1-24 エーゲ文明
前6500年頃:アナトリアの農耕文化がバルカン半島へ伝播。農耕民がレヴァント地方から移住してきたとも(異説あり)。以後、新石器時代となり、農耕文化は北上していく。なお、南ギリシアやキクラデス諸島には北ギリシアと異なって集落が少ない。キクラデス諸島に新石器文化が広がった背景には生産性の高い六条大麦への転換であったか
前6000年頃:クレタ島に人間が居住を開始。当初は無数の部族に分かれていた。やがて彼らは黒曜石(ミロス島から到来)を利用するようになる
前5300年頃:ギリシアのテッサリアの各遺跡にて、周壁や環濠が作られる。周壁はディミニに(諸説あり)、環濠はオッザキやアルギッサ、アラピなどに存在。また、ブルガリアから伝播したと思われる冶金術によって、銅製の武器が作られ、集落間の戦争が始まる
前5000年頃:北ギリシアにて社会的混乱が発生し、セスクロ遺跡などが焼壊
前3200年頃:キクラデス諸島などで、青銅器時代が始まる(エーゲ文明の始まり、キクラデス文化)。この頃には要害の地に集落が建てられ、やがて青銅製の短剣や鑿、鋸や錐などが作られる。この後、青銅器はペロポネソス半島、そして中央ギリシアに伝わる
前3000年頃:南ロシアの草原地帯で原インド・ヨーロッパ語を話す集団が確立。西方への移動を開始し、ヨーロッパ各地に移住。アナトリアにはルウィ人が移住
前3000年頃:小アジアにトロイア市が成立
前2600年頃:ギリシア本土にヘラス文明が成立
前2600年頃:クレタ島で金属の使用が始まる。ビブロスやトロイアから伝播したとも。この頃にはマリアで要塞が築かれている。一方で時が経つにつれてクノッソスやファイストスなどが、西ヨーロッパや北部との貿易で繁栄していくようになる
前2500年頃:エーゲ海中央部の島々に、アナトリアから青銅冶金に特化した人々が到来したか
前2500年頃:エウボイア島にてマニカ遺跡が築かれる。ヨーロッパ最古の都市か。この時代の集落には城壁が伴うことも
前2500年頃:アルゴス湾西岸にあるレルナにて「瓦屋根の館」が建造される。大規模な回廊付き建築物であり、行政の中心地であったか。他にもサロン湾のエギナ島やメッセニアのアコヴィティカ、ティリンスにも建築物がつくられた
前2400年頃:シロス島のカストリで青銅冶金が行われる
前2400年頃:クレタ島で青銅をつくる合金が発明される
前2300年頃:キクラデス文化の集落で城壁が築かれないようになる
前2200年頃:アルゴス平野のレルナなどのギリシア本土、エーゲ海島嶼部の集落が破壊される。この時にインド・ヨーロッパ語系のギリシア人が北方から到来したとも(異論あり)。一方、クレタ島では明確な文化の断絶は確認されず。以後、ギリシア本土では移動性の高い牧畜を中心とする生活様式にシフトしたか
同時期に焼け落ちた集落
コロンナやアルゴス平野のヴェルヴァティ、ジグウリエスやアイオス・ゴスマス、フィヌウ・コリフィでも集落が焼け落ちている
前2200年頃:トロイア第2市が外敵の襲撃を受けて炎上、壊滅
前2100年頃:メサラにて、ファイストスの首長が競争者を一掃
前2000年頃:フィラコピやパリキア、アイア・イリニやサントリーニ島のアクロティリで、大規模な集落が築かれる
前2000年頃:クレタ島のクノッソスとファイストスに王の宮殿が建造される(クレタ文明の始まり。ミノア文明とも)。担い手の民族系統は不明で、フェニキア人説や、エジプトを逐われたセム語族が避難場所として定着したとの説もある
クレタ文明の支配
クノッソスなどにやや遅れてマリアやザクロスにも宮殿が出現。これらの宮殿には城壁がなく、外敵に対する警戒はみられない。文明圏において、城塞が全くないわけではない。島の北部はクノッソスが、南部はファイストス、東端部はザクロスがそれぞれ支配し、政治的なまとまりがあったか
