1-3 シュメール人とアッカド人の王朝
前5500年頃:メソポタミアにて、周濠や城壁をめぐらせて防御を高めた集落が出現。周濠や城壁はテル・エス・サワンに、城壁はチョガ・マミに残されている。土地争いが起こっていたか
前4300年頃:メソポタミアにて、周辺の小集落群を従属させる村や町が出現したか
前3500年頃:メソポタミア南部でシュメール人(シュメル人。シュメール語ではキエンギ)の都市国家建設が始まる
前3500年頃:この頃に、シュメール人とエジプト人が戦ったか。両者ともに船を用いていたらしい
前3500年頃:ウルクの文化に類似した土器がスサなどで発見される。メソポタミアの勢力がスサに侵攻した結果とも
前3300年頃:南部メソポタミアの人々が商業活動のために、シリア地方などに植民都市を建設(ハブバ・カビラなど)
前3300年頃:南部メソポタミアにて王権が確立
前3000年頃:メソポタミアで銅と錫を合金する青銅器の使用が始まる
前2900年頃:シュメール地方で初期王朝時代が始まる。以後、都市国家間の抗争が激化
前2900年頃:セム人がキシュ第1王朝を創始。キシュ第1王朝はエラム(現在のイスファハーンから南方にかけて広がる勢力)を掠奪したか。なお、キシュと戦ったのはアワンの王であった
前2750年頃:キシュ王メバラシが統治。彼はエラムのスサを侵略したか。これにより、原エラム文明は崩壊。以後、中心地はアラッタ国(シャハダードか。トルクメニスタンのアルティン・デペとする説も)に移り、イラン高原を中心としたトランス・エラム文明が成立
前2750年頃:ウルク第1王朝(ウルクはシュメール語ではウヌグ)の王ギルガメシュ(シュメール語ではビルガメシュ)が従属を迫るキシュ王アガと対決、これを破ったか。アガは捕らえられたが、解放されたという。また、ギルガメシュはエラムの先まで侵攻したと伝わる
ウルク第1王朝の伝説
ウルク第1王朝の王エンメルカル(ギルガメシュ以前の伝説上の王)がアラッタ国からラピスラズリを強奪したという話が残る
ギルガメシュの伝承
ギルガメシュが実在した可能性は高いが、確実ではない。彼はウルクに城壁を初めて建設したという
前2590年頃:ウル第1王朝が成立(~前2450年頃)
前2550年頃:キシュ王メシリムがラガシュとウンマとの争いを調停。この頃にはラガシュとアダブがキシュに従属しており、メシリムが最初の覇者であった
前2500年頃:ウル王メスアンネパダが覇者を示す「キシュの王」を名乗る
前2500年頃:ラガシュにてウルナンシェがウルナンシェ王朝(ラガシュ第1王朝)を創始。ウンマと肥沃な耕地グエディンナを巡って抗争が起こり、ウンマのウシュ王がラガシュに侵攻。また、ウルナンシェはラガシュに城壁をめぐらせたという
前2450年頃:ウル第2王朝が成立
前2450年頃:ラガシュ王エアンナトゥムがウンマと、ウルク王ルガルキニシェドゥドゥなどのウンマの同盟軍を破る。この時の同盟軍には、ウルクの他にウル、キシュ、アクシャク、シリアのマリなどが参加していたか。エアンナトゥム自身は戦いの中で目に矢を受けたという
エアンナトゥムのその他の覇業
エラム王国(スサを都とする)の諸都市やウルア市、ウルク、ウル、キウトゥ、キシュ、アクシャク、マリ、ウルアズを打倒。エラム人は征服され、更にウルアズの王を殺害
ウンマ王エンアカルレと国境を元に戻す協定を結ぶ
「キシュの王」を宣言
前2400年頃:ウンマ王ウルルンマが諸都市とともにラガシュを強襲。ラガシュ王エンアンナトゥム1世は敗死。ウルルンマ以後のウンマ王は「すべての王」を自称
前2400年頃:ラガシュ王エンメテナがウンマをルンマギルヌンの堤にて撃退。ウンマの独立を奪い、ラガシュとウンマの争いに終止符を打つ
前2400年頃:エンメテナがウルク王ルガルキニシェドゥドゥと同盟を結ぶ(最古の同盟)
前2400年頃:ウルク王ルガルキニシェドゥドゥがウル王を兼ね、ニップルに進出
前2400年頃:エラム人がラガシュに侵入するも、神殿の最高行政官であるルエンナがこれを破る
前2400年頃:エンアンナトゥム2世が死去し、ウルナンシェ王朝が断絶。後継として、別の家系(傍系か)であるエンエンタルジが即位
前2340年頃:ウルク第2王朝の王エンシャクシュアンナがアッカド市及びキシュを討伐。キシュ王エンビイシュタルは捕らえられ、キシュは占領された。また、エンシャクシュアンナは「国土の王」を名乗る
