シュメール人の都市国家
関連年表
前5500年頃:メソポタミアにて、周濠や城壁をもつ集落が出現
前3500年頃:メソポタミア南部でシュメール人の都市国家建設が始まる
前3000年頃:メソポタミアで青銅器の使用が始まる
前2900年頃:シュメール地方で初期王朝時代が始まる
前2900年頃:セム人がキシュ第1王朝を創始
前2750年頃:キシュ王メバラシが統治。エラムを侵略したか
前2750年頃:ウルク王ギルガメシュがキシュを破ったか
前2550年頃:キシュ王メシリムが最初の覇者となる
前2500年頃:ウル王メスアンネパダが「キシュの王」を名乗る
前2500年頃:ラガシュにてウルナンシェ王朝が成立。ウンマとの戦争始まる
前2450年頃:ラガシュ王エアンナトゥムがウンマ軍を撃破。「キシュの王」を自称
前2400年頃:ウンマ王ウルルンマがラガシュ王を敗死させる
前2400年頃:ラガシュ王エンメテナがウンマに勝利
前2400年頃:ウルク王ルガルキニシェドゥドゥがウル王を兼ねる
前2340年頃:ウルク王エンシャクシュアンナがキシュを征服
前2334年頃:サルゴンがアッカド王朝を創始
前2290年頃:ウンマ王ルガルザゲシがシュメール地方を統一
◆前2900年頃:シュメール地方で初期王朝時代が始まる
人類史において、最古級の農業が営まれたのが、いわゆる「肥沃な三日月地帯」と呼ばれる中東地帯である。農業の発明によって人口は増え始め、定住生活も根づき始める。しかし、これらの発展は当初、メソポタミア南部ではなく、北部の方で盛んであった。南部では農耕が自然にできるほどの降雨量がなかったからである。
やがて、メソポタミア南部で灌漑という技術が定着し、農耕が可能となる。この頃にはメソポタミア各地で城壁などで防御性を高めた集落が出現した(前5500年頃)。これは戦争の激化を意味しており、農作物や畑、水資源を巡っての争いが頻繁に起こっていたのであろう。
メソポタミア南部でこうした農業発展が行われていた頃、シュメール人とよばれる民族系統不詳の人々がやってくる。どこから来たのか分からないシュメール人らはやがて都市国家の建設を始めた。集落から都市へ、歴史の歯車は回り出す。
都市国家は神殿を中心に建設されたが、戦争が頻発していく事態に伴って武力が政治的に重要な要素となる。都市国家の支配者たる王は宗教的色彩ももちながら、軍事力に磨きをかけていく。
やがて、その都市国家では青銅器という新たな金属器が生まれた。青銅器は鉄器と異なって鋭利かつ頑丈な刃を作れなかったが、青銅という新たな金属は戦争をより高度化したことであろう。こうして、形成された都市国家が争う時代が始まる。それが、初期王朝時代と呼ばれる時代であった(前2900年頃)。
後代に作られた『シュメール王朝表』という、都市国家の王朝と王名を記した文書によれば、最初に王権が降り立ったのはエリドゥであったという。このエリドゥこそが最古級の都市国家である。しかし、『シュメール王朝表』は王権が次々と別の都市に移っていったと記す。そして、しばらくすると大洪水があったという。これこそ『旧約聖書』に記された「ノアの洪水」であるという者もあるが、ともあれこの洪水が終わると、覇権は別の都市にあった。しかし、その都市とはシュメール人の都市国家ではなく、セム人の都市国家であった。
◆前2900年頃:セム人がキシュ第1王朝を創始
シュメール人がメソポタミアの最南部で都市国家を建設していた頃、セム人がその北部で都市国家キシュを建設した。キシュ最初の王朝が、キシュ第1王朝である。