クレタ人は小アジア南西部沿岸に浮かぶカソスなどの島々やミレトスなどの対岸に拠点を築き、エーゲ海南東部へ進出を開始。ミレトスには居留地をおいていたか、現地人社会を一定程度支配していたか。ロドス島のトリアンダなどにもコロニーを築いていたと考えられている。彼らは一時期ギリシアを支配し、シチリアにも植民地を築いていたとも
キクラデス諸島はクレタ島の支配圏に組み入れられ、クレタ島の王はアテネから貢ぎ物を徴発させていたらしい(ピュロスやオルコメノス、テーベ、ミケーネに生まれた王朝も時として、クノッソスの宗主権を認めたか)。クノッソスが周辺の地域を支配しており、東部の諸都市とも戦いを展開していた(前2000年紀初頭の戦争による宮殿の破壊の跡が見られる)
この頃の都市は集住で成立したが、集住には外敵からの効果的な防御が期待できたか
前2000年頃:アカイア人がバルカン半島に移住(ギリシア人の第一次民族移動)
前1900年頃:マリアの初期の宮殿が放棄される。アジアとの貿易が振るわなくなる
前1780年頃:クレタ島の諸宮殿が倒壊するも、後に再建される。中央の農民や山間部の諸王国でクノッソスに対する反乱が起き、それに移民が同調したことが原因か(地震の影響とも)。以後、新宮殿時代とされ、クレタ文明は最盛期を迎える。クノッソスがクレタ島の大部分を支配する大勢力に
クノッソスの宮殿
一説によれば、クノッソス宮殿の支配者は女性の権力者もしくは女性の神官とも言われている。
四大宮殿
ファイストス、マリア、ザクロス、クノッソスは四大宮殿と総称される。マリアの宮殿には再び人が住み始めた。他にもハギア・トリアダに宮殿が建てられ、ファイストス王の居所となっている
海外との関係
新宮殿時代には新たにテロスやコスなどにクレタ人が進出。ミレトスはクレタ人のコロニーとしての性格を強め、ロドス島のトリアンダとイアソスにもコロニーがあったか
クレタ人はキクラデス諸島やペロポネソス半島、アルゴリダとの関係を回復させ、現地の人々を服従させていく
前1700年頃:ギリシア系のミケーネ人(アカイア人の一部)がギリシア本土に定住
前1700年頃:キクラデス文化がクレタ文明に統合される
前1670年頃:ヒッタイト帝国が成立したか
前1650年頃:ミケーネ文明最古の遺跡である円形墓域Bが築かれる(ミケーネ文明の始まり)。この頃のミケーネには王がいたとも考えられており、その王家は2系統あったとも。副葬品には青銅の長剣や短剣があるなど、ミケーネ文明の王は軍事を重視
前1628年頃:テラ(サントリーニ)島での火山爆発によって、アクロティリが火山灰に埋没する。クレタ島の宮殿や船舶が破壊されたか
前1600年頃:ミケーネ文明の中心地が建設される(ミケーネやティリンス、ピュロスなど)
ミケーネ文明の特徴
諸都市には国王が存在し、官僚制によって統治が行われていた。なお、彼らはギリシア語を話す人々であった。また、青銅の剣などを副葬品とし、攻撃のために戦車を重視するなど(歩兵隊は戦車の後方を支えるために展開された)、ミケーネ文明では戦争に関わるものの比重が大きかった。ミケーネの周囲には道路が敷設されており、戦車の走行を目的としていたか
ミケーネ文明では、王の下に首長らが存在していたと考えられている。地域エリートによる集団的支配体制であったとする説もある
テッサリアにはイオルコス、中部ギリシアではオルコメノス、テーベ、アテネ、アルゴス平野にはミケーネ、ティリンス、ミデアなどが小王国の中心地として栄えた。ペロポネソス半島南西部のメッセニアではピュロス王国が発展している
ミケーネ人は小アジアのミレトスやコロフォンを征服。シリア、レバノン、イスラエルの海岸域に定住地を建設した。他にもサルデーニャ島やイタリア半島のタラント湾岸にも交易のための拠点を建設し、グレートブリテン島にまで進出。更にシチリアの北にある、エオリア諸島のリパリに拠点があった。また、サモス島にもコロニーが築かれた
前1600年頃:この頃より以前に、ウィルサ(トロイアか)がヒッタイトに服従
前1600年頃:クノッソスの王がクレタ島を統一
