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アッカド王朝


関連年表

前2334年頃サルゴンアッカド王朝を創始
前2290年頃:ウンマ王ルガルザゲシがシュメール地方を統一
前2285年頃:アッカド王サルゴンがルガルザゲシを打倒し、シュメール・アッカド地方を統一
前2278年頃:アッカド王リムシュが即位。対エラム戦争を行い、全エラムの宗主権を得る
前2254年頃:アッカド王ナラム・シンが即位。「四方世界の王」を名乗り、自らを神格化。多くの戦争によって最大版図を達成
前2217年頃:アッカド王シャル・カリ・シャリが即位。グティ人など周辺諸民族が侵入し、王朝は混乱状態に
前2154年頃:ウルク王ウルニギンがアッカド王朝を滅ぼす


◆前2334年頃:サルゴンがアッカド王朝を創始

 シュメール人がメソポタミア最南部で多くの都市国家を築き始めた頃、セム系の人々はキシュという都市国家を建設した。多くのシュメール人都市国家が相争う中、キシュもその争いに参加し、覇権国家の一つとしてその存在感を発揮していた。しかし、やがてウルやウルク、ラガシュなどの都市国家の前にその力を失っていく。

 そんな中、ウルク王エンシャクシュアンナがキシュの征伐を行った(前2340年頃)。キシュ王は捕らえられ、強力な国家が急にこの地域に不在となる。その間隙を縫って台頭したのがサルゴンである。

上図:伝サルゴン王頭部像。ナラム・シンのものとする説も

出典:Wikipedia

 サルゴンはメソポタミアの覇王の一人として後の世にも知られる。そのため、数多くの伝説が作られた。その一つがサルゴンの出生伝説である。その伝説によれば、サルゴンはある女祭司の子として生まれたが、その祭司は彼を籠に入れてユーフラテス川に流す。その哀れな子を拾ったのが果樹園で働く男であった。彼のもとで成長したサルゴンはやがてキシュ王に仕えることとなった。

 サルゴンにただならぬものを感じたのであろう、キシュ王ウルザババはサルゴンを殺害しようとしたと見られるが、その企みは失敗したようである。やがてサルゴンはキシュから独立してアッカド王朝を開いた(前2334年頃)。

 アッカド市はかつてウルクの攻撃を受けたことが分かっているが、現在どこにあるかは分かっていない。ともあれ、サルゴンはこのアッカド市を中心に自らの王朝を創始する。衰退期にあったキシュはまたたく間にサルゴンに征服され、彼はバビロニア北部の統一に成功する。だが、そのサルゴンの前に立ちはだかった者がいた。シュメール地方を初めて統一した、もう一人の覇王ルガルザゲシだ。


◆前2285年頃:サルゴンがシュメール・アッカド地方を統一

 ウンマ王ルガルザゲシは前2290年頃、長年の宿敵ラガシュを打倒した。ラガシュを破壊し、シュメール地方統一を果たした彼は「国土の王」を名乗り、自らの覇業を広く知らしめようとする。

 この稀代の覇王ルガルザゲシに対抗するための手段がサルゴンにはあった。まず1つ目が常備軍である。おそらく史上初と見られる常備軍の記録が残っているのだが、サルゴンは5400人の常備軍を持っていたという。2つ目は弓である。ラガシュの戦勝碑から分かることだが、シュメールの軍隊にはどうやら弓兵がいない、もしくはその比率が少なかったようである。弓の扱いは高度であり、都市国家に生きるだけの市民にはそれを使いこなすことが困難であったのかもしれない。

 後の戦史からも明らかなように、強い軍隊の条件の一つとして、諸兵科がそれぞれの役割を果たし、連携できていることが挙げられる。一つの兵科に頼りすぎた軍隊には必ず致命的な弱点がある。シュメール人の軍隊は槍兵や戦車隊に頼りすぎたのかもしれない。サルゴンは日常的に鍛えた常備軍と弓の力を持って、軟弱な市民軍を撃破した。上記の記述には推測が入っているが、サルゴンが圧倒的な強さを持っていたことは結果を見れば明らかである。

 シュメール地方を統一したばかりのルガルザゲシはサルゴンの軍隊の前に屈服し、シュメール及びアッカド地方は統一された(前2285年頃)。サルゴンは34回の戦闘に勝利したと伝わり、シリアのマリ市より先にも進軍した。こうして、メソポタミア地方はサルゴンによって統一された。更に彼はイラン方面にも進撃し、エラムの勢力を服属させる。

上図:アッカド王朝の版図

出典:Middle_East_topographic_map-blank.svg: Sémhur (talk)derivative work: Zunkir, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で

 しかし、シュメール地方はサルゴンに完全に屈服したわけではなかった。彼の死後、多くの反乱が勃発することになる。


◆前2254年頃:アッカド王ナラム・シンが即位。最大版図を達成

 サルゴンが死ぬと、リムシュが後継の王として即位した(前2278年頃)。一人の偉大な王によって実現された帝国が、その後継者の代で瓦解するというケースは枚挙にいとまがない。アッカド王朝でもその例に漏れず、シュメール地方は即座に反乱を起こしたようである。ウル王カクという人物が首謀した反乱である。

 しかし、リムシュはこれをよく鎮圧できたらしい。彼はそれだけにとどまらず、エラムにも戦争をしかけ、全エラムの宗主権を獲得した。そのまま彼が統治を続けていれば、アッカド王朝は更に飛躍したのかもしれないが、残念ながらリムシュ王は家臣に暗殺される。

 その後、マニシュトゥシュ王があとをつぎ、対エラム戦争を引き継ぎ、改めてエラムを服従させた。総じて言えば、メソポタミア史上初めての統一王朝であったアッカド王朝はここまでよく維持されていたと言えるだろう。有名ではないものの、サルゴンという偉大な先駆者を継いだこの2王もまた版図の維持という面では英主であったろう。

