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1-16 アラム人の諸国家とダマスクス王国
前1400年頃:シリア砂漠からメソポタミア、シリアに向かい、アクラムというセム系の遊牧民集団の定住運動が起こる
前1200年頃:シリア砂漠からアラム人(アクラムの内の集団)が移動を開始し、東シリアを攻略
前1190年頃:ハットゥシャが放棄され、ヒッタイト帝国が滅亡。アナトリア南東部・シリア北部では旧ヒッタイト領のキズワトナからの移住民が都市国家を建設(新ヒッタイト)。ヒッタイトが滅亡したことで、オリエント世界は鉄器時代に突入し、北シリアなどでは早い段階で実用的な鉄製品が発見されている
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上図:シリア・パレスチナ要図
前1185年頃:エマルがアラム人などの部族に屈する
前1177年頃:「海の民」がアムル地方からシリア沿岸を南下し、エジプトを目指す。また、海からもエジプトに侵入。ラメセス3世はデルタ東部河口で迎撃し、アジア駐屯軍を用いて陸から侵入する「海の民」を破り、その後のナイル川デルタ地帯での海戦でも「海の民」を破った
この後の展開
ラメセス3世は海の民をレヴァントに追い返す戦いを展開したと考えられる。こうした戦いの結果、ラメセス3世はシリアの支配権を再確立した
前1175年頃:東地中海沿岸で行われた破壊活動が終焉。結果的にキリキアなども崩壊した
前1143年頃:ラメセス6世が即位。この時期にエジプトは西アジアに対する宗主権を喪失。東部デルタまでがエジプトの国境となる
前1114年頃:アッシリア王ティグラト・ピレセル1世が即位。彼は数多くの軍事行動を展開し、アラム人を従えた
フリュギア人とアラム人
フリュギア人はティグラト・ピレセルとの抗争を経て、アナトリアの中央高原に定住。アッシリアに対抗するため、アラム人に接近した
前1100年頃:アラム人がアクラムの中で主導権を掌握
前1099年頃:ティグラト・ピレセル1世がバビロニア北部を制圧。この直後、メソポタミアで大飢饉が起こる
前1082年頃:アラム人が飢饉に乗じてバビロニアに大挙侵入し、ハブル川流域に定住。混乱の中、イシン王マルドゥク・ナディン・アッヘは消息不明に。これ以降、イシンとアッシリアとの友好関係が保たれる(アラム人、カルデア人が流入してきたことによる脅威が要因か。カルデア人はアラム人と同じセム語族とされるが特定できない)
アラム人とアッシリア
こうしたアラム人の進出に対し、ティグラト・ピレセルはアラム系の諸国家を破り、地中海にまで軍事遠征を行い、ビブロス、シドン、アラドスから貢物を受け取る
また、ティグラト・ピレセルはシリアから進出してくるアラム人に対して遠征を繰り返し、その本拠地ビシュリ山方面への攻撃のために、ユーフラテス川を28回も渡ったという(結果、下ザブ川からユーフラテス川を越えた地域までを支配)
しかし、アッシリア側はアラム人の進出を止めることはできず、彼らは新ヒッタイトの都市をいくつか占領し、新たな都市を建設。サムアルやビト・アディニ、ビト・ヤキン、ビト・バヒアニ(首都はグザーナ)などがその代表である。やがて彼らはシリアの中央部や南部にも進出し、都市国家を建設
アラム人はラクダの放牧を行い、ラクダを用いた隊商貿易を展開。やがて彼らはシリアの中央部や南部にまで進出し、カナーン人の社会の上に都市国家を築いた
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上図:新ヒッタイト諸国とアラム人の諸国家。アラム人の領域は橙色で表現されている
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上図:復元されたグザーナの宮殿正面