前2334年頃:セム語系のアッカド人であるサルゴン(アッカド語でシャル・キン)がキシュ王ウルザババから独立し、アッカド王朝を築く。この後、サルゴンはバビロニア北部を統一
前2300年頃:おそらく軍司令官であったウルイニムギナがラガシュ王ルガルアンダから王位を簒奪し、即位
前2290年頃:ウンマ王ルガルザゲシがラガシュ王ウルイニムギナを倒し、ラガシュを破壊。更にウルクやウル、ラルサなどを征服。自身はウルク王となり(ウルク第3王朝)、シュメール地方を統一。彼は「国土の王」を名乗る
前2285年頃:アッカド王サルゴンがルガルザゲシを打倒。ルガルザゲシは捕虜となった。更にサルゴンはウルやラガシュ、ウンマなどを占領。これにより、シュメール・アッカド地方が統一される(サルゴンは「全土の王」を名乗る)
サルゴンのその他の覇業
西方ではマリにまで遠征し、東方ではエラムを攻撃し、スサを併合。アワンの王を服属させる。なお、アッカド王朝は総督をアワンやスサに派遣している
メソポタミア北部のスバルトゥの地(アッシリア)や下ザブ川上流地域に遠征。恐らくフルリ人とも戦ったと考えられている
サルゴンの軍隊の強さの根源は5400人の常備軍と短弓(複合弓。複合弓とは木、動物の骨あるいは金属を張りあわせて強化した弓のこと)で、34回の戦闘でサルゴンは勝利したという
前2278年頃:アッカド王リムシュが即位。彼はウル王カクが主導するシュメール地方の反乱を鎮圧し、湾岸地方に遠征。さらに対エラム戦争を開始し、全エラムの宗主権を得たという
前2270年頃:リムシュが家臣に殺害される
前2269年頃:アッカド王マニシュトゥシュが即位。対エラム戦争を継続し、アンシャン市やイラン高原奥地に遠征。エラムは服従したという。また、王はペルシア湾岸の諸都市も攻撃。彼の治世には、アッシュルがアッカド王朝に臣従していたか
前2254年頃:アッカド王ナラム・シンが即位
ナラム・シン治世における戦争
キシュとウルクの首謀した、シュメール諸都市全てが参加した反乱を1年の内に9度の戦いで鎮圧。キシュ市を水攻めにしたという。彼はこの後、ナラム・シンは「四方世界の王」を名乗り、自らを神格化
アルマーヌム(アレッポか)及びエブラを征服。更にシリアやレバノン、アマヌス山脈、アナトリア諸地域へ遠征し、レバノンや地中海までの地域を支配(アッカド王朝の最大版図)。アナトリアへの遠征はカネシュに居住するメソポタミア商人らの利益を守るためであったという
エラム主導で反アッカド闘争が起こるも、ナラム・シンはこれを鎮圧。スサも占領
北東の山岳民族ルルブ族討伐のためにザグロス山脈に進軍し、ルルブ族の首長サトニを破る
北方の平原に広がるスバルトゥ(アッシリア)を征服。ルルブ族やスバルトゥには貢納を課した
ペルシア湾頭やマガン(現在のオマーン)を攻め、マガンからは朝貢団が到来した
アナトリアでハッティ王パンバ、カネシュ王ジパニ、クッシャラ王ティシュビンキ、そしておそらくブルシュハットゥム王ヌール・ダガンら17人の支配者の連合軍がナラム・シンに対して反乱
なお、ナラム・シンの時代以降にシリアでは各地で都市が破壊されている。この破壊の原因が外部の諸王朝によるものか、移住者(例えばアムル人)の襲来によるものかは不明
前2250年頃:ナラム・シンがイラン高原西部のアワンの王と条約を結ぶ
前2217年頃:アッカド王シャル・カリ・シャリが即位
シャル・カリ・シャリ治世における出来事
ザグロス山脈の異民族グティ人やエラム、遊牧民のアムル人(シュメール語でマルトゥ人。セム語系)が侵入
シャル・カリ・シャリが南方・北方・西方の諸国と戦う。特にアムル人に対しては、バシャル山の戦いにて勝利
グティ人の支配のもとにウルクやラガシュなどのシュメール諸都市が離反。アッカド王朝は地方政権となる
ナラム・シンの臣下が謀反を起こす
こうした混乱状態の中、「だれが王であり、だれが王でなかったか」と書かれるほど、アッカド王朝は衰退状態となる
前2200年頃:西アジアの広い範囲で気候変化が発生。これに伴う乾燥化がアッカド王朝の衰退を招いたか
前2200年頃:フルリ人のアタル・シェンが「ウルキシュとナワルの王」を自称。下ザブ川とディヤラ川に挟まれた地域、ハブル川上流域までを領有
前2200年頃:エラムのシマシュキにて王朝が成立し(シマシュキ王朝)、スサやアワンを統合、全エラムが統一される。エラム王はメソポタミア南部に侵入し、アッカド王朝滅亡の要因の一つとなる。また、ウンマやスビル、カザルとその周辺地域、更にウザルムなどを服属させた
前2200年頃:ラガシュ第2王朝が成立
