入っているチョコの数は1。
0.7%しかない貴重なカカオと貴重なミルクを使っている……
「……! これだ!」
店内にもかかわらず、思わず大声が漏れた。
私は赤面するが、幸いあたりがもっと煩かったので、
私に視線が集中することはなかった。
私はレジに向けて駆け出した。
当初の予算は5,000円ほどだったのに対し2,000円もオーバーしているが、
全く気にならない。
私の要求する条件に対して、完全に当てはまっている。
まるで、あの人のためにあるようなチョコだ。
心臓のテンポが早い。
周りの景色がぐんぐん後ろに遠ざかる。
私は自分が、この店まで来た時より速く走っていることに気が付いた。
スピードは緩めず、まっすぐレジに向かう。
タイミングがよく、レジは丁度空いていた。
「これ下さい!」
「7.700円(税込)です。カードですか、それとも……」
「現金で!」
「かしこまりました」
私の足は店員がレジをいじっている間にもその場で上下していた。
思いが先走って、とてもじゃないがじっとしていられない。
「こちら、商品でございます。ご来店、ありがとうございました」
私は店員からレシートも受け取らずに、チョコだけ受け取って駆け出した。
と、その時である。
「あ、あれ……」
視界の左側に、一人の少女が映った。
私は彼女を知っていた。
同じ学校に通っている、『トンデモ』女子だ。
何が『トンデモ』かというと、そのモテ具合である。
毎日一通はラブレターが来、テレビから取材を受け、
街を歩けばナンパされる。
そのくせ、それらの求愛に対して縦に頷いたことはないというから驚きだ。
しかし、私は全く羨ましいとは思わなかった。
というか、彼女の顔を知っている者は誰一人としてそうは思わないだろう。
彼女は、それだけモテるのも頷けるほど美しいからだ。
しかし、私の目が釘付けになったのは彼女の顔ではない。
彼女の手に抱えられた、黒い箱だった。
「……えっ?」
私は走るのをやめ、絶句した。あやうくさっき買ったチョコを落としそうになった。
彼女が持っているその黒い箱には、
『Perfect Milk Chocolate』と金色で書かれていた。
私が買ったチョコレートと、同じである。
──まるで、あの人のためにあるようなチョコだ──
私の頭の中で、まるで波紋のように言葉が浮かんできた。
まさか、と思う。
いや、そんなはずはない。
あのモテ女と私の告白先が一緒だなんて、そんなこと。
私は自分に言い聞かせた。
彼女の頬は紅潮していた。
私の存在にも気が付いていない様子である。
……あり得るかもしれない。
そう思わずにはいられなかった。
『鳴かぬ蛍が身を焦がす』──そんなことわざが脳裏に過る。
そうこうしている間に、彼女はイトーヨーカドーの出口へと足を進める。
衝動的に、私は彼女と同じ方向に足を進めていた。
頭にあるのは、彼女が誰に告白するのか、確かめなければならないという使命感だけ。
ただ、彼女の告白を見て、自分は一体どうしたいのかはわからなかった。
***
嫌な予感は的中しつつあった。
彼女の進んでいる道と、私が当初辿る予定だった道が完全に一致していた。
信号を左に曲がって、まっすぐ進んで、五つ目で右に曲がって。
私は舌を舐める。
彼女の息遣いは、走っている訳でもないのに一歩足を進めるたびに荒くなっている。
緊張しているのだろう。
本当に緊張しているのはこっちの方だよ、そう言ってやりたかった。
突然、彼女が走り出した。
私は焦らない。
ここを左に曲がってすぐそこに、あの人の家がある。
左に曲がるのが、少し怖いような気がした。
しかし、ここまで来て今更怖気づいているようではいけない。
深呼吸をして、私は左に曲がった。
ああ、やっぱり。
彼女はあの人の家の前に立って、呼び出しのチャイムを鳴らしていた。
私は電柱の裏に隠れ、その呼び出し音を聞く。
あの人の家は、空に浮かぶ雲と見紛うくらい真っ白で、美しかった。
汚れ一つさえついていないその様子は、まるで家主の几帳面な性格を表しているようである。
「ん……どうしたんだ、こんな真昼間に」
心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
間違いなく、あの人の声だ。
「……」
彼女は何も言わず、気まずい沈黙があたりに満ちた。
しかし、やがて意を決したのか、彼女は電柱裏の私にまでよく聞こえる声で言い放った。
「好きです、付き合ってくださいッ!」
「……!」
私は電柱から顔を出す。
名刺を渡す社会人のように頭を下げた、彼女の姿があった。
私は固唾を飲んで、あの人の返事を待つ。
「……俺も、好きだ」
鳥肌が立つのを感じた。
私は踵を返して走った。
頬を撫でる風が異常に冷たい。
代わりに、私の顔全体は異常に熱い。
横断歩道のない車道を横断し、青い車にクラクションを鳴らされた。
人々の視線が刺さる。しかし気にならない。
とにかく、今は一刻も早くこの場から離れたかった。
私は気が付くと、というか走り出したその瞬間から泣いていた。