前1077年頃:アラム人が北シリア、メソポタミア、バビロニアに侵攻。結果、肥沃な三日月地帯の主要部を占領した。アッシリアはティグラト・ピレセル1世の治世末に発生した大飢饉の影響もあり、衰退
前1069年頃:エジプト新王国時代が終焉
前1050年頃:パレスチナ北部の港湾都市ドルが突然破壊される。この後、ドルにはフェニキア人が居住している。なお、この時期には周辺の遺跡にも破壊の痕跡があり、フェニキア人の進出の結果とする説もある(軍事力を用いた進出か)
前1050年頃:バビロニア南部にカルデア人が移住
前1026年頃:アラム人の侵入などによって衰退していたイシン第2王朝が滅亡。ナブー・シュム・リブルが最後の王であった。以降、バビロニアでは多くの王朝が交替
前1020年頃:サウルがイスラエル人の王に即位(イスラエル統一王国時代の始まり)
前1000年頃:アラム人がユーフラテス川上流域、シリア北部、ディヤラ川流域にいくつもの小国を建設
前1000年頃:パリシュティン国の王タイタが、トルコ最南端のアムーク平原を中心にユーフラテス川からハマトまで領域を拡大。パリシュティンとは「海の民」碑文の「ペレセト」(ペリシテ人)である可能性もある
前993年頃:ダビデが北方イスラエル諸部族をまとめあげ、「イスラエルの王」となる(ユダ・イスラエル両国を同君連合の形で統治)
ダビデの統治
イェルサレムに遷都し、港湾都市ドルを征服
ペリシテ人やカナーン人、ダマスクスのアラム人らを征服。結果、紅海からユーフラテス川に達する広大な版図を創出
ハマトの王らと同盟を結ぶ
前985年頃:バビロニアにて、マル・ビティ・アプラ・ウスルがエラム王朝(バビロン第7王朝)を創始。この頃にはアラム人がバビロニア地方に侵攻し、諸都市を掠奪
前979年頃:バビロニアにて、ナブ・ムキン・アプリがE王朝(バビロン第8王朝)を創始、長期政権となる。しかし、この頃のバビロンはアラム人によって孤立させられており、南部と東部に定着したアラム系諸部族の軍事行動を王朝は十分に抑制できず
前969年頃:ティルス王ヒラム1世が即位。彼はティルスの拡張など、内政を充実させる(フェニキアの最盛期)
前967年頃:アッシリア王ティグラト・ピレセル2世が即位。彼はアラム人を討伐している
前961年頃:イスラエル王ソロモンが即位。イスラエル統一王国の最盛期を現出。ソロモンは、レバノン・シリア国境付近にまで領土を拡大
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上図:イスラエル統一王国の版図
前950年頃:アラム人のレゾンがソロモンからの独立に成功し、ダマスクスに独立王朝を樹立。アラム人勢力の中心がダマスクスに移る
前945年頃:シェションク1世がエジプト第22王朝を創始。一時的にエジプトの再統一に成功
前934年頃:アッシリア王アッシュル・ダン2世が即位。アラム人への反撃を開始
前931年頃:ソロモン王が死去し、イスラエルの統一王朝が、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂。ソロモンの時代から100年の間に、アラム人がイスラエル王国のサマリアを包囲したが、戦車と軍馬の音に驚き、ヘト(ヒッタイト)人の諸王やエジプトの諸王の力をイスラエルが借りたと思い撤退している
前924年頃:シェションク1世が死去。この後、エジプトではアメン大司祭や地方の独立が加速
前911年:アッシリア王アダド・ニラリ2世が即位。アラム人への反撃を続行している
前900年頃:アダド・ニラリ2世がシドンとティルスを征服したか。ティルスがアッシリアに朝貢を始める
前900年頃:アラム人が新ヒッタイトとイスラエル人の両方と同盟を結ぶ
前891年頃:この頃までに、アッシリアとアラム人の都市国家は6度にわたり小規模な戦闘を行い、両者の国境が確定
前888年頃:ダマスクスでベン・ハダド1世が即位(ベン・ハダド王朝の創始)
