インゴ・スワン「リアル・ストーリー」(160)
第 56 章 長距離要因
長距離要因(THE LONG-DISTANCE FACTOR)はリモートビューイングの歴史において重要な位置を占めるようになったため、この時点で議論しておく価値がある。
これは関連する他のすべての現象の中で最も検討も議論もされていない側面でもあった。
長距離要因は当然のことと見なされている。それは決して調査されたり疑問に思われたりすることはなく、リモートビューイング現象全体に適した参照系をもたない。
中心的な問題は、「距離」というものが常に何らかの物理的次元によって測定されるか、少なくとも標準的な物理的次元に関係する標準的な参照系内で測定されるとみなされていることにある。
言い換えると、物理的な意味で点A と点B があり、Cはそれらの間の距離を示す。距離は通常その距離を移動するのにかかる時間と解釈される。
これは物理的性質の参照系として完全に適切である。したがって「距離」に関する他の参照系が存在することを知らなければ、無意識のうちに物理的な参照系を他の未知の現象の上に用いることになる。
そしてこの無意識の適用が行われる程度に応じて、「認知次元」はリモートビューイングのプロセスだけでなく、テレパシーや透視を含む他の形式の PSI に関しても失われてしまう。
精神的な「距離」のパラメーターは物理的な距離のパラメーターに従ってモデル化されていない。多くの人はこれを一般的には理解しているが、明確に表現するのは困難である。
ここで当てはまる古い格言がある:人は持っている道具がハンマーだけなら、すべてを釘のように扱う傾向がある。
したがって、距離に関する物理的な参照系しか持っていない場合は、すべてのものを物理的に分離する、近くまたは遠くの「場所」があると考える傾向がある。「参照系 frame of reference」の重要性は、一般的に西洋ではあまり理解されていないが、物事を考えるに際してはさまざまな方法があり、それぞれが異なる「現実」を生み出すということにある。
参照系を持たないものを何らかの現実と認めることには多少の不快さがあり、頭を混乱させる衝撃でもあるため、人々はそもそもショックを受けるのを避ける傾向がある。確実性は不確実性よりもはるかに好ましいとされる。
また人の「認識パラメータ」の範囲という問題もある。誰もが特定の社会文化的環境要因のもとに生まれる。その要因には、その範囲内で特徴づけられ役に立つ基本的な参照系が含まれているだけでなく、人が認識すべきものの限界も設定されている。個人はそれらの要因に刻印され、ある時期(通常は思春期)に、「成熟」と呼ばれるプロセスを経て、他の参照系や認識パラメータを締め出すことになる。
そして、認識パラメータは通常、大多数の人々の間で最も共有しやすい最低共通分母に沿ってフォーマットされる。その後、共通分母と一致しないことを経験しても、共通分母の想定された確実性を「脅かす」傾向があるため、異常または悪いものと見なされる。そのためほとんどの人は自分とは異なるか、自分の認識パラメータを逸脱する事象の妥当性を検討しようとしない。
たとえばリモートビューイングやテレパシーなどの PSI は、経験的に、物理的領域の特性と一致しない認識パラメータを伴う。
現代科学は、物質性に関する認識の共有可能なパラメータを排他的に定義し、増加させた。現代の物理科学とその方法が登場する前 (1845 年頃) は、ほとんどの文化において、物質性の認識パラメータは常にいくぶん曖昧で、明確に定義されていなかった。
しかし「現実」を物質性に限定し、認識の全範囲を物質性に限定すると、認識の範囲に関する問題が生じる。なぜなら、人間という種族は明らかに物理的意識の外部にある意識の範囲またはスペクトルを持っているからである。実際、サイキックという用語は「物理科学または知識の範囲外にある」と定義されている (1967 年時点)。
この科学的な定義は辞書に載っているが、ほとんどの人はそれが何なのかを認識していない。そして科学者を含む多くの人々は、この科学的に承認された定義が物理科学と彼らの専門分野の知識の範囲外にあるものが存在することを暗黙のうちに承認するものであることを認識していない。
「距離」は物理的に分離しているものの間に物理的なパラメータを確立する物理的な概念である。したがって距離の認識は物理的性質の中では有効な物理的属性である。しかし、その特定の認識形式は、たとえば「空間を通過する想念」では有効ではない。
ウィルキンス/シャーマンの実験によって、想念(精神的認識)は物理的な空間を通過できる(無視できる)ことが立証された。この実験は、物質的認識と精神的認識のパラメータが異なり、絶対的に異なる参照系が必要であることを明らかにした。