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1-23 ユダ王国の滅亡とユダヤ人の苦難

  • 前705年:アッシリア王サルゴン2世が戦死。これを受けて、各地の属州で叛乱が勃発。ヒゼキヤもアッシリアからの独立を宣言。更に彼は、アッシリアやカナーンの神々への崇拝を粛正

上図:シリア・パレスチナ要図

出典:『古代オリエント全史』
  • 前704年:アッシリア王センナケリブが即位

  • 前703年:センナケリブがバビロニアの叛乱を鎮圧

  • 前702年頃:ヒゼキヤがイェルサレムの城壁を築造

  • 前702年頃:エジプト王シャバタカが即位。彼はパレスチナやフェニキアのアッシリアに対する反乱を支援

  • 前701年:ヒゼキヤが上下水道トンネルの建設を完了させ、水をイェルサレム城内に取り込むことに成功。水源と水を敵に与えないようにした

  • 前701年春:センナケリブが、叛乱を起こしていたフェニキア地方に遠征、ティルス領を侵犯。フェニキア地方以外のシリア・パレスチナ地方にも進軍。フェニキアやパレスチナ南部の諸都市、トランスヨルダンのモアブ人やアンモン人を従わせる

  • 前701年春:ユダ王ヒゼキヤがアッシリアの属王エクロンのパディを捕虜としたことを受けて、センナケリブがユダ王国にも侵攻し、アシュケロンやヤッフォなどのユダの沿岸の町を占領。エジプトのシャバタカ王は息子タハルカ率いる軍をユダ王国への援軍として派遣したが、アッシリア軍はエルテケでこれを破った後、要塞都市の占領を開始

  • 前701年春:ラキシュがアッシリア軍による攻囲戦の末に占領され(ラキシュ攻城戦)、イェルサレムとその周辺以外は占領される(46の要塞都市が占領されたという)

  • 前701年春:アッシリア軍がイェルサレムも包囲したが、攻略には失敗し、アッシリア軍は撤退(野営地で病気が発生したためか)。ヒゼキヤがセンナケリブに貢ぎ物を贈り、領土の削減を受け入れたこともアッシリア軍撤退の要因の一つ。なお、この取り上げられた領土は、沿岸平原とシェフェラ地方の属国に与えられている。以後、ユダ王国はアッシリアに臣従

上図:ラキシュを攻撃するアッシリア軍の攻城兵器。ラキシュからはセンナケリブが攻城のために築いた傾斜路、住民が作ったと思われる防御用の傾斜路も発見されている

出典:Osama Shukir Muhammed Amin FRCP(Glasg), CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前700年頃:アッシリア帝国がペリシテ人の領域を属州化

  • 前681年:アッシリア王センナケリブが息子らによって暗殺される。センナケリブは治世末期にパレスチナを再度攻撃。ユダ王マナセはアッシリアに服属し、自治権を与えられた。他にも、マナセは異教祭儀をイェルサレム神殿に導入している

  • 前680年頃:スキタイ人がパレスチナに侵入

  • 前673年頃:アシュケロンがエジプト(ユダ王国と同盟を結んでいた)と連合し、アッシリアに反乱。結果、連合軍はアッシリアの撃退に成功

  • 前671年:ティルスがエジプトの支援を受けてアッシリアに反乱したため、アッシリア王エサルハドンがティルスを攻略

  • 前671年:アッシリア王エサルハドンのエジプト遠征。この遠征にユダ王国も協力したか。アッシリア軍はテーベまで遠征するも、エジプト王タハルカを捕らえることには失敗。エサルハドンはシリア・パレスチナでの反乱に対処するために、サイスの支配者ネカウ(ネコ)1世(第24王朝の末裔か)に毎年の貢納と引き換えに自治を許すなど、エジプトを小王に分治させる

    • この後の展開

      • タハルカがエジプトに帰還し、支配を奪還

上図:アッシリアの版図(前671年)

出典:Wikipedia
  • 前669年:ティルスがアッシリアに背いてエジプトと同盟を結んだため、エサルハドンがティルスを討伐。この後、エジプトへ進軍するも途上で陣没

  • 前667年:アッシリア王アッシュルバニパルがエジプトに侵攻。再びタハルカ王を南に追いやり、エジプトの反乱を鎮圧

  • 前664年:タハルカ王が死去し、共同統治者であった従兄弟のタヌタマニ(タヌトアメン)王がナパタで即位。彼はアッシリア軍撤退後のエジプトに侵入し、アスワンとテーベ、さらにメンフィスを奪回

