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インゴ・スワン「リアル・ストーリー」(18)

1967 年と1968 年の 2 年間に起こった重大な出来事は、今ではほとんど忘れられているが、本書の文脈のためにここで簡単に振り返る必要がある。 それらの出来事は過去と未来を区別し、人間の世界に対する見方を永久に変える一連の状況を引き起こした。

もちろん、「地球村としての世界」という概念は以前から導入されており、その提唱者は地球が一つの世界であり、その事柄や社会設計にすべての人が関与するという考えを発展させた。

しかし、何よりも「世界意識」を団結させ、1967年から1968年にかけて大きな社会的激動を伴って頂点に達したこの状況には、実際には地球村の社会設計は関係していなかった。

それを生んだのは核ホロコースト、そしてそれによる地球生態圏の破壊に対する普遍的な恐怖であり、それが世界の良心と意識の概念的な統一をもたらし、その後引き起こされた驚くべき社会的大変動をもたらしたのだ。

当時、この核破壊の予測は、世界についてある種の知的認識を持って理性的に目覚めていたすべての人を立ち止まらせた。1950年代以来、この恐怖は、平和と冷戦時代の政治的勢力の均衡のための抑止力としての核兵器の必要性を正当化するイデオロギー的枠組みの中に封じ込められてきた。 しかし 1967 年までに、その恐怖はイデオロギー的価値観を超えたものとなった。

冷戦は本格化し、ベトナムではソ連との代理戦争が進行しており、ソ連は北ベトナムの共産主義者に大量の援助を送っていた。米国やその他の西側諸国の参加は炎上と遺体袋の蓄積という恐怖で失墜し、その結果、あの戦争の論理的根拠への疑問が広まった。この認識は政府関係者内よりも一般レベルで広がった。普遍的な核破壊の脅威も同様だった。

今では歴史の中で「学生運動」としてやや軽々しく記憶されている現象が起こった。それは誰も予測しなかった現象であり、この不安の中で、兵器禁止の公約が焦点となり、戦争は人間の存在にとって必要かつ避けられない要素としてではなく、人間の意識の問題として見なされるようになった。

ほぼ一夜にして2つの新たな状況が生じた。一つは、学術界の軍産活動への参加に反対する強力な学生暴動である。そしてもう一つは「意識運動Consciousness Movement 」である。

キャンパスの暴動はその後5年間続き、深刻な事態となった。 意識運動は、いくつかの形式の変更や多くの派生的な方向性を伴いながらも、今日でも続いている。

これらの重要な影響を指摘する必要がある。なぜなら、今日それを認識している人はほとんどいないからだ。1967年から1968年の時代以前には、意識の存在は決して意味があるとは考えられておらず、実際、おそらく東洋神秘主義を除いて、ほとんど言及されることはなかった。

超心理学の分野では意識が重要なテーマであると思われがちだが、実際にはそうではない。もちろんその用語は時折使用されたが、1967 年から 1968 年の出来事や状況に関連付けられた意味はなかった。

それは西洋、特に米国では、「意識」の概念がそれ自体として認識されず、脳と心の関係を超越したものとして認識されなかったということである。

しかし1967年の革命的な状況で、戦争の存在が無意識の問題として定義され、核破壊の恐怖が数十年にわたる放射線で地球を覆うことのないように、恒久的な解決策の必要性が切迫したものとなって認識された。

当時、東洋哲学を除いて、意識をそれ自体として捉える考え方はほとんど存在しなかった。意識や精神は物質によって生み出されるものであり、経験的科学の領域内で扱うべきものものだった。だが1969 年までにこのような見方とは異なる「意識研究」というフレーズが普及するようになった。

このような議論全体は、すぐにヒッピー文化に組み込まれた。それは1966 年には存在しなかったが、1968 年には鮮やかに現われ、ほぼ一夜にして巨大化し、その社会的影響にはヒッピー自身も驚いたのである。もちろん、これらの出来事には長所と短所がある。そしてヒッピーも今では忘れられ、信用も失われている。

しかし私の意見では、世界はヒッピー世代に非常に多くのことを負っていると思う。 なぜならそれは、人間が心理的な問題を抱えた単なる生体ではない何かで構成されているという概念を導入し、新たな思考をもたらしたからだ。

たとえば、「意識」というものが独立的な存在をもち、それが私たちの種全体を組み込んでいるということは、十分に斬新な考え方だった。人為的に誘発されたサイケデリックな体験によるものであれ、自然にそうなったものであれ、意識が変容の可能性をもち変性状態を持つということは、当時、啓示に近いものだった。

これが新しいことは、それ以前の時代と比較することでわかる。当時は、人間の経験は、個人レベルでの知的または心理的状況として、近代主義の仮説の範囲内でのみ見られていた。言い換えれば、人類という種の意識が問題を抱えていたのではなく、個人の意識の問題でしかなかった。

読者は、これがリモートビューイングと何の関係があるのかと疑問に思われるかもしれない。

1967 年から 1975 年の間、社会を管理するという使命を負った従来の西側の社会政治システムは、上記すべての巨大な公共的側面に対処するのに非常に困難を抱えていた。

哲学者、神秘主義者、または社会学者が、それについて一冊か二冊の本を書くかどうかはたいしたことではない。 しかし、何よりも、アメリカ、フランス、さらにはイギリスやドイツの学生団体が、戦争、核の脅威、社会統制、軍事などに関するさまざまな従来の政策に対して直接反乱を起こしたとき、それはまったく別のレベルのことになった。

その時代に存在し、その驚くべき出来事を覚えているなら、かなりの数の過去の価値観が打ち砕かれ、埃っぽい歴史の中に消えていったことが分かる。
少なくとも私の意見では、およそ 1845 年に始まった近代は 1967 年から 1968 年にかけて突然終わり、やや短いポストモダンが始まった。

いずれにせよ、1972年に私が初めてワシントンを訪れ、さまざまな当局者と超常現象について議論したとき、私は超心理学や過去の時代遅れの心理学的考え方の観点からではなく、人類の普遍的な意識の観点から問題提起を行った。

最初は、これは非常に理解されにくいだろうと思っていた。だが実際には、ほぼ全員が私の言いたいことを少なくとも漠然とは理解していた。意識とその変性状態は、世界認識のリアリティの一部となっていたのである。

1967 年から 1968 年にかけての重大な出来事が起こる前には、この種の理解は不可能であった。だが 1972 年にはそれは議論の余地なく理解されたのである。

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