初期王朝時代、最初に覇権を握ったのはシュメール人の都市国家ではなくセム人の都市国家キシュであった。現在、メソポタミアで存在が確実とされている最古の王は、前2750年頃に在位したキシュ王メバラシである(伝承ではエンメバラゲシと伝わったか)。彼は現在のイラン高原に存在したエラムのスサを侵略し、そこの文明を崩壊させたという。シュメール人の国家ではなかったものの、キシュはそこまでの力を持っていたのである。
◆前2750年頃:ウルク王ギルガメシュがキシュを破ったか
最も有名なシュメール人といえば『ギルガメシュ叙事詩』にも登場するギルガメシュであろう。単なる伝説上の人物と思いきや、彼は実在の可能性がある人物である。というのも、ギルガメシュと戦ったキシュ王アガの父メバラシが実在したからである。
伝承では、ウルク第1王朝の王ギルガメシュは当時強大な力を誇ったキシュから従属を迫られた時に、キシュとの対決を選択したという。当初、ギルガメシュから対応を問われた「都市の長老たち」はキシュに対して屈服すべきと答えたが、若い人々の集会で同じ問いを投げかけると、彼らは徹底抗戦を主張したという。
若者たちの言葉に賛同したギルガメシュは、キシュ王アガと戦い、これを見事に破る。アガを捕らえることに成功したが、ギルガメシュは彼を解放したという。この後、ウルクがシュメール地方で覇を唱えたかどうかは分からない。はっきりしているのは、ギルガメシュが伝説になったということだけである。
◆前2550年頃:キシュ王メシリムが最初の覇者となる
ウルク王ギルガメシュに敗れたキシュであったが、キシュはシュメール地方において強大な国家であることに変わりはなかった。それは、「キシュの王」という称号が、後にシュメール地方の覇者を表す称号となったことからも明らかである。
この頃、シュメール地方ではラガシュとウンマが領土争いを行っていた。この争いは初期王朝時代末まで続くのだが、キシュ王メシリムはこの争いを調停したと伝わる。ラガシュにいたってはキシュに従属していたとも言われており、キシュは未だにかなりの力を持っていた。このような治績からメシリムは最初の覇者とも目されている。
◆前2500年頃:ウル王メスアンネパダが「キシュの王」を名乗る
キシュがシュメール地方の北部で強大な力を発揮していた頃、南方では都市国家ウルが台頭していた(前2590年頃)。この当時のウルの王朝は、ウル第1王朝と呼ばれており、その繁栄ぶりは発掘された王墓の副葬品からうかがえる。
そのウル第1王朝のなかで、特に傑出した王がメスアンネパダであった。彼は自らの勢威を示すために「キシュの王」を名乗ったが、それはシュメール地方の覇者を示す称号である。実際に彼がキシュを掌握したかは分からない。はっきりしているのは、都市国家キシュの名がシュメール地方の王にとって覇者と同じ意味を持っていた、ということである。
◆前2500年頃:ラガシュにてウルナンシェ王朝が成立。ウンマとの戦争始まる
メスアンネパダが「キシュの王」を宣言した頃、ラガシュではウルナンシェ王が自らの王朝を確立した。ウルナンシェ王朝(ラガシュ第1王朝)である。
彼はラガシュに城壁を築いたことでも知られるが、彼の治世で最も重大だったことは何よりも、ウンマとの戦争である。
記録に残る最古級の戦争としても知られる、ラガシュとウンマとの戦争は肥沃な耕地グエディンナを巡って始まった。ウンマの王ウシュによるラガシュ侵攻に端を発するこの戦争はおよそ100年間続くことになる。
◆前2450年頃:ラガシュ王エアンナトゥムがウンマ軍を撃破。「キシュの王」を自称
ラガシュとウンマとの戦争は長期に及ぶが、ラガシュ王エアンナトゥムの治世に戦争の趨勢は大きく転換する。まず動いたのはウンマの側だった。前2450年頃、ウンマはウルク王ルガルキニシェドゥドゥらと同盟を結び、連合軍をもってラガシュに侵攻した。