前1580年頃:クノッソス大宮殿の宝物が敵(アカイア人か)に荒らされる。また、この頃にはハギア・トリアダが実質的なクノッソスの植民地となっていた。マリアも小アジアの混乱で衰退。ファイストスでは、エジプトがヒクソスの影響で混乱したため、エジプトとの交流が一時的に断絶した。一方、クノッソスは最盛期を迎え、地方の領主らを屈服させて各地に総督を派遣している
クノッソスの最盛期
伝説上のミノス王は90もの都市すべてを支配したという。カリア人が逐われたキクラデス諸島にも支配を広げ、海賊の掃討にも力を入れたと伝わる。その支配圏はキクラデス諸島、アルゴリダの地峡、アッティカ東海岸、マラトンの平野という。なお、伝承からクノッソスの王は再選されることでその地位を保証されたという説もある
ミノス王は沿岸警護のために軽装備艇を発明したという
クノッソスの王朝は南部のエテオ・クレタ人(先住のクレタ人)、西部のペラスゴイ人とキドニア人、東部のリュキア人と戦っていたか。3世紀かけてクノッソス王は統一事業を進めたという
クレタ人はペパリトス島にも進出し(地震の影響か)、キオス島やスキュロス島、デロス島、エウボイア島にも広がっていった。更にペロポネソス半島東部からアルカディア(ダナオス王朝が定着)、ラコニア(レレクスの王朝が支配)、ボイオティア(カドモスが征服)、アテネにまで到達。アテネは人や物をクノッソスに貢納させられた。また、キプロス島をも支配したとする説もある
クレタ人はイオニア諸島を通って、ケルキュラ(コルフ)島には植民地が建造。シチリア島やサルデーニャ島、イベリア半島やバレアレス諸島、タラントにまで到達した。ミノス王の死後にはメッサピ人の地にヒュリアを創立したというが、実際にクレタ島の土器が見つかっている。また、ロードス島は西アジアへの前哨基地となった
前1560年頃:エジプトのテーベの政権がヒクソスの王からの独立戦争を開始。ヒクソス撃退のためにミケーネ文明の人々が傭兵とされたとも
前1500年頃:小アジア西部でアヒヤワ(ミケーネ人)が興隆。ヒッタイト帝国に対抗し、キプロス島でも軍事行動を展開。また、ウィルサの問題にも干渉し続ける
前1500年頃:東地中海のクレタ人コロニーをミケーネ人が継承して支配
前1458年頃:ハトシェプスト女王が死去ないしは退位によって政治の表舞台から姿を消し、トトメス3世が単独統治を開始
クレタの朝貢
クレタ島の人々(ケフティウ。ケフティウが指す地域については諸説あり、クレタとキリキア説、キリキア説、シリア北部説がある)がエジプトに朝貢。クレタ島の人々は外敵の脅威に対して、エジプトに援助や庇護を求めたとする説も
前1460年頃:ヒッタイト王トゥトハリヤ1世が即位
トゥトハリヤ1世の征服活動とアナトリア情勢
トゥトハリヤが西方のアルザワ諸国(アルザワ、ハッパッラ、川の国セハ。セハはトロイアの南東)へ遠征を行い、エーゲ海にまで領土を拡大
上記遠征の帰途にて、レスボスに近い沿岸地域の西方諸国はアシュワ同盟(なお、アヒヤワはかつてアシュワと政略結婚をして、アシュワはエーゲ海沿岸沖にある島々をアヒヤワに譲渡したという)という22か国(トロイアも含まれる)から成る反ヒッタイト同盟を結成した
アシュワが譲渡した島々はレムノス島、インブロス島、サモトラケ島であったか
ピヤマ・クルンタの兄弟は援助を集めようとしたが失敗。トゥトハリヤはアシュワ同盟に勝利し、アナトリア西部を征服(1万の歩兵などをハットゥシャに連行)。ピヤマ・クルンタはアヒヤワの王とともに降伏した
トゥトハリヤはアシュワ王ピヤマ・クルンタらを捕らえ(彼の兄弟は援助を集めようとして失敗した)、その子クックリをアシュワ王として属国化し、同盟を再建させる
クックリが反乱を起こしたため、これを滅ぼす(アシュワの乱。これにミケーネ人が関与し、ヒッタイトと戦うか、アシュワに武器を供給していたか)。このときにヒッタイトがアナトリアのエーゲ海沿岸沖の島々を占領したと思われる