  • 前664年:ネカウ1世が死去し、プサメテク1世がサイスにて即位。アッシリアは彼のエジプト支配を承認し、エジプト第26王朝(サイス朝)が成立。以後、エジプト末期王朝時代となる

  • 前663年:アッシュルバニパル王率いるアッシリア軍がテーベを攻略。アッシリア帝国が全エジプトを支配

  • 前655年:プサメテク1世がリディア王国やイオニア人傭兵らの援助を受けてアッシリアから独立。この頃のエレファンティネにはユダヤ人の傭兵が定住させられた(エレファンティネ島はユダヤ人の軍事植民地に)

  • 前642年:ユダ王マナセがアッシリアに背き、捕らえられる。彼はイェルサレムの防備を固め、砦を強化し、新たな外壁を築いていた。この後、ユダ王にはアモンが即位

  • 前641年頃:ユダ王アモンが宮殿内で家臣に殺害される。しかし、この謀反を起こした者たちは国民の怒りを買い、皆殺しにされる

  • 前640年頃:富裕な地主たちがユダ王にヨシヤを即位させる

  • 前633年:アッシリアで内乱が勃発。これを契機として、スキタイ人がシリア・パレスチナに侵入

  • 前629年:バビロニア南部の「海の国」の首領ナボポラッサル(カルデア人か)が南パレスチナにまで進軍(~前627年)

  • 前627年:エジプト軍がアシュドドにてナボポラッサルの軍隊を撃退

  • 前626年:スキタイ人がシリア・パレスチナを破壊し、エジプト国境にまで支配領域を拡大

  • 前626年10月26日:ナボポラッサルのもと、バビロニアがアッシリアから独立(新バビロニア王朝の成立)

  • 前621年頃:ユダ王ヨシヤがアッシリアの国家祭儀を排除し、偶像破壊を推進。また、アッシリアの衰退に乗じて、版図を北に広げ、イスラエルを奪回

  • 前612年新バビロニアのナボポラッサルとメディアの連合軍がアッシリアの首都ニネヴェを攻略

  • 前610年:エジプト王ネカウ2世がアッシリアの残存軍を支援するため、ハランを目指し進軍

  • 前609年夏:ユダ王ヨシヤがおそらく新バビロニアに味方してネカウ2世の進軍を妨害。これに対し、ネカウ2世はメギド郊外にて、ヨシヤを敗死させる(メギドの戦い)。ユダ王国を属国とした

  • 前609年:富裕な地主らがユダ王にヨアハズ(ヨシヤの子)をつけるも、ネカウはヨアハズをリブラに幽閉し、3ヶ月で退位させる。そして、別の子であるエリヤキム(改名させてヨヤキムとした)を即位させた(ユダはエジプトの属国に)

    • ヨヤキムの統治

      • ユダ領内で軍事的・政治的権利を与えられていたアム・ハアーレツ(自由民)を弾圧し、エジプトに対して忠誠を示す

  • 前609年:エジプト軍が更にカルケミシュやハランにまで侵攻したが、ハラン救援に関しては果たせず、新バビロニアがエジプトの援軍を破る。新バビロニア・メディア連合軍によってハランも陥落し、アッシリア帝国は完全に滅亡。しかし、エジプト軍は以後もシリアに残留

  • 前605年8月1日:新バビロニアの王子ネブカドネザルがシリアに遠征。シリアにまで進出していたエジプト軍(アッシリアの残党軍と合流)をカルケミシュやハマトで破り、シリア・パレスチナの支配を一部確立

  • 前605年ネブカドネザル2世が新バビロニア王となる

  • 前604年:ネブカドネザルがシリア・パレスチナに数次にわたる遠征を開始(~前601年)。シリアにてネカウ2世を破り、パレスチナを南下、ペリシテ地方のアシュケロンを占領する。アシュケロンやエクロン、アシュドドやティムナなどのペリシテ地方の諸都市は恐らくこの時に破壊されたと考えられている。この時にユダ王ヨヤキムが新バビロニアに臣従したか

    • ペリシテ地方の諸都市破壊の狙い

      • エジプトと結びつきの強いペリシテ地方を消滅させることが狙いであったか

    • この後の展開

      • ネブカドネザルはパレスチナからエジプト勢力を一掃すると、更にエジプトの川(現在のワーディー・アルアリーシュ)にまで到達し、エジプト軍を南方まで追撃

  • 前601年:新バビロニア王ネブカドネザル2世のエジプト侵攻軍をエジプト軍が東デルタの国境線で迎撃。更にフィリスティヤ南部にて、エジプト軍が新バビロニア軍を撃破。結果的に新バビロニアによるエジプト遠征は失敗に終わった。これを受けて、ユダ王ヨヤキムが叛乱を宣言し、エジプトと結ぶ