同盟軍に参加する都市国家にはウルやキシュなどの覇権国家も加わっていた。まさにシュメール地方オールスターと言えるほどである。普通に考えればラガシュの大敗は決定的だった。しかし、ラガシュ王エアンナトゥムは並の王ではなく、どうやら自ら前線に繰り出して連合軍を迎え撃ったらしい。
王自身も目に矢を受けるという傷を負いながらも、連合軍を撃破。ウルクやウル、キシュも打倒され、ウンマ王とは国境をもとに戻す盟約を結んだ。まさに、エアンナトゥムはシュメール地方の覇者となったのである。彼は自身の偉業を戦勝碑に刻んだ。
覇業を示す証として、「キシュの王」という称号を宣言したエアンナトゥムだったが、何もかも上手くいったわけではなかった。彼をもってしても、ウンマの完全な打倒は果たせなかったのだ。できなかったのか、しなかったのか、は分からない。確かなことはラガシュにやられっぱなしのウンマではないということだ。この後、ウンマはラガシュに対して復讐戦を始めることになる。
◆前2400年頃:ウンマ王ウルルンマがラガシュ王を敗死させる
ラガシュに敗退したウンマであったが、まだ諦めることはなかった。ウンマ王ウルルンマは、覇王エアンナトゥム亡き後のラガシュを急襲した。結果、ラガシュ王エンアンナトゥム1世は敗死してしまう。
宿敵に勝利したウルルンマであったが、ウンマはこれまでの都市国家とは異なる点があった。それは、「キシュの王」という称号ではなく、「すべての王」という独自の称号を用いたことである。この称号はウルルンマ以後の歴代君主が名乗るのだが、キシュという枠にとらわれない覇者としての自負であろうか。だが、ウンマの覇権は長続きしない。ラガシュもまた反撃の機をうかがっていた。
◆前2400年頃:ラガシュ王エンメテナがウンマに勝利
ラガシュとウンマの長い戦いについに終止符が打たれた。前2400年頃、ラガシュ王エンメテナがウンマ軍をルンマギルヌンの堤にて撃退したのである。この戦いの結果、ウンマは独立を奪われた。しかし、ラガシュの覇権も長くは続かなかった。エンメテナ以後、ラガシュは存在感を失っていき、エンアンナトゥム2世が死去するとウルナンシェ王朝が断絶してしまう。傍系の王がラガシュ王となるも、ラガシュには往時の勢いはなかった。
一方、この頃からウルクの再興が始まった。ウルク王ルガルキニシェドゥドゥはラガシュと同盟を結ぶと(最古の同盟)、ウル王を兼ねて、ニップルにまで進出する。続いてウルクはその目を北部に向ける。ウルク王エンシャクシュアンナはキシュを占領し、「国土の王」を名乗るに至った(前2340年頃)。
こうしてキシュまでも征服したウルクこそ覇権国家と言えるかもしれない。しかし、キシュとラガシュという2大国が衰退したことは、別の勢力の台頭を導く。その内の一つがラガシュにしてやられたウンマ、そしてもう一つが北方で産声をあげたアッカドである。
◆前2290年頃:ウンマ王ルガルザゲシがシュメール地方を統一
一般的な世界史の教科書では、メソポタミアを統一したのはアッカド王サルゴンとされている。確かにそうではあるが、サルゴンよりも前にシュメール地方だけであれば、統一した王がいた。それこそがウンマ王ルガルザゲシである。
ルガルザゲシはその覇業を始めるにあたって、まずは宿敵ラガシュに狙いを定めた。ウンマを破ったラガシュであったが、すでにかつての勢いはなく、王朝の断絶や王位の簒奪などが起こっており、内政は混乱していた。ラガシュ側もウルイニムギナ王が立て直しを図ったものの、すでに時遅く、ルガルザゲシはラガシュの征服に成功した。かつての恨みを晴らすようにラガシュは破壊され、