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インゴ・スワン「リアル・ストーリー」(8)

さて、私たちは「状況 circumstance」という用語を利用して、あらゆる種類のものをそれに帰することができる。しかし「状況」とは何から構成されているのだろうか。それはそもそも何なのか?

物事の周期を分析する人々は、特定の状況が潮の流れのように満ち引きを繰り返し、何度も繰り返されると説明する。しかし、その場合にも、私たちは状況を自分自身の外側にあるものとして観察できると考えている。つまり、私たちは状況に飲み込まれていることに本当には気づいていないのである。

「状況」という用語は一般に「本質的要因と環境的要因の合計」を指す。 この意味で、私たちは通常、自分自身を状況から独立したものであり、選択する力を持った個人であると考えている。 言い換えれば、私たちの個性は周囲の状況から切り離されている。

しかし、辞書によれば、「状況」の定義は「別の条件、事実、出来事を条件付けまたは決定することを伴う条件、事実または出来事」とされる。この定義の 2つのキーワードは、CONDITIONING(条件づけ)DETERMINING(決定)である。 言い換えれば、「状況とは他の状況を条件付け、決定するもの」である。

この定義を拡張し、状況に巻き込まれる人々を含めるならば、状況が、その中に巻き込まれた個人の状況を条件付け、決定するということになる。

この意味で、個人は自らを組み込む状況の中で、プレーヤーにも被害者にもなり得る。つまり状況は条件づけ決定するそれ自体の生命と力を持っており、いわばその状況に組み込まれた個人から独立したものである。個人が状況に組み込まれると、その状況内の単なる要素として機能することになる。

この概念は西洋人にとっては非常に受け入れがたいものである。西洋では完全な個性という概念が最も重要であり、西洋人は特に近代においては、状況に飲み込まれず「状況をコントロール」できると感じている。

私がここで述べようとしているのは、魚が水の海で泳ぐのと同じように、私たち全員が現在進行中の状況の海で等しく泳いでいるということである。 もし魚が自分の環境について説明するよう求められたら、水以外のすべてを指摘するだろう。というのも、水は目に見えないほど遍在しているからだ。海水という状況は、流れ、渦、層、温度などの条件で構成されており、そのどれかに「巻き込まれ」たり、「吸い込まれ」たりする可能性があり、そのすべてが私たちに影響を与える。

自分の個性についての信念とは別に、自分自身の位置に目を向ければ、おそらく自分が組み込まれている状況、そしてそれが自分の人生や現実を決定している状況を認識できるだろう。また他の人が巻き込まれているのに自分は巻き込まれていない状況を特定できるかもしれない。言い換えれば、何らかの状況から完全に独立して個人として生きている人はいない。誰もが単にその中に生まれたという事実によって、あるいは自ら進んでその中にいることによって、または強制的にその一部になることによって、何らかの組み込まれた状況の中に固定されている。 現在進行中の特定の種類の状況の中に留まることを強いられることは別のカテゴリーであり、非常に興味深いカテゴリーである。

したがって、私たちは自分の現実を選択によって固定していると信じているが、実際には、私たちが組み込まれたり吸い込まれたりした状況によって私たちの現実は固定されているのだ。

一方、現実世界において、社会の管理やコントロールは、個々人を管理したりコントロールすることによってではなく、社会集団がその中に組み込まれて存在する状況を管理することによって達成される。

現在進行中の状況において権力を持つ者は、一般にまず自分自身の利益のためにそれらを管理しコントロールする。したがって、それが公に語られることはほとんどなく、語られることさえ許されないが、その他のすべては、他者によって管理または制御される状況内の「駒」になる。

もちろん、ここに含まれる社会学的、哲学的な意味は膨大だが、それらは本書の文脈を超えているので、ここでは触れない。本書の文脈の中では、今後の物語の展開にとって重要な2つの状況に注目する必要がある。

状況は次の二つのバランスの間にある。
(1) 人間のバイオマインドの超能力の存在に関して人類に明らかとなる状況、および
(2)人類がこれらの超能力の体系的な知識から疎外されている状況。

このバランスを理解するためには、2番目の状況が存在する理由を指摘する必要がある。

私はこの原因の究明に30 年以上を費やし、一つの明確な結論に達した。私はここではっきりと言うが、人間のバイオマインドの超能力は「恐れられ、憤慨の対象となっている」。というのは、その所有者は並外れた力と影響力を持つからである。

