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1-8 カッシート王朝
前1761年頃:バビロン第1王朝のハンムラビがメソポタミアを統一
前1741年頃:ザグロス山岳地帯(主にディヤラ川上流域)のカッシート人(民族系統不詳。イラン方面からザグロス山脈を越えたか)がメソポタミア北部に侵攻するも、バビロン軍に撃退される
前1740年頃:ペルシア湾付近にてイリマイルムが「海の国」第1王朝(バビロン第2王朝)を創始し、バビロンより独立(~前1475年頃)。南バビロニアを占拠。第6代の王グルキシャルは領土を北バビロニアにまで拡大
前1711年頃:バビロン王アビ・エシュフが即位。彼はカッシート軍を征服した
前1683年頃:バビロン王アンミディタナが即位。彼は「海の国」を一時征服
前1670年頃:ヒッタイト帝国が成立
前1600年頃:ユーフラテス川中流域にアムル人の国ハナ王国が繁栄。中心地はテルカ
前1595年頃:ヒッタイト王ムルシリ1世がサムス・ディタナ率いるバビロン第1王朝を攻撃。バビロンは占領され、バビロン第1王朝は滅亡(以後、中バビロニア時代となる)。ムルシリはバビロンに留まらずに退却。その途中でフルリ人を撃破した
前1590年頃:カッシート人がバビロンで王朝を建てたか(カッシート王朝。バビロン第3王朝とも)。ムルシリはカッシート王朝と同盟を締結
前1550年頃:北メソポタミアとシリアのフルリ人の諸国がミタンニ王国(ミッタニ王国)に統一される
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上図:メソポタミア要図
前1500年頃:カッシート王ブルナ・ブリアシュ1世とアッシリア王プズル・アッシュル3世との間で国境が確定される
前1500年頃:カッシート王アグム2世(彼がカッシート王朝初代の王とも)がハナ王国からマルドゥク像などを奪還。マルドゥク像はヒッタイト軍によってハナ王国に持ち去られていたか
前1475年頃:「海の国」第1王朝の王エアガムイルがエラムに遠征するも敗退
前1475年頃:カッシート王朝がエアガムイル王の「海の国」第1王朝を破り、バビロニアを統一。カッシート王朝はバーレーン島にも進出していた
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上図:カッシート王朝の版図
前1457頃:エジプト王トトメス3世がメギドの戦いに勝利し、カデシュ侯をはじめとする君侯ら全てに忠誠を誓わせる。この後、トトメスはカッシートらに朝貢を促した
前1447年頃:トトメス3世の第8回アジア遠征。同王の遠征で最大規模。この遠征でトトメスはミタンニと直接対決を行い、ハラブおよびカルケミシュ近郊で勝利。エジプト軍はカルケミシュ付近でユーフラテス川を渡り撤退
前1447年頃:トトメス3世が遠征の帰路、テュニプを攻略し、カデシュを再び占領。カッシート王朝やアッシリア、ヒッタイトの王はエジプトのシリア支配を承認した
前1417年頃:アッシリア王アッシュル・ベル・ニシェシュが即位。カッシート王カラインダシュと友好条約を締結し、国境を画定
前1400年頃:シリア砂漠からメソポタミア、シリアに向かい、アクラムというセム系の遊牧民集団の定住運動が起こる
前1400年頃:カッシート王カダシュマン・ハルベ1世がシリア砂漠に要塞を建設。半遊牧民撃退のためであった
前1400年頃:カッシート王クリガルズ1世が新都ドゥル・クリガルズをバビロン北方に建設
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上図:ドゥル・クリガルズ
前1390年頃:アッシリア王エリバ・アダド1世が即位。彼はミタンニに対抗して、カッシート王朝と同盟
前1388年頃:エジプト王アメンヘテプ3世が即位。カッシート王クリガルズ1世はアメンヘテプ3世に娘を嫁がせる
前1380年頃:ミタンニ王国がヒッタイトに敗北し、メソポタミア北東部を喪失
前1363年頃:アッシリア王アッシュル・ウバリト1世が即位。彼は対外的には「アッシリアの王」や「大王」を名乗る
前1359年頃:カッシート王ブルナ・ブリアシュ2世が即位。彼は当初、アッシリアを属国と捉えていたが、アッシュル・ウバリト1世の娘を自身の息子の妻とする
前1350年頃:アッシリア王アッシュル・ウバリト1世が、ヒッタイト王シュッピルリウマ1世の支援を受けて、ミタンニ王トゥシュラッタを攻撃。結果、アッシリアは独立。後にアッシリアはアルタタマ2世が築いたミタンニ東部の根拠地を占領する
前1345年頃:シュッピルリウマ1世がカッシート王に王女を与える
前1333年頃:カッシート王ブルナ・ブリアシュ2世が死去。後継者の選定に関して、アッシリアの影響増加を危惧する一派が蜂起したため、アッシリアが直接介入。結果、カッシート王子とアッシリア王女との間に生まれたカラハルダシュがカッシート王に即位するも、アッシリアの干渉に反対する一派に暗殺される。代わりに素性不明のナジ・ブガシュがカッシート王に
前1332年頃:アッシュル・ウバリト1世がナジ・ブガシュを処刑し、クリガルズ2世をカッシート王に擁立。カッシート王朝はシュッピルリウマ1世に王女を嫁がせた。また、クリガルズはアッシリアの侵攻に備えて城壁を建設。他にもエラムと戦い、その王を捕らえてスサを攻略した
