インゴ・スワン「リアル・ストーリー」(93)
ただし小さな違いが 1 つあった。いたるところに金属の柵、つまり防護柵があったことだ。私はハルにそのことを伝え、スタンフォード研究所がスタンフォード大学の一部ではなくなったことを知った。大学キャンパスで最近起きた学生暴動(私の記憶が正しければケント州立大学で始まった)のため、別個の組織にならざるを得なかったのだ。
学生が抗議したのは、大学の研究部門が政府/軍/産業機構と密接につながっているということだった。彼らはこのつながりを断つよう主張した。
デモや暴動に備えてSRI は至る所に防護柵を素早く設置した。こうして研究部門は大学の管理から切り離され、別個の組織として再編された。
昼食後、ハルは大学キャンパスを車で案内してくれた。中央エリアでは破壊の程度を見ることができた。書店を含め、あらゆる場所の窓が破壊され板で覆われ、内部も大きな被害を受けていた。
1972 年当時、SRI は民間の研究機関、つまり「シンクタンク」であり、その「資金」と呼ばれるものの大部分は政府から提供されていた。この資金の規模は年間 7,000 万ドル程度と言われていた。
パソフが大学を辞めて SRI に来た理由の一つは、大学ではもう研究活動ができず、講義するだけになってしまっていたということだった。パソフは単なる教授ではなく、研究の実践者であった。
この「資金」の状況は、一般の人々、さらには多くの作家や記者によって誤解されている。政府は研究目的で SRI に資金を提供していると一般に考えられているが、この見解は修正される必要がある。なぜなら、このような見解はリモートビューイングはじめパソフ博士のプロジェクトの将来に関する大きな問題の原因となるからだ。
SRI 傘下で研究することを提案した科学研究者は、自分の頭脳だけでなく、自分の資金も持参する必要があった。彼らは研究の提案書を作成し、さまざまな「スポンサー」候補に提案書を回覧し、必要な資金額をめぐって争い、その資金を SRI に持ち込む必要があった。
1972 年、SRI は研究者が獲得した資金の3分の1を食いつぶしていた。その金はSRI 組織全体の諸経費を賄うために使われた。残りの資金が給与、機器、および研究プロジェクトを完了するために必要なその他の支出という形で研究者のプロジェクトに使用された。ここで明確にしておくと、各研究者は SRI に雇用されたわけではなく、組織自体から資金を受け取った人もいない。全員が自分のお金を持ってきて、それを継続的に投入しなければ、SRI で働くことはできなかった。
そのようなお金が入ってこない場合、SRI の経営陣は、新しいお金が入ってきたときに返済されることを期待して、研究者のプロジェクトを約 8 か月間、経費で支援することがあった。返済されなければ、研究者は他の場所に移らなければならない。
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