またトゥトハリヤの治世に、アヒヤワの支配者(軍事的指導者か)アッタリッシャに襲撃され、王位を失ったルッカ(南西アナトリアのリュキア)の王マドゥワッタがトゥトハリヤの宮廷に保護を求めたため、王は彼を山岳地帯のジッパスラ王としている(アルザワを侵略することを条件とした)
なお、アッタリッシャはアナトリア西海岸にてヒッタイト軍と交戦した(ヒッタイト側は100台もの戦車を投入したという)。この後、マドゥワッタはアルザワを襲撃したが、その王クパンタ・クルンタの反撃によって、ジッパスラを喪失
トゥトハリヤによって再びマドゥワッタはジッパスラの王位を回復したが、アナトリア西海岸にてアッタリシャの襲撃を受ける。そこで、ヒッタイト軍は将軍キスナピリ率いる援軍をジッパスラに救援に送り、そこに常駐させた
この後にマドゥワッタはアルザワ王と結び、他の侯国を扇動してヒッタイトに反乱。キスナピリも欺いて殺害し、アルザワ王クパンタ・クルンタの暗殺を謀り、その王女と結婚してアルザワ王となった。マドゥワッタは次に、アッタリッシャと結び、ヒッタイト傘下の独立国アラシヤ(キプロス島)に侵攻
前1450年頃:ファイストス、ハギア・トリアダ、ティリッソスの宮殿が破壊される。アカイア人による侵略か、クレタ島民の反乱であったかは不明
前1450年頃:ギリシア人(アカイア人、ミケーネ人)がクレタ島に侵入して、クノッソスとそれより小規模な宮殿を征服(以後、クノッソスだけが宮殿としての機能を維持)。クレタ島を支配下とした。なお、ミケーネなどのギリシア本土のギリシア人はすでにクレタに進出はしていたか。彼らの海外進出はクレタ人のそれを上回っており、東地中海を制覇
伝説
アカイア人のイドメネウスが、ミノス王の王朝(ミノア王朝)を征服したという。イドメネウスは新王朝の象徴であったか。後の『イリアス』では、イドメネウスはクレタ島における100にのぼるポリスの長と書かれている
前1440年頃:ヒッタイトがカシュカ族の侵攻などで衰退
前1400年頃:ミケーネやティリンス、ピュロスなどに堅固な城塞をもつ宮殿が築かれる(~前1300年頃。ミケーネ文明の最盛期)
前1400年頃:クノッソスの宮殿が破壊される。先住民のクレタ人によるアカイア人に対しての反乱か、大地震が原因であった。この後、グルニア、プセイラ、ザグロス、パレカストロなどクレタ島の諸都市が次々と崩壊。結果、アカイア人は撤退したが、後に彼らはグルニアに居住
前1400年頃:ドーリア人がエペイロスと南西マケドニアから進出。彼らはアカイア人に服従し、軍事行動にも加わる
前1350年頃:ヒッタイト王シュッピルリウマ1世が即位。彼の治世に、ヒッタイト人がアヒヤワ人に戦車の操縦法を教えている
前1340年頃:シリア、ヌビア、エーゲ諸島などの使節団の貢租献上の儀式がエジプトにて挙行される
前1323年頃:シュッピルリウマ1世がミタンニを攻撃し、属国化。アナトリアの覇権も掌握
前1320年頃:アルザワ王ウハジティがアヒヤワ王(アヒヤワの勢力は小アジア西岸の島々にまで及んでいた)及びミラワタ(ミケーネ人最大の拠点ミレトスか)と組み、ヒッタイトを攻撃
ヒッタイト側の反撃
ヒッタイト王ムルシリ2世が兄のシャッリ・クシュフ(カルケミシュの副王)とともにアルザワ軍を破り、アルザワの住民らを強制連行。アルザワ国の都アパサ(後のエフェソス)を攻略。ウハジティは沿岸の島に逃亡し、亡命中に死去
これにより、ハパラやミラ、川の国セハ(王はマナパ・タルフンタ)といったアルザワと同盟を結んでいた国々はヒッタイトに服属
ムルシリはミラ・クワリヤをマシュフイルワに、川の国セハとアッパウィヤ両地域をマナパ・タルフンタに、ハパラをタルガシュナリに与える。更にミラワタも占領したことで、アナトリア西部をヒッタイトが掌握。翌年も西方遠征が行われている
ヒッタイトはミラワタに対するアヒヤワの支配権を認めたが、アヒヤワはこの後もヒッタイト領に干渉を続ける
前1316年頃:ヒッタイトがミラワタをアヒヤワから奪還。ミラワタは占領・破壊された