前1328年頃:アッシュル・ウバリト1世が死去。彼の没後にアッシリアは一時衰退
前1327年頃:アッシリア王エンリル・ニラリが即位。彼はカッシート王クリガルズ2世を破った。結果、両国の間で領土配分が行われ、アッシリアが領土を拡大
前1323年頃:ヒッタイト王シュッピルリウマ1世がミタンニ領に侵攻(「一年戦役」)。ミタンニの首都ワシュカンニを包囲した後、北西シリアに進撃した
前1323年頃:ミタンニにおいて、王家の内紛で王トゥシュラッタが息子によって殺害される。シュッピルリウマは内紛に介入。ヒッタイトは新たなミタンニ王シャッティワザと条約を結んだ上でミタンニを属国化。自身の娘を嫁がせ、ミタンニ領を半減させる
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上図:シュッピルリウマ1世の遠征図
前1322年頃:シュッピルリウマ1世が疫病により死去
前1305年頃:アッシリア王アダド・ニラリ1世が即位。カッシート王ナジ・マルタッシュはアッシリアとの国境を巡って、アッシリアと激突。アダド・ニラリが勝利した
前1300年頃:ミタンニ王国の残滓としてハニガルバトが成立。しかし、アッシリア王アダド・ニラリ1世の遠征によって、ハニガルバト王シャットゥアラ1世は捕らえられ、属国とされる
前1300年頃:イゲ・ハルキがエラム王となり、イゲ・ハルキ王朝を樹立。以後、エラムの中王国時代が始まる
前1281年頃:カッシート王カダシュマン・トゥルグが即位。アダド・ニラリ1世と条約を結ぶ
前1280年頃:ハニガルバト王ワサシャッタが反乱を起こすも、ヒッタイト王ムワタリ2世はこれを支援せず。ハニガルバトは再びアダド・ニラリの進軍を受け、首都の一つであるタイデなどを占領され、ワサシャッタ王ら一族はアッシュルに連行された
前1264年頃:ヒッタイト王ハットゥシリ3世がムルシリ3世を打倒し、ヒッタイト王に即位。ムルシリは北シリアの属国ヌハッシェに亡命したが、アヒヤワ国やアッシリア、カッシートの支援で反乱を図ったために別の場所(キプロス島か)に送られた。ハットゥシリはカッシートと政略結婚を行い同盟を締結したが、背景にはアッシリアの脅威があったか
前1263年頃:カッシート王カダシュマン・エンリル2世が即位。以降、宮廷での権力闘争が激化
前1260年頃:エラム王ウンタシュ・ナピリシャが即位。彼はカッシート王朝の支配を打破し、ペルシア湾岸の交易網を掌握。更に現在のチョガー・ザンビルに新都アール・ウンタシュ・ナピリシャを造営
前1245年頃:ハニガルバト王シャットゥアラ2世がアッシリアに反乱(ヒッタイトはアッシリアの宗主権を認めていた)。この反乱に対し、アッシリア王シャルマネセル1世はハニガルバトを完全に併合。住民は強制移住させられ、ミタンニは完全に滅亡した
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上図:前13世紀のオリエント情勢
前1225年頃:アッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世がバビロニアに侵攻。カッシート王カシュティリアシュ4世をアッシリアに連行し、マルドゥク神像とともに捕囚。トゥクルティ・ニヌルタはしばらくバビロニア王を名乗り、バビロニア北部を直接統治。また、彼は「シュメールとアッカドの王」を自称
前1224年頃:アッシリアがエンリル・ナディン・シュミをバビロニア王とし、傀儡政権とする
前1216年頃:カシュティリアシュ4世の子アダド・シュマ・ウツルが、アッシリアの支配を跳ね返し、カッシート王に即位。アッシリア勢力をバビロニアから一掃する
前1207年頃:イゲ・ハルキ王朝最後の王キデン・フトゥランがバビロンを2度攻撃。更にアッシリアにまで進軍するも、エラム本国で叛乱が起きたために帰国しようとしたところを、アッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世に敗北
前1207年頃:アッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世が権力闘争の末に息子に暗殺される。アダド・シュマ・ウツルはこの機に弱体化したアッシリアを撃破
前1202年頃:アッシリア王アッシュル・ニラリ3世が即位。バビロンの支配権を巡ってカッシート王朝とアッシリアが激突し、両者とも弱体化
前1190年頃:ヒッタイト帝国が滅亡
前1180年頃:カッシート王朝がエラムに大敗
前1158年頃:カッシート王ザババ・シュマ・イッディナが即位。アッシリア王アッシュル・ダン1世と戦い、北方の領土を喪失
前1158年頃:エラム王シュトルク・ナフンテ1世が、アッシリアの内紛に乗じてバビロニアに侵攻し、バビロンをはじめとするバビロニア諸都市が占領。シッパルから『ハンムラビ法典』碑や「ナラム・シン王の戦勝碑」が掠奪され、スサに運ばれる
前1157年頃:マルドゥク・カビト・アッヘシュがイシンでイシン第2王朝(バビロン第4王朝)を樹立
前1155年頃:エンリル・ナディン・アヒ統治下のカッシート王朝がエラムの攻撃によって滅亡。エラムの王子クティル・ナフンテ2世はバビロンを攻撃し、エンリル・ナディン・アヒ王とマルドゥク神像を捕囚。これにより、エラムはオリエント世界最大の軍事勢力となる(エラムの最盛期)。なお、イシン第2王朝もエラムの攻撃を受けた