このタイプの能力は、もっぱら目に見える事象のみに基づいて人間を管理すること、つまり超能力を開発していない人間に対する管理とは相容れない。

人間のバイオマインドの超能力を介してアクセスできるものは「不当な利益」とみなされる。そして遠隔透視(RV)においては、ソビエトによるこの「不当な利益」に対する恐怖こそが、諜報機関の異常な活動の背後にある唯一の動機であった。

ここに互いに対立する2つの状況が生まれた。 まず第一に、超能力が人類に内在するのだとすれば、その証拠と知識は、これからも幅広い領域で何度も何度も「発見」され続けるだろう。第二に、超能力への恐怖(そしておそらくは嫉妬)は、超能力の知識と発展の抑圧に専念する継続的な状況の発動をもたらす。

これら2つの状況の間の「対立」の物語は歴史上明らかであり、それを否定することはできない。また、これは非常に醜い物語でもあり、時には超能力を所有していると疑われる人々の物理的な根絶を伴う。この醜い物語についても今後触れることになるだろう。

二十世紀には、超能力に反対する状況が日常的にあった。それは主にこの世紀の特徴である物質科学によってその存在が否定されていたためである。この否定にアメリカの学術界とメディアの主流派も追随した。

だが、その否定的姿勢の背後には実際の科学的検証は存在しなかった。つまり、現代西洋科学は「超常現象」に対して肯定的にも否定的にも関心を持っていなかった。それらは非常に例外的で不安定な事象だったので、科学的関心の対象とはならなかったのである。

アメリカの主流科学は一貫してアメリカの超心理学者の研究さえも拒否してきた。他の分野では受け入れられ義務付けられている統計的科学的パラメーターに従った研究方法は超常現象については適用されなかったし、そうすべきだという認識もなかった。

1930 年代初頭以降、諜報機関は超心理学の発展を「監視」していた。 しかし著名な科学者、精神科医、懐疑論者などの「専門家の見解」を尋ねたときに彼らに返ってきた答えは、それらは「非科学的」であり「疫病のように避けるべきだ」というものだった。

ここには独りよがりな確信、すなわち世界中のどこを探しても有能な科学者で人間のバイオマインドを真剣に調査する者はいない、ましてや超能力を真剣に調査しようとする者はいないという確信があった。

しかしすでに述べたように、1960 年代後半に一連の「斬新な」状況がアメリカ諜報機関を揺るがした。この一連の状況は、アメリカの大衆には決して公開されていない。その主な理由は、我が国のメディアがそれを公開することを拒否したためである。

このようなことを明らかにすれば、人間のバイオマインドの超能力に関して何か重大な発見があった可能性も明らかにする必要があり、「超常現象」が文化的に疎外されている状況は終わるだろうし、それは哲学的危機を起こすと同時に、ほぼすべての教科書や辞書が書き直されなければならないことを意味するだろう。

アメリカ諜報機関や議会内の一部の指導者たちが、いわば「反超能力船」から突然飛び降りて、別の一連の状況という船に乗り込んだのは、人類のバイオマインドの超能力の性質に関する発見があったからである。

この突然の「逆転」の背後にある状況は、実際には私が生まれる何年も前の 1919 年に起こり始めたものであり、これが次の章の主題となる。

本書の膨大な記述を始めるにあたって、私が推奨できるのは、読者が超能力の存在について懐疑的であっても、信じているとしても、リモートビューイングをあなた自身の「既存の現実」に当てはめようとしないことだ。むしろ状況に焦点を当て、「状況」を考察することだ。なぜなら「状況」の中における条件付け、決定、そして吸引の影響が、この「リアル・ストーリー」を構成するものだからである。それ以外はすべてケーキの飾りにすぎない。魅力的で、ロマンチックで、時には刺激的ではあるが、単なる飾りに過ぎない。

この「状況」における究極の問題は、バイオマインドの超能力が私たちの種の中に存在するかどうかということだ。 もし存在しないとしたら、本書全体とアメリカ諜報機関の一連の行為はお笑い草でしかないだろう。だがもしそれらが存在するなら、リモートビューイングを巡るこの本当の話は、私たちの種の遺伝的プールから生まれすべての世代を通して現れる、長い長い歴史の中の短い一章にすぎない。

鍵は、「状況」について考えてみることだ。

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