前1300年頃:この頃までに、ムルシリ2世がアルザワ王を放逐
前1300年頃:トロイアが地震で壊滅。後に再建
前1300年頃:ギリシア本土でテーベが繁栄したか。テーベはこの頃、ギリシア最大の国であったとも。伝説ではカドモスが建設した
前1300年頃:カナキアが繁栄。サラミス周辺の政治的・経済的センターであったか
前1300年頃:この頃からギリシア本土の諸都市の一部で破壊が始まる。長期間にわたる破壊の始まりか
前1294年頃:ヒッタイト王ムワタリ2世が即位
ムワタリ2世治下の出来事
治世当初に、西方でピヤマラドゥ(かつて放逐されたアルザワ王の孫か。ミラワタの王女と結婚したという)がヒッタイトの属国ウィルサを支配下に置く。川の国セハの王マナパ・タルフンタはヒッタイト王からピヤマラドゥを追い出すように命じられるも失敗
ウィルサ救援のためにヒッタイトは援軍を派遣するも、マナパ・タルフンタは病気を口実に援軍とともに出陣することを拒否
ムワタリが属国のミラ及び川の国セハの助けを得てピヤマラドゥを追放、アラクサンドゥをウィルサ王に据える。ピヤマラドゥはアヒヤワ人らに匿われた
後に、川の国セハの王マナパ・タルフンタは、おそらく反逆者ピヤマラドゥの攻撃を受けて王位を失い、息子と思われるマストゥリが後を継ぐ(ムワタリがマナパ・タルフンタを排したとも)
前1280年頃:ウィルサのアラクサンドゥがヒッタイトに敗れ、ヒッタイト王ムワタリとの間で相互防衛協定を締結。この協定以前に、ムワタリはウィルサを敵から防衛したという
前1272年頃:ヒッタイト王ムルシリ3世が即位。ムワタリ2世の晩年にはエーゲ海沿岸のヒッタイト領はアヒヤワ国によって不安定となっていた
前1264年頃:ハットゥシリがムルシリ3世との争いに勝利し、ヒッタイト王に即位(ハットゥシリ3世)。ムルシリは北シリアの属国ヌハッシェに亡命したが、アヒヤワ国やアッシリア、カッシートの支援で反乱を図ったために別の場所(キプロス島か)に送られる
ハットゥシリ3世治下の出来事
ハットゥシリがアナトリア南部で発生した反乱を鎮圧すべく、アナトリア南西部のルッカの国々に遠征
ピヤマラドゥが反乱軍に対してアヒヤワ王の兄弟タワガラワのいるミラワタ(アヒヤワの保護領)への逃亡を促し(タワガラワは反逆者をアヒヤワに送り込む手助けをしていた)、ヒッタイトに忠実なルッカの人々を追放。なお、ルッカの国々はトロイアの最も親密な同盟国であった
ハットゥシリがピヤマラドゥ軍をイヤランダで破り、ピヤマラドゥの義理の息子アトパの治めるミラワタを占領。ピヤマラドゥはアヒヤワ王の保護下に逃亡し、ヒッタイト領のアナトリアへ襲撃を続ける。なお、アヒヤワ王はピヤマラドゥの引き渡しを拒否したか(ヒッタイトとアヒヤワとの間にはウィルサを巡り対立があったが、すでに解決していた)
前1250年頃:伝説では、モプソス(クレタ人を祖とする)がエーゲ海域、トルコの南岸・西岸、地中海東岸(カナーン)で活動し、ルッカ、シェルデン、デネンなどの集団を統合。この集団にはペリシテ人やチェケル人(トロイア人)もいたか
前1250年頃:「海の民」の大移動が始まる
「海の民」の出自と特徴
「海の民」にはシェルデン(後のサルデーニャ人)、エクウェシュ(アヒヤワ人)、トゥルシア人(後のエトルリア人)、ルッカ(リュキア人)、テレシュ(リュディア人)、ペレセト(ペリシテ人。クレタ島出身とも)、チェケル、シェケレシュ(後のシチリア人)、デネン(キリキア人)、ウェシェシュ(出身地不明)らが加わっていた
シェルデンとシェケレシュは後に西に進み、それぞれサルデーニャとシチリアに定住した
「海の民」の中にはアナトリア西部及び南部の沿岸地域に由来するものが多く、アナトリア西部の政情不安や争い、飢饉が大移動の原因か(ドナウ川流域付近に端を発する)。他にも大津波との説もあり、ウガリットの大地震が発端とも
彼らの一部にはフィリスティアのアッコとドルに定住したものもいた