ベン・ハダド1世の統治
ユダ王と同盟を結び、アッシリア、トランスヨルダンのアンモン人などと抗争を展開、時には連合
イスラエル王バシャに攻撃されたユダ王アサの支援要請を受けたベン・ハダド1世はイスラエル北部に侵攻し、バシャはラマの包囲を解く。更にベン・ハダドはイスラエルの北端のいくつかの町、キネレト及びナフタリの全土(ヨルダン渓谷の西側、ガリラヤ湖に到るまでの地域)を奪取した
前887年:ティルスの神官エトバアルがペレス王を殺害し、王位を簒奪(エトバアル1世)。この時期、ティルスの覇権がシドンにまで及び、両国は同君連合のような状態となる。結果、エトバアルは「ティルス人とシドン人の王」と呼ばれ、フェニキア王を自称
前886年頃:イスラエル王バシャが死去。ベン・ハダド1世との戦いで戦死したとする説がある。ベン・ハダドは上ガリラヤを一時的に占領
前885年頃:オムリがイスラエル王に即位(オムリ王朝の創始)。首都をサマリアとする。外交面では、子のアハブの妻にティルス王エトバアルの娘を迎え、フェニキアとは通商条約を締結。一方でアラム人のダマスクスとは対立し、ベン・ハダド1世とアフェック(エン・ゲブか)を巡って戦う
前883年:アッシリア王アッシュル・ナツィルパル2世が即位
アッシュル・ナツィルパル2世の拡大
周辺諸国に積極的に遠征。ティルスやシドンをも征服。ティルス、シドン、ビブロス、アルワドなどの都市に貢納させる。結果、西ではバリフ川周辺、レバノン山、地中海沿岸にまで領土を拡大させた
ビト・ハルーペの都市シュルの市民が反乱を起こして総督のハマタイを殺害。ビト・アディニから連れてきたアヒアババ(素性不明)を王とした。これを受けて、アッシュル・ナツィルパルはビト・ハルーペに進軍。反乱の指導者らは戦わずに降伏するも、アヒアババを捕虜とし、市民は全ての叛徒をとらえ、アッシリア軍に引き渡した
前880年頃:アッシリアがシリア・フェニキアの諸都市より朝貢を受ける
前878年頃:イスラエルがアラム人に侵攻され、ヨルダン川東と西パレスチナの一部を喪失。しかし、アッシリアの台頭により、ダマスクスとイスラエルは協力関係に
前872年頃:ダマスクス王ベン・ハダド2世が即位。イスラエルのアハブ王は彼と東ヨルダンの交易路をめぐり交戦。ベン・ハダドはサマリアを包囲するも、奇襲によって撃退された。その後、アフェックにて再戦し、アハブがベン・ハダドを破る。ベン・ハダドは捕らえられ、アハブはダマスクスがオムリから奪った町々の返還を約束させる
前858年:アッシリア王シャルマネセル3世が即位。同年にはティルス、シドンに対して遠征。エトバアル1世は屈服し、アッシリアに貢納した
シャルマネセル3世の遠征
前826年までに35回もの遠征を繰り返す。シリア・パレスチナに数次にわたって遠征し、地中海にまで達する。ティルスとシドンに対して遠征し、貢物を収めさせ、ダマスクスを従属させた
シリア北部に帰還する際には、ユーフラテス川の大彎曲部に存在したアラム系国家ビト・アディニを征服し、アッシリアの前線基地としている
この頃にはビト・バヒアニの首都グザーナも征服され、アッシリアの行政州となっていたか
前853年:アッシリア王シャルマネセル3世がシリアに遠征。抵抗勢力を退けつつ、アレッポとハマトを占領し、カルカルを掠奪するも、ダマスクス王ベン・ハダド2世を中心とする反アッシリア同盟(12の王国の連合)が、およそ10万のアッシリア軍とオロンテス川近郊で激突(カルカルの戦い)。結果、アッシリアの撃退に成功し、アッシリアの進出は一時停止
反アッシリア同盟の陣容
ダマスクス王ベン・ハダド2世を中心に、イスラエル王アハブ、ハマト王ウルヒリナ、フェニキアのアラドス、アルワドのマティヌ・バアル、アラブ人ギンディブ、アンモン、エジプト王オソルコン2世など
この戦いで反アッシリア同盟軍はアラブ王の用意したラクダ部隊も用いていた
