「気休め」は、気を休ませている。
子供のころ、祖父のキンカン塗りをよく手伝いました。
首や肩、ときどき背中一面に。キンカンがどういうものなのかはわかっていませんでしたが、「あれを塗ると良くなるんだ」と、ぼんやり思っていたと思います。
しかし、肩こりを知らないぼくからすると、それが本当に効いていたのかわかりませんし、毎日のように塗る意味もわからないわけです。ですから最近になって、「あれは意味があったのかな?スースーさせていただけじゃないのだろうか?」なんて思ったりもしました。
ところが先日。血筋のせいか、老いのせいか、はたまた社交性のかたまりのような黄色い小瓶(キンカン)のせいか。あのときの祖父のように、あたりまえに、手軽に、簡単に、キンカンを肩に塗っている自分がいたのです。そのときは何も思いませんでしたが、数時間後、家族の一言でこれまでの疑問が一気に解消したのです。
『キンカンはスーッとして楽になるよね。治るというより、そのときが楽になる感じかね。』
そうか!と。たとえ「スースーさせているだけ」だったとしても、なんの問題もなく、むしろ、疲れた人にとっては「気休め」が大事で、祖父はまさに「気」を休めていたのかもしれない、と思い直したのです。もちろん、キンカンが効かないと言っているわけではまったくありません。何も考えずにキンカンを手に取ったぼく自身、痛みを和らげたい気持ちよりも、「気」を休めたくて使っていたことに気がついたのです。
患部の痛みだけを考えたら、フェルビナク、インドメタシンなどの高機能湿布も選択肢の一つかもしれません。でも、キンカンでいいのです。手軽に塗れて、スーッとするだけで、それはもはや「気休め」という一つの「効能」だったのです。
ついでに思い出しました。祖父がいつも飲んでいた「リポビタンD」。家や車の中に大量に常備していたあのリポビタンD。祖父はそれを使い、気を休めていたのかもしれません。
人体は不思議がいっぱいです。理屈はわかりませんが、本人にしかわからない効果のようなものがあったりします。ひとはそれを「気休め」と呼んだりしますが、人生には「気休め」も必要で大切なこと。本人としては、患部の痛みよりも、「気」を休めているのですから。
今はあのときの祖父の行動や気持ちが、ちょっとだけ、わかったような気がしています。
(小林)
【今月の一言】
人生草露の如し 辛艱何ぞ虞るるに足らん(じんせいそうろのごとし しんかんなんぞおそるるにたらん ー 吉田松陰 )
人生は草についた露のようにあっという間に終わってしまう 辛いことや困難なことを恐れている時間など どうしてあろうか
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