彼らは胸甲を用いていた(ヨーロッパでも青銅製のものが使われていた)が、このような胸甲と長剣を用いた軽快な歩兵の集団が戦車を圧倒したとする説がある
「海の民」は切り込み隊・槍投げ兵として、「ランナー」という兵種が優れていた。「ランナー」は敵の戦車兵を撹乱させるために戦車兵に帯同していた
前1250年頃:ミケーネ、ティリンス、アルゴス、アテネのアクロポリス、クリサ、テーベやグラなどに、巨石を用いたキュクロプス式(ヒッタイトの石造建築技術を取り入れたもの)の城壁を有する巨大な城塞宮殿が建設される。この頃に、ミケーネの「獅子門」の建設も行われた
前1243年頃:アッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世がナイリ郊外にて、トゥトハリヤ4世率いるヒッタイト軍を撃破(ニフリヤの戦い)
トゥトハリヤ4世治下の出来事
トゥトハリヤがアッシリアに敗北したことを受けて、アヒヤワの船がアッシリアと交易しないよう、アムル王サウスガムワに圧力をかけ、ウガリットとアムルにはアッシリアへの経済封鎖を命じた
当時、アヒヤワの代表者タルカスナワはヒッタイト王によって退任させられたらしい。なお、ピヤマラドゥは未だに反ヒッタイト活動を続けていたという
ウィルサ王ウァルムが敵勢力(正体不明)の攻撃によって追放されたが(ミラの王のもとに逃亡)、トゥトハリヤはこれを復位させ、傀儡とした。このとき、ウァルムを保護していたミラ王タルカスナワがこれに協力したため、ミラがウィルサに対して部分的な宗主権を獲得している
トゥトハリヤはルッカの国々に遠征し、勝利したと主張するが、アナトリア南西部は無政府状態に。ウィルサも政情不安に陥っている
この頃にはアヒヤワの艦隊がシリア海岸に出没し、アヒヤワ王アッタリシャがヒッタイト領への侵攻を開始
前1232年頃:モプソスがリビア人とともにエジプトのデルタ地帯を攻撃
前1230年頃:トロイア第7a市が破壊される。襲撃はミケーネ人によるとも、「海の民」によるとも(この後、生存者たちが「海の民」に加わったとも)。伝承では、ギリシア連合軍がトロイアを攻撃し、10年間(10年経っていない可能性もある)の包囲戦の末に陥落させたという(トロイア戦争)。この戦争で敗れた人々が後に難民となってエジプトなどに殺到したか。トロイアは破壊された後に、生存者らによって再占領されたとも
伝承
トロイアの王子アレクサンドロス(パリス)はヘレネ(スパルタ王メネラオスの妻)を連れ帰る際にシドンに流され、ここを攻撃・占拠したという
ヘレネをパリスに連れ去られたメネラオスは兄のミケーネ王アガメムノンとともにトロイア遠征を開始。ピュロスの王ネストルやイタカの王オデュッセウスなどが参加したという
ミケーネら連合軍はトロイアの代わりに誤って南のテウトラニアに上陸。トロイアと誤解してテウトラニアを荒らした。この後、トロイアを目指すも嵐によって失敗。9年後(異説あり)に再度遠征を行った。なお、この戦争以前に、ヘラクレスがラオメドン王(プリアモスの父)が統治するトロイアを攻撃し、占領・殲滅したことを伝承は伝えている
クレタの王イドメネウスはトロイア戦争に参戦し、参戦勢力の中でも最も多い船を供出したという。しかし、イドメネウスはクレタに帰還した後にサレンテに追放されたという(後のドーリア人によるクレタ征服に起因する伝説か)
プリアモス王が統治するトロイアへの攻撃が始まると、その地方や周辺都市も攻撃の対象となった。ミケーネ側のアキレウスはトロイア側の援軍であったアマゾン族の女王ペンテシレイアを、次にエチオピアの王子メムノンを討ち取った
トロイアの木馬に戦士を隠して、城内に引き入れさせることでトロイアを内部から攻撃、陥落させた。木馬の内部にはオデュッセウスやメネラオスらがいたという。この木馬は攻城兵器(破城槌や攻白城塔など)を指す可能性があり、地震の比喩であったとする説も