カルカルの戦い後の展開
この戦いの後も、同盟軍はアッシリア軍と交戦しており、ダマスクスは5、6度もアッシリア軍と戦ったという
ハマトでは、ウラタミ王の後にアラム系のザクルが王位を奪っている
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上図:シャルマネセル3世治世におけるアッシリアの拡大
前853年頃:アハブがユダ王ヨシャファトと同盟を結び、ヨルダン川東のラモト・ギレアドをアラム人の支配から奪還しようと出陣するも、ダマスクス王ベン・ハダド2世に敗死(ラモト・ギレアドの戦い。諸説あり)
前841年頃:イスラエル王ヨラムとユダ王国の王アハズヤがダマスクス王ベン・ハダド2世と激突。しかし、両王はラモト・ギレアドで敗北(ヨラムは負傷)。この後、イスラエル王国の預言者エリシャはダマスクスに赴き、軍司令官のハザエルにベン・ハダド2世を殺害させる。そして、ハザエルがダマスクス王として即位
ハザエルの征服活動
イスラエルやアッシリア、トランスヨルダンのアンモン人などと抗争を展開。結果、イスラエル王国の諸都市を攻略、ヨルダン川東の全域をイスラエル王国から奪取した
前841年頃:イスラエル軍司令官イエフが王を名乗り(イエフ王朝)、イズレエルに進軍していたヨラムを殺害
前841年:アッシリア王シャルマネセル3世が4度目のシリア侵攻を開始。ダマスクスに遠征し、包囲するも攻略できず。その途上にて、ティルスやシドンなどのフェニキア諸都市、イスラエル王イエフなど、5つの地域から朝貢を得る。結果、フェニキア諸都市はアッシリアの朝貢国となる。オロンテス川下流のパッティンのカルパルンダやダマスクスなども朝貢した
シャルマネセル3世の遠征結果
いつの時期かは不明だが、シリア北部に帰還する際には、ユーフラテス川の大彎曲部に存在したアラム系国家ビト・アディニを征服し、アッシリアの前線基地としている。この頃にはビト・バヒアニの首都グザーナも征服され、アッシリアの行政州となっていたか
前840年頃:イエフがユダ王アハズヤを殺害。イスラエル、ユダの両王を殺害した結果、イエフは南北の両王国を支配。ユダ王にはオムリの孫娘で、ヨラムの妃であったアタルヤが即位
前838年:シャルマネセル3世が5度目のシリア遠征を実施。ダマスクスを包囲し、ティルス、シドン、ビブロスから朝貢を受ける。この時には、イエフがアハブの妻であったイゼベル(ティルス王女)を殺害し、イスラエルとシドンの同盟関係はすでに終了していたか(ティルスとの同盟も終了か)
この後の展開
アッシリアはこれより後にシリア・パレスチナを放棄して、南アナトリアへ向かったため、ダマスクスのハザエル王はイスラエルへの攻撃を開始。結果、イスラエル王国はトランスヨルダン北部を失い、ガトにまでハザエルは遠征
前835年頃:ユダの女王アタルヤが殺害され、ヨアシュがユダ王に即位(ダビデ王朝の復活)。彼の治世にはダマスクス王ハザエルが攻勢を強めており、彼がイェルサレムにまで攻め上った際、ヨアシュはハザエルに貢ぎ物をして難を逃れている(ヨアシュ王はイスラエル諸都市やトランスヨルダンの地域を奪回したとも)
前824年:シャルマネセル3世が死去。以後、アッシリアは縮小の時代に突入
前813年頃:イスラエル王ヨアハズが即位。彼はダマスクス王ハザエルの侵攻を受ける
前805年:アッシリア王アダド・ニラリ3世がダマスクスを包囲。ダマスクス王ハザエルはアッシリアに朝貢した
前805年頃:ダマスクス王ベン・ハダド3世が即位。彼はイスラエル王国を侵略し、領土を奪い取って属国とする。また、ユダ王国も屈服させた
前800年:アッシリア王アダド・ニラリ3世がシリア及びフェニキア(シドン、ティルスなど)に進出し、これらの地を支配下として朝貢を受ける(ペリシテ人の諸都市もアッシリアの朝貢国となった)。また、ダマスクスの攻略にも成功(恐らく王をダマスクスに監禁したか)。加えて、ユダ王国からも朝貢させた
