インゴ・スワン「リアル・ストーリー」(120)
第 42 章 サイコエナジェティクス の誕生
1972 年 6 月 9 日金曜日はスタンフォード研究所での私の最後の日になるはずだった。
そして私にとっては、その日がサイキックや超心理学に関わる仕事に携わる最後の日でもあった。その 80 パーセントは純粋に牛の糞のような仕事だった。
パソフは、手配できれば、もう一度 SRI に来ることを検討してもいいかと尋ねた。私たちはピートのコーヒー店でこのことを話し合った。
被験者として超心理学への私の旅は、11 か月前の 1971 年 7 月中旬に始まった。それ以前、私は確かにこの分野を重要だと考えていたし、サイキックに関する仕事は何年も前から私にとって深い関心事だった。だが当時の私の興味はファンタジーや SFに魅了されているようなものに近かった。
しかし11 か月の直接経験を経て、私はありのままの現実を見た。その中には、この分野が地獄のような場所であることを示す事実があった。
超心理学の内部は狂っていた。外部でも、社会的、学術的、科学的な世界も狂っていた。
パソフは今この件に取り組んでいて、物事は違う方向に向かわせることができると私に保証した。
そうかもしれない、と私は言った。しかし彼にとってはそうであっても、私にとってはそうではない。
結局のところ、彼は博士号を持つ科学者だった。私は博士号を持っていなかったし、もし私が研究を続ければ、私は常に、博士号を持つ研究者が何かをテストするのを待っているだけの被験者と見なされるだろう。
私はパソフに、被験者の寿命はせいぜい3か月程度だと指摘した。1932年にJ.B.ラインの最も成功した被験者であり、ESPを世に知らしめたヒューバート・ピアースでさえ、3か月が経過すると忘れ去られた。
また、科学者は失敗しても、他の仕事に進むことはできると指摘した。しかし、被験者が失敗した場合、その失敗は決定的で致命的だった。
その上、どこにもお金がなかった。私が研究室で過ごした11か月の間に、小説を1冊書き、絵を6枚描くことができただろう。そうすることで、少しはキャリアを築くチャンスがあった。
被験者が使い捨てのモルモットに過ぎない地獄で、私にとってキャリアの機会とは何だったのか?
そして、ああ、そうだ、と私は尋ねた。
「SRIへの航空運賃はいつ払い戻されますか? ゼルダに返済する必要があるのです。」
もうすぐだ、とパソフは答えた。