後悔ばかりが胸を締め上げ、息が出来ない。
私は空を見上げた。
イライラするほどの晴天だ。
手から、7,000+税のチョコが滑り落ちる。
「なんで……こんなこと、しちゃったんだろう……!」
チョコの箱は頑丈で、地面に落ちても変形しなかった。
私は手で顔を覆った。
そのまま、私は泣いた。
一度泣き出すと、もう止まらなかった。
まだ、告白もしていないのに、今日が人生最悪のバレンタインといことが確定してしまった。
私はこれから、どうしたらいいというのだろう。
頭の中に疑問が渦巻いたが、今は泣くことだけで精一杯だった。
***
泣いて泣いて、どれだけ経ったことだろう。
気が付くと、あたりはほんのり暗くなり始めていた。
冬から春への移行期間だというのに、私は暗くなるのが早く感じた。
少しだけ凹んだチョコの箱を持ち上げ、私は涙をぬぐった。
チョコの箱には少量の砂がついているが、箱が黒いお陰でさほど目立ってはいなかった。
彼女を尾行することを決意した瞬間、
私の頭に渦巻いていた疑問があった。
『彼女の告白の瞬間を見て、自分は一体どうしたいのか』。
たとえ今日が、人生最悪の日であったとしても、
このままでは終われないと思う私がいた。
「……行こう」
誰にでもなく呟いたその声は、震えていた。
私は一歩、足を前に進めた。
「行こう」
今度はさっきよりもはっきりとした声が出た。
もう一度呟く。
「行こう」
声の震えなど、微塵もなくなっていた。
私は走り出した。
彼女を尾行した時よりも、
家からイトーヨーカドーまで走った時よりも速く走った。
目的地は、あの人の家。
グルッと視界が一回転した。
あっと声を上げる間もなく、首元に鈍い痛みと、ゴキッという音。
体が急速に冷たくなる。
手の感覚がなくなり、チョコレートが地面に落ちる音が聞こえた。
***
そこは珈琲店だった。
強いて理由をあげるとするならば、洒落た雰囲気と少し涼しい程度の空調、
カウンター越しに見える大量の黒い物体、何より独特な匂いだろう。
これらの様子は、私に、含蓄の深いブラックコーヒーを想起させる。
何が起きたのか分からず途方に暮れていると、一人の男が歩み寄ってきた。
「注文は?」
注文?
注文ということは、つまり、コーヒーを頼め、ということだろうか。
チョコの買い出しに行った時からずっと財布を持っているので、幸い金銭には余裕がある。
そして何より、今は散財したい気分だった。
「……わかった」
彼は私の顔を見て何かを察したのか、
それだけ言い残してカウンターへと帰って行った。
私はそんな彼と相反するようにして、すぐ後ろにあった四人用の席に座った。椅子は柔らかく、心地よかった。
私は目を瞑る。
イマイチ、記憶がはっきりしなかった。
自分がなぜここにいるのか、わからない。
私はあの人に告白しに行ったはずだった。
で、その道の途中で激しめに転んで、
そして、なぜかここにいる。
「ほら」
机に、黒い液体が注がれた白いマグカップが置いてあった。
見上げると、初老の男性が去って行くところだった。
コーヒー店にしては提供が早い。
感心する反面、一抹の不安もあった。
こんな真っ黒いコーヒーなど、本当に飲めるのだろうか。
頼んだ後に気付いたことなのだが、
私はコーヒーがあまり得意では無かった。
というか、女子高校生でブラックコーヒーが好きな人などいるのだろうか。
インスタにあげる用ならまだしも、喜んでコーヒーを飲む人間などそうそういないに違いない。
私は横目でカウンターの向こうを見た。
例のマスターが、高圧的ともとれる視線をこちらに送っている。
「あー、どうしよ……」
なるようになれ、私は白マグのハンドルに人差し指をいれ、持ち上げた。
見れば見るほど、液体は黒い。
マグを口に近づけ、傾けた。
「あっつ!」
想像以上に、その液体は熱かった。
私は唇が火傷したことを即座に悟る。スプーンがあれば啜って飲んだだろうが、ついていない。
(でも、思ったより苦くない……)
熱さの名残の中に苦みがあるのがコーヒーの常だろうが、今回は全く苦くなかった。
むしろその逆で、甘味さえ覚えた。
私は、数メートル離れたカウンターに立っているマスターを見た。
彼が言った。
「今日はバレンタインデーだから、チョコを入れてみたんだよ。
お気に召したなら何より」
ボソッとした声のはずなのに、私の耳にはハッキリと届いた。
「で、おまえさんも誰かに告白したのかい? 若いねぇ」
「いや、私は……」
言葉に詰まった。
なんと答えればいいのか、わからなかった。
結局、告白できずに終わってしまった。
私は手を強く握りしめた。
ブチ撒けられた絶望は、まるで床にブチ撒けたチョコレートのようにじんわりと、胸に広がってゆく。
「……でもさ、告白なんていらなかったんじゃないか?」
頭の中にクエスチョンマークが浮かぶ。
マスターは言った。
「黙ってても、思いは伝わる。珈琲店から漏れ出すコーヒーの匂いに、愛情を感じるみたいにな」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?