前2193年頃:シャル・カリ・シャリが殺害される
前2154年頃:アッカド王シュ・トゥルルが、ウルク第4王朝の王ウルニギンに敗北。アッカドの政庁はウルクに遷され、アッカド王朝は滅亡
前2150年頃:グデア王の治世にてラガシュ第2王朝が繁栄
前2123年頃:ウルク第5王朝のウトゥヘガルがグティ人の王ティリガンを破る。ティリガンはダブルムに敗走するも、捕らえられた
前2113年頃:ウトゥヘガルが溺死
前2112年頃:ウトゥヘガルの弟(息子とも)で、ウルの軍事司令官のウルナンマがウルで独立。ウル第3王朝を創始
ウルナンマ治世における出来事
『ウルナンマ法典』を編纂(最古の法典)
エラム支配下で奴隷状態にあったウンマ、スビル、カザルとその周辺地域、更にウザルムに自由を回復させる
エラムのシマシュキ王朝がウル第3王朝と争う一方、ウル側はエラム諸都市の総督に娘を嫁がせている。シマシュキ王朝の中期には、エラムの支配権はアンシャン(現在のイスファハーンからファールス地方にかけての地域)の支配者に移行し、スサは独立
シリアのマリ王国がウル第3王朝に従属し、王女を嫁がせている
アッシュルがウルに臣従し、ウル第3王朝の版図はビブロスにまで及び、覇権はアナトリアにも及んだ
前2100年頃:メソポタミア、エジプト、シリア、パレスチナ、アナトリア各地にハビルが出現。彼らはエジプトの権威に従わず、不当占拠や略奪などを行っていたと考えられ、伝統的社会制度に組み入れられない人々を指していたか
前2095年頃:ウルナンマ王が戦死
前2094年頃:ウル王シュルギが即位。シュルギの治世がウル第3王朝の最盛期であった。臣従していたマリは恐らくシュルギに娘を嫁がせている
前2075年頃:ウル王シュルギが常備軍を設立したか
前2074年頃:シュルギがティグリス川東岸のデール市を征服
前2072年頃:シュルギが自身を神格化
前2071年頃:シュルギによる第1次フルリ戦争(~前2068年頃)。シュルギは北部イラク、シリア、トルコにあった諸国に遠征。これらの地域にはフルリ人が多く居住。彼らはザグロス山中からヴァン湖周辺、トルコ南東部からイラン北西部にまで広がっていた。この年にはカラハルが征服される
前2070年頃:シュルギがフルリ人の国シムルムを征服
前2069年頃:シュルギがシムルムを再度征服
前2068年頃:シュルギがフルリ人の国ハルシを征服
前2064年頃:シュルギによる第2次フルリ戦争(~前2062年頃)
前2058年頃:シュルギ王がアムル人の侵入を防ぐために「バド・イギフルサグ」という城壁を現在のバグダード北方に建設
前2053年頃:シュルギによる第3次フルリ戦争(~前2047年頃)
前2051年頃:シュルギがシムルムに遠征(9度目)
前2050年頃:シュルギがシムルムに遠征
前2047年頃の11月2日:シュルギ王が死去。後継は息子のアマル・シン
前2041年頃:ウル王アマル・シンの兄弟(親子とも)であるシュ・シンが王を自称。アマル・シンの后妃アビ・シムティがシュ・シンの王位簒奪を助けたか
前2039年頃:アマル・シンが死去。首都で政変が起こったか
前2037年頃:シュ・シンがウル王に即位。彼の治世にはエラムにて、ザブシャリ国が中心となり、おそらくウルミア湖周辺から南部までの地域が反乱。シュ・シンはこれを鎮圧
前2035年頃:フルリ人の国シマヌムがウルに反乱。シュ・シンは娘をシマヌムに嫁がせていたが、シマヌムは娘を追放。シュ・シンはシマヌムを破り、シマヌム人を強制移住させる
前2035年頃:シュ・シンがシムルムに遠征
前2034年頃:シュ・シンがアムル人対策として「ムリク・ティドニム」という西方防壁を建設
前2023年頃:ウルで大飢饉が発生
前2017年頃:ウル第3王朝の武将で、穀物の買い付けを命じられたマリ出身のイシュビ・エラがイシンにて独立。イシン第1王朝を創始。当時、多数のアムル人がシュメール地方に侵入し、要塞などを攻略。一方で、イシュビ・エラはアムル人の族長らと友好関係を築く
前2010年頃:イシュビ・エラがアムル人のヌール・アフムをエシュヌンナの支配者(知事)とする
前2005年頃:エラム人がメソポタミアに侵入。これに対し、ウル王イッビ・シンとイシュビ・エラが連合したか
前2004年頃:エラム王キンダットゥがウルを占領。ウル王イッビ・シンはアンシャンに連れ去られ、ウル第3王朝は滅亡。エラム人はシュメール南部の諸都市を破壊するも、イシンなどの北部の諸都市は持ちこたえる