前1225年頃:ギリシア本土にあるミケーネ人の宮殿の破壊が始まる。攻撃を受けたか。ティリンスは地震によって宮殿が崩壊したとも
前1215年頃:ヒッタイト王アルヌワンダ3世が即位。彼はアルザワを併合し、西南アナトリアに進出。しかし、東からはアッシリアの、西からは諸民族の攻撃を受け、ヒッタイトは衰退
前1200年頃:キプロス島のエンコミ、キティオンなどの沿岸都市が破壊される。この後、都市は再建されるが、担い手はミケーネ人であり、彼らは「キクロペス式城壁」(ミケーネ、ティリンスの宮殿の様式)をもつ都市を築く。ミケーネ人はギリシア本土の混乱から逃れてきたか
前1200年頃:ピュロスやイオルコスの王宮などが破壊され、ミケーネ文明が崩壊。ピュロスの宮殿炎上の直前には、軍隊が海岸地域に配備されていたが、外敵の侵入によってミケーネ文明の諸宮殿は炎上。また、コリント地峡を横断し、ペロポネソス半島とギリシア本土を結ぶ急造の壁が築かれたようだが、滅亡は避けられなかった。外敵の候補としては「海の民」が考えられている(異論あり)。以後、ギリシアは「暗黒時代」となる
ミケーネ文明崩壊に関する他の説
国内の対立や反乱、国家のシステムの崩壊、大地震などの自然災害、干ばつなどの気候変動による飢饉や疫病、森林伐採による洪水などを原因とする考えもある
「海の民」に関しては、むしろ混乱したギリシアから流出した集団とする説も
この後のギリシア
一部には、牧畜に比重をおいた生活様式に逆戻りしたとする説がある。なお、この頃のクレタ島には鉄器が到来している(カッパドキアからか)
一方で、アッティカ東岸にはこの後に繁栄した集落がある。混乱したアルゴリス地方から流出した人々がキプロス島にマア・パレオカストロなどの集落を築いている例もあり、ミケーネ文明の世界は一時的に膨張
前1200年頃:「海の民」が東地中海全域を混乱させ、多くの都市国家を滅ぼす(前1200年のカタストロフ。アルザワやアラシヤなどもこの頃に滅亡)
前1190年頃:ハットゥシャが放棄され、ヒッタイト帝国が滅亡
前1190年頃:「海の民」の一派ペリシテ人がエーゲ海(クレタ島かキプロス島か)からカナーンに侵入
前1177年頃:「海の民」がアムル地方からシリア沿岸を南下し、エジプトを目指す。また、海からもエジプトに侵入。この「海の民」はかつてメルエンプタハに敗れた時とは別の民族を主体として勢力を盛り返していた。その中にはペレセト、チェケルが含まれていた。ラメセス3世はこれらを打ち破る。なお、ドルには「海の民」の一派チェケル人が定着していた
この後の展開
ペレセトらはベドウィンの侵略に対する備えとしてパレスチナ南部の海岸地方に植民される
この撃退の後に、ラメセス3世は海の民をレヴァントに追い返す戦いを展開したと考えられる
前1175年頃:東地中海沿岸で行われた破壊活動が終焉。キリキアなども崩壊した
前1120年頃:ドーリア人がギリシア本土に侵入(~前950年頃)。海から進出し、中央ギリシアから陸路でペロポネソス半島にも進出。ペロポネソス半島のアルゴリス地方、アルゴリダ、メッセニア地方、ロドス島や小アジアの一部に定着。一方で、テーベのカドメイア、アテネのアクロポリスはこのドーリア人の襲撃を免れた。なお、彼らは鉄剣を用いていた
襲撃後の展開
襲われた人々はエーゲ海の島々や小アジアに逐われて、砦を建設している。アカイア人はアテネを経て、トルコの西海岸に移住。イオニアやアイオリスという地方に定住した。また、ドーリア人もイタリア、シチリア、小アジアに植民地を建設している
前1100年頃:トロイア市が地震、あるいは敵の襲撃によって破壊される。前12世紀頃、トロイアを含むエーゲ海一帯にはギリシアの海賊が横行していたという
前1100年頃:ドーリア人がクレタ島に侵入し、クノッソスなどの都市を破壊。アカイア人とクレタ人はカルフィの地などに避難したという。山岳地帯の民族はよく抵抗したか。ドーリア人は古くからの住人を奴隷もしくはペリオイコイ(劣格市民)とした