  • 前599年:ネブカドネザルがシリア・パレスチナ諸国及びアラブ遊牧民に対する遠征を開始(~前598年)

  • 前598年12月:ネブカドネザル2世が西方遠征を開始し、ユダ王国のイェルサレムを目指す。新バビロニア軍はネゲヴの重要都市アラドを破壊し、イェルサレムを包囲。この包囲戦の最中に、ユダ王ヨヤキムが死去したか(殺害されたとも)。後継者はヨヤキンである。なお、この頃の新バビロニアにはティルスやガザ、シドン、アルワドやアシュドドらが服属していた

  • 前597年3月16日:ユダ王ヨヤキンがネブカドネザルに降伏。ヨヤキンなどの王族や有力者らはバビロンに連行された(第1次バビロン捕囚)。この後、ネブカドネザルはヨアハズの実弟マッタニヤ(ゼデキヤと改名させる)をユダ王とし、ユダ王国は新バビロニアに臣従

  • 前592年:ユダ王ゼデキヤが、エジプトのヌビア遠征に援軍を派遣。両国の間に密約が存在したか

  • 前591年:エジプト王プサメテク2世がユダ王ゼデキアを支援するために、南パレスチナに派兵。これにより、ユダ王国の新バビロニアへの反抗が活発に

  • 前589年2月:エジプト王アプリエス(ウアフイブラー)が即位。彼はキプロス、フェニキアに軍事遠征を実施

  • 前589年:ユダ王ゼデキアが、エジプトの教唆でエドム、モアブ、アンモン、ティルス、シドンの諸王らと共に反バビロニアの陰謀を企て、新バビロニアに叛乱。ゼデキヤは再びエジプトの属王となり、イェルサレムに籠城する

  • 前588年:ネブカドネザル2世がユダ王国領に侵攻し、ラキシュ、アゼカ、イェルサレム以外のほぼ全域を制圧

  • 前588年1月15日:新バビロニア軍がイェルサレムを包囲。これに対し、アプリエスは自ら出兵。エジプト軍接近の噂によって、イェルサレムの包囲は一時解かれるも、再度包囲される

  • 前587年:新バビロニア軍が2年間包囲したラキシュを攻略し、焼き払う

  • 前587年:ネブカドネザル2世がアプリエスの軍に大勝。エジプト軍は撤退

  • 前587年7月19日:ユダ王国領のアゼカの町が新バビロニアによって陥落した直後、イェルサレムも陥落。市街及び城壁、イェルサレム神殿が完全に破壊される(ユダ王国の滅亡)

    • この後の展開

      • ゼデキヤは逃亡するも、イェリコの平野で捕らえられ、ネブカドネザルの本営であるリブラにて残虐な刑罰の後に、多くの住民とともにバビロンに連行された(第2次バビロン捕囚

      • 民族の入れ替えを目的としたアッシリアの強制移住とは異なり、新バビロニアの強制移住は一方向型の移住政策であった

      • 強制移住させられたユダ王国内の人々にはある程度の信仰の自由が保障されていた。これ以降、ヘブライ人の宗教がユダヤ教として確立されていく

      • 以後、ユダ王国領は新バビロニアの属州となり、州都はミズパへと移された

  • 前582年:ユダ統治を任された属州総督のゲダリヤがダビデ家出身のイシュマエルの奸計によって殺害され(アンモン王の教唆とも)、イェルサレムの上層階級の一部がバビロンに連行される(第3次バビロン捕囚)

  • 前539年10月12日:アケメネス朝のキュロス2世がバビロンを無血開城させ、新バビロニアを滅ぼす

  • 前538年アケメネス朝キュロス2世がバビロンに捕囚されていたユダヤ人を解放(捕囚民解放令)し、神殿の再建を命じる。また、帰還民の指導者としてシェシュバツァル(ユダ王ヨヤキンの子)を任命し、属州ユダヤの初代総督とする

  • 前537年:イェルサレムの神殿再建のために基礎が据えられるも、イェルサレムが再び強大となることを恐れた土地の人間の妨害にあい、なかなか工事が進まず

  • 前520年:ユダの総督ゼルバベルが神殿の再建作業に本格的に取り掛かる。この頃にはゼルバベルを王にしようとする計画が持ち上がり、ペルシア側に潰されたという説がある

  • 前515年3月12日:イェルサレムに第2神殿が完成

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