前797年頃:イスラエル王ヨアシュが即位。ダマスクスの弱体をみて、失地の大部分を奪回。一方で、シリア遠征を実施したアッシリア王アダド・ニラリ3世に対しては、ティルスやシドンと同様に貢納している
前796年頃:アマツヤがユダ王に即位
アマツヤとヨアシュの戦い
アマツヤがイスラエル王国と要衝ベト・シェメシュで激突するも、イスラエル王ヨアシュに敗れ捕らえられる(後に解放された)。ヨアシュはそのままイェルサレムに進軍し占領
前783年:アッシリア王アダド・ニラリ3世が死去。国内は分裂し、疫病の流行もあって、アッシリアの国力は衰退
前782年頃:イエフ王朝のヤロブアム2世が即位。彼の治世がイスラエル王国の最盛期で、彼はシリアのハマトから死海までを領有
前782年:アッシリア王シャルマネセル4世が即位。彼はアラム人と戦った
前773年:シャルマネセル4世がダマスクスを攻撃するも戦死。結果、シリアの大半をアッシリアは喪失。以後、後継者争いも発生
前760年頃:ヤロブアム2世がダマスクスを破り、占領に成功
前747年頃:ヤロブアム2世が死去。以後、イスラエル王国は衰退。後継のゼカルヤも同年に殺害され、イエフ王朝は断絶
前744年:アッシリア王ティグラト・ピレセル3世が即位。彼の治世から新アッシリア帝国は勢力を取り戻す(帝国期の幕開けとも)
前743年:ティグラト・ピレセル3世が北方のウラルトゥを征圧
ティグラト・ピレセル3世の拡大
シリア北部に侵入し、この遠征によって、アルパド、メリド、クンムフ、グルグムなどで構成されたウラルトゥ連合軍を破る
シリア、パレスチナ地方での覇権も回復し、ハマト、ダマスクス、ビブロス、ティルス、イスラエル王国から貢納を受ける。後にシリアでパッティナ(ウンキとも)とハマトが反乱を起こすと、両国を攻撃して諸都市を略奪。住民らをイランなどに強制移住させた
前742年:アッシリア軍がハマトを占領。これに対し、イスラエル王メナヘムはアッシリアに降伏し、貢納する
前740年頃:ダマスクス王レツィンが即位。彼は東ヨルダンのバシャン、ゴラン、北ギレアドを回復
前739年頃:ユダ王ヨタムが即位。彼の治世にシリア・エフライム(ダマスクス・イスラエル)連合軍がユダを攻撃
前738年:ティグラト・ピレセル3世がシリア・パレスチナに遠征し、シリア北部の連合軍を撃退。シリアとアナトリア東部に貢納を強制した
ティグラト・ピレセル3世のさらなる拡大
この年までに、クエ、タバル、トゥワナ、サムアル、メリド、クンムフ、グルグム、カルケミシュ、ハマト、ダマスクス、カシュカ、イスラエルなどのシリア・パレスチナ周辺の諸王がアッシリアに朝貢。ビブロスを除く北部フェニキアの沿岸都市は北シリアのアラム人国家とともにアッシリアの属州となった。また、新ヒッタイト諸国のウンキも併合された
前733年頃:アッシリアがガザを占領。これに対し、ダマスクス王レツィンとイスラエル王ペカが他の諸国とともに反アッシリア同盟を結成。しかし、ユダ王国の王アハズはこの同盟に参加せずに親アッシリア政策をとった。そのため、同盟諸国はイェルサレムを包囲(シリア・エフライム戦争)
前733年頃:ティグラト・ピレセルがイェルサレム神殿の宝物と引き換えにアハズを救援。反アッシリア同盟軍を破り、イェルサレム攻囲から解放。イスラエルを劫掠した。また、ティグラト・ピレセルはガリラヤ地方やトランスヨルダンの征服を進めた。以後、ユダ王国はアッシリアに臣従
前732年:アッシリア王ティグラト・ピレセル3世がダマスクス王国を滅ぼす。ラヒアヌ王は殺害され、ガリラヤなどイスラエルの北部もアッシリアが制圧。イスラエルはサマリア周辺のみの領土となる。更にセム系諸民族も破り、全シリアを掌握することに成功した
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上図:ティグラト・ピレセル3世の版図