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介護記録⑭ 父の最期

異変は突然やって来た。4月12日早朝、【ドスン】という大きな音で目が覚めた。トイレの方向から聞こえた。何事かと見に行くと、困った顔で「なんかフラフラしちゃって…起こして」と、頑張って立とうとするも立てずにトイレの前で転んでいる父が居た。起こそうとしたが重くて立たせてあげられない。騒ぎを察知した夫が来て立たせてくれた。排尿を済ませズボン着衣を手伝うと、体が熱いことに気がついた。ベットに戻ってから検温すると、39℃を越える高熱。この日は水曜日。母をデイサービスに託し、身支度を整えH病院に連れて行った。そしてまた即入院となってしまった。また胆管が詰まってしまったので、ステントの入れ替えを行うことになった。また絶食。その後入れ替え手術は無事に終了する。しかし後日の検査の結果、あの高熱の原因は敗血症を起こしてしまっていたということが判明する。あと半日ほど来院が遅かったら命を落としていたであろうと告げられた。本当にギリギリだったらしい。父の主治医であるT医師は「何か良くない兆候があったら連絡しますね。」と言っていた割に、順調な経過も逐一報告、毎日のように電話してきてしてくれる医師だった。仕事中にもよく電話があり【何かあったのか⁉】とビクビクする事がしょっちゅうだった。手術後は順調な回復の兆しを見せた。まだ食事は出来ないため、鼠径部からのCVカテーテルを挿入していた。高栄養のジュースや鼠径部からの中心静脈CVカテーテルによる高カロリー輸液で命を繋いでいたが、そのカテーテルに感染があり、発熱したと連絡が入った。カテーテルを抜去し、高栄養ジュースと抹消静脈からの輸液で対応することになった。ステントを挿入できる胆管はもうないそうだ。癌はじわじわと大きくなり、手の施しようがない状態になっていた。本当に万策尽きたと、自宅に戻れることは無いだろうと宣告された。それでも父は「抗癌剤はできないの?」と以前説明したことを忘れ、何としても生きると強い思いで戦っていた。そんな状態の父とは毎晩電話で話していた。「病気になんか負けないぞ、何としても帰るんだ」「温かいそうめん食べたいなぁ」「早くすみのところに帰りたいよ」と言っていた。もう家には帰れないんだよ…、お父さんごめんね。
 5月初旬、不動産会社Sから熱心な依頼があり一般媒介契約をすることにした。お部屋探しサイトに掲載されて問い合わせを待つことになった。その後数件の問い合わせはあるものの、なかなか買い手はつかなかった。そりゃそうだよね。再建不可物件なんだから。
 7月7日治療万策尽きた父は、同じH病院系列で隣接するCリハビリ病院の長期療養型病床に転院することになった。立会いで久しぶりに顔を合わせ(コロナ禍で面会不可だった)、不安そうに私を見つめ、「頑張ってるよ。」と言う父に精一杯の笑顔を作るのがやっとだった。このCリハビリ病院は週に1回面会ができた。15日に行った際には、もうかなり朦朧とした様子だった。「実家のことやいろんな手続きは、全部私に任せて大丈夫だからね。」そう話しかけた。「うん、うん」と頷いてはいたけれど、理解できていなかったかも知れない。そしてその後は、電話をかけても出られない状態になっていってしまった。何か変化があれば連絡が来る、「その時が近づいています。」ということを告げられる連絡待ちとなった。
 不動産会社Sから実家の買い手が見つかったと連絡が入った。父が存命のうちに売却できそうで一安心した。近いうちに契約書を交わすこととなったが、それは叶わなかった。
 7月22日午前2時過ぎ、自宅の電話が鳴り響いた。父が入院しているCリハビリ病院からだった。「呼吸の状態が変わりました。あとどれくらいかは分かりませんが、早めにこちらへお越しください。」覚悟はしていたつもりだったのだが、何とも表現できない虚しい気持ちになった。7月21日から22日、母をたまたまS園のショートステイに預けていたため、夫と2人で早朝にCリハビリ病院へ向かうことができた。到着後、父が居る個室へ案内された。下顎呼吸(下顎を上下させ、口をパクパクさせてあえぐような呼吸で、臨終間際の呼吸として死戦期呼吸とも呼ばれる)が始まっていた。尿バッグの中は血尿のような色だったので、どうしてそんな色になるのか訊ねた。看護士が「癌で組織が壊されてしまうんです。」と言った。痛々しいな。「耳は最後まで聞こえていると言われますから、話しかけてあげてください。」と教えてくれた。私と夫で「お父さん1人で寂しかったね、会いに来たよ。」などと色々話しかけた。聞こえてるのかな?わかるのかな?わからないけどとにかく話しかけた。
 YouTubeで検索し、よく歌っていた曲を思い出しながら、大好きだった演歌を何曲も聞かせた。私は「よく頑張ったね。お父さんは凄いね。でもね、もうそんなに頑張らなくていいんだよ。」と言うと、父の目から涙が流れた。本当に聞こえているのかな?どうなんだろうね。そんな状況で数時間が経過した。
 大きな変化が見られず、長期戦になりそうだと感じたので、夫には一旦帰宅してもらい少し睡眠を取るように促した。夫は「そうするか。飲み物とか持って来るね。」と車へ向かった。
 病室に持参して設置しておいたテレビをつけた。少しすると先程より呼吸が苦しそうになりだした。直感で時が来たと思った。夫に電話し、様子が変わったことを伝えすぐに戻ってもらうことにした。
 だんだんと吸って吐くまでの間隔が長くなってきた。そして夫が到着する少し前、最後の大きな一息を吸ったあと、もう息を吐くことはなかった。その場に居たのは父と私だけだった。
 医師による死亡確認の後、病院でエンゼルケアを行い、安置室で焼香をしてくれた。人が最期を迎えることに慣れている病院だけあって、それは淡々と厳かに行われた。
 父と母が生前から積立をして、いざという時のために契約していた葬儀社Cセレモニーに連絡を入れ、Cセレモニーの安置室へ運んでもらった。葬儀について諸々の打ち合わせを行い、仏衣はピンクにしてもらった。よく着ていたポロシャツの色だ。すごく似合っていたからデイサービスでも好評だった。
 3日後に納棺、6日後出棺の際に好きだった【温かいそうめん】【卵スープ】【ミニ芋羊羮】を棺の中に入れさせてもらった。私が霊柩車に同乗し、夫と母は自家用車でY斎場へ。私と夫と母の家族3人だけ、誰にも知らせず、派手にせず、静かに穏やかに、父を送り出した。華やかな舞台が好きだった父にとっては、不満だったかも知れないけど。
 その後実家を私が相続し、S不動産会社仲介により売却した。この手続きも大変だったな。短期間でたくさんのことを学んだ。

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