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インゴ・スワン「リアル・ストーリー」(33)

アメリカ心霊研究協会、より簡単には ASPR と呼ばれる団体は、英国の物理学者サー ・ウィリアム・バレット (1844 ~ 1925 年) とアメリカの主要な心理学者の一人であるウィリアム・ ジェームス (1842 ~1910 年) の努力によって 1885 年に設立された。

その協会は、1882 年に設立された英国心霊研究協会 (SPR) のアメリカ版となることを意図していた。この2つの協会が設立される前は、心霊現象やその他の神秘的な出来事は、自然現象とみなされるか、調査することなく否定されるかのいずれかだった。そして後者が科学的な選択肢として広く普及していた。

この現象を研究するための多くの努力が行われたが、組織化されておらず、科学的基準をみたすための方法がなく、しばしば当事者たちの非生産的な対立に満ちていた。

2つの協会は、願わくば秩序をもたらし、現象を調査するための組織的な基盤を見つけようとして設立された。

だがこの目的は、どんなに崇高なものであったとしても、理想にすぎなかった。その後、両協会はすぐにさまざまな浮き沈みを経験し、時には理想から遠く離れることになった。

2つの協会の歴史を調べれば、最初はすべてが順調に進んだことが分かる。 混乱が生じたのは、内部で権力を巡る対立が起きたときだった。

ジョン・ウィンゲートは私に電話してきて、ASPR の理事会のメンバーが、ASPR で始まる新しい実験に私を「招待」することに同意したと伝えた。

招待状は決定的なものであり、したがって私は実験に参加させてもらうことを請願する必要はないし、事前に自分のことを誇大宣伝する必要もないと言った。

また、事前に実験プロトコルを検討する十分な機会も与えられるが、研究者が被験者にすべてのことを完全に知られないことを好む他の多くの実験設定では、このようなことはほとんどない。

ウィンゲートによれば、研究部長のカーリス・オシス博士から連絡があるので(実際、翌朝電話があった)、協会の利点をもっと知ってほしいとのことだった。

ダコタの有名なアパートメントのすぐ裏、西 73 番街にある ASPRの聖域に入ったとき、私は自分が国際スパイ活動の入口に入ったことになったのだとはまったく考えなかった。そんなことを考える奴がいるだろうか?

私はこれまで何度も ASPR に行ったことがあった。その図書館はとても充実していたが、当時まだプラザ ホテル近くの 57 番通りにあったアイリーン・ ギャレットの超心理学財団の図書館ほどではなかった。ASPR の連中は全員が高飛車に見えたが、超心理学財団はフレンドリーで親切だった。

私は長い間、ASPRの建物はそのような組織として考えうる最も愚かな代物だと思っていた。そこはかつては優雅な邸宅だった。部屋は、図書館と研究の両方のニーズに関して非効率的だった。玄関ホール(1階の大部分を占める)はスキャパレリのピンクと白を混ぜたもので塗られ、上質なマホガニーの壁パネルの元の暗さを覆い隠していた。全体の効果は、ニューヨークのいくつかの高級ホテルの女性用トイレのインテリアに似ていた。

この建物は、ゼロックスの発明者でありこの組織の CEO であるチェスター B. カールソンが寄贈したもので、彼は協会に 200 万ドルの基金を寄付した。カールソンの贈り物は主に、研究部長であるカーリス・オシス博士の努力に対して授けられたものであったが、オシス博士は理事会のメンバーになることはなく、有給の従業員に過ぎなかった。

私が初めてオシス博士に会ったのは1962年で、協会がまだカールソンからの贈り物の前、アッパー5番街のアパートにあった頃だった。

当時、オシス博士は芸術家に興味があり、アーティストが何らかの霊能力を持っているかどうかに興味を持っていた。どういうわけか彼は私がアーティストであることを知り、他の約15人のアーティストのグループと一緒に私を招待してくれた。

しかし、アーティストは言葉ではなく作品を通じて自分自身を表現する傾向がある。それで全体的に誰が何を言っているのか理解するのに苦労した。
1917年にラトビアで生まれたオシスの英語には通訳が必要だった。私を含め、アーティストの誰も彼の言ったことをほとんど理解できなかった。そしてアーティスト同士がお互い理解することもなかった。おそらく理解したいとも思っていなかっただろう。私は次の会議には行かなかったが、参加した人はほとんどいなかったと聞いた。

9 年後の 1971 年 10 月、私は単に図書館を利用するためだけでなく、招待された被験者として ASPR に足を踏み入れ、さらに何らかの実績を持った被験者として ASPR に足を踏み入れた。

今回は誰も上から目線の人はいなかったし、少なくとも当初の時点では誰もが気さくで親切だった。

ここで誤解がないように補足的な説明を加える必要がある。

この時点でアメリカ心霊研究協会はとっくの昔に心霊(サイキック)への関心を放棄しており、それを「実験」することもなかった。超能力者を探そうともしていなかった。超能力者として知られている人をスタッフとして雇用することもなかった。 このことからわかるように、協会はこの場所での心霊相談、特に従業員に関するあらゆるサイキック・カウンセリングを禁じていた。

事実上、協会は超心理学の組織に転換されたが、協会の長い伝統と、超心理学者ではなく心霊研究者だった著名な創設者との直接のつながりのため、「心霊(サイキカル)」という用語が維持されていたにすぎない。
これらの微妙だが重要な違いについてはやがて説明する。

ASPR への参加に役立ったかもしれない私の有利な点の一つは、私が「超能力者」ではないと大いに抗議していたことだった。 どちらかというと、私はたまに「変性意識状態」を経験することのある、「意識の研究者」であった。

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