 だが、アッカド王朝はまだ最盛期ではなかった。サルゴンを上回る最盛期を達成する王こそ第4代王ナラム・シンである。前2254年頃に即位したナラム・シンは早速シュメール地方の反乱に直面する。この反乱はシュメールの諸都市すべてが参加したと伝わるほどの大反乱であったようで、ナラム・シン自身、1年の内に9度もの戦いを行ったという。結果、首謀した都市の一つであるキシュは水攻めにされ、大反乱は終わりを迎えた。

上図:「ナラム・シン王の戦勝碑」。山岳民族であるルルブ族に対する勝利を記念。王は弓を携えている

出典:Wikipedia

 対シュメール全面戦争を勝ち抜いたナラム・シンは大いに自身をつけたのであろう。メソポタミア史では初めて自身を神格化した。古代エジプトにおいては珍しくない王の神格化だが、メソポタミアにおいて王が神格化したことはなかった。あくまで王は神の代理として戦争を指揮するにすぎないというのがメソポタミアの諸国家の姿勢である。その伝統をあえて崩したナラム・シンの強気な態度がうかがえる。

 「四方世界の王」を名乗り、神格化を終えたナラム・シンは領土の大拡張を始める。シリア方面やアナトリア方面、エラム方面などまさに「四方世界」への大遠征の始まりである。これまでシリアで繁栄を誇っていたエブラもナラム・シンの前に屈服し、破壊されたらしい。スサもまた征服され、山岳民族にさえもアッカドの支配は及んだ。ここに、アッカド王朝の最大版図が達成されたのだ。

上図:ナラム・シンの治世におけるアッカド王朝の版図

出典:カタロニア語版ウィキペディアのJolleさん, CC BY-SA 3.0 <http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/>, ウィキメディア・コモンズ経由で


◆前2217年頃:アッカド王シャル・カリ・シャリが即位。周辺諸民族が侵入し、王朝は混乱状態に

 ナラム・シンは確かにサルゴンをも上回る偉大な王であったかもしれない。しかし、その偉大さはその統治によってではなく、征服によってもたらされたものであった。王朝の内外で不満が高まっていたことは想像に難くない。

 前2217年頃にシャル・カリ・シャリ王が即位すると、王朝の勢威は一気に低下した。ザグロス山脈の異民族であるグティ人やエラム、アムル人などの周辺諸民族が一斉にメソポタミアに侵入を試みたのだ。シャル・カリ・シャリ王はこれらの外敵と思いの外よく戦った。アムル人に対しては勝利をおさめてもいる。

 しかし、外敵との戦いが続けば内部でも混乱が高まっていくのは必定である。ウルクやラガシュなどの諸都市が次々とアッカド王朝の支配から離れていった。シュメール人は未だ滅びていなかったのである。その上、先代のナラム・シン王の臣下が謀反を起こして混乱に拍車をかける。後の記録では、「だれが王であり、だれが王でなかったか」と、当時の混乱状態が言い表されている。

 おそらく一斉に王を自称する支配者が立ち上がったのであろう。事実、シュメール人の都市国家は自立しており、その中から著名な王も現れる。王が乱立する混乱状態の中、シャル・カリ・シャリは殺害された。前2193年頃のことである。

 ところで、当時の人々はこうした混乱状態をどう見ていたのだろうか。後の伝承では、グティ人の侵入は神々の怒りに触れた結果であったという。こうした伝承の中でナラム・シンは傲慢な王として描写された。神格化をしたことなどが、人々の目には傲慢に見えたのかもしれない。偉大さと傲慢さはまさに紙一重である。


◆前2154年頃:ウルク王ウルニギンがアッカド王朝を滅ぼす

 ナラム・シン王死去後のアッカド王朝はまさに内憂外患であった。グティ人はメソポタミアに跋扈し、シュメール諸都市は王朝から自立。更に西隣のエラムではシマシュキ王朝が成立し、全エラムが統一された。エラムはこの先もメソポタミアを統一した王朝たちを苦しめ続け、滅亡の要因となっていく。

 だが、アッカド王朝は外敵に征服されるというような、「派手な」最期を迎えることはなかった。じわりじわりと外から、そして内から領土を蚕食され、しぼれていく。シャル・カリ・シャリ王の治世には既に単なる地方王朝とでも言えるような惨状であったが、それでもナラム・シンの死去から60年程度は存続したのである。

 後継者たちが存外優秀であったのか、単に他の勢力から興味を持たれなかったのかは分からない。もはや記録がほとんどないからである。記録を残すべき中央政府が瓦解したのだから仕方がないが。アッカド王朝の最期は前2154年頃に訪れる。アッカド王朝から自立したウルクの王ウルニギンがアッカド王シュ・トゥルルを打ち負かした。そして、アッカドの政庁はウルクに遷された。これは、アッカド王朝が自立した国ではなくなり、ウルクの庇護下に入ったことを意味する。

 その後のアッカドがどうなったかは分からない。ただ、アッカド王朝はこの時点で滅亡したといってもよいであろう。その後、メソポタミアではシュメール人がしばしの間、復権する。ではアッカド人はこの先復権するのか、と言われると答えは否である。シュメール人の文化や伝統はシュメール人の都市国家が滅びた後も残ったが、アッカド人の文化そのものは残らない。

 しかしながら、アッカド「王」たちの伝説は残った。サルゴンはメソポタミア史上初めての統一国家を築いた偉大な王として、この先も語り継がれる。更にアッカド人の文化は残らずとも、アッカド「語」は残った。征服活動とともに広く伝わったアッカド語はその後、オリエント世界の共通言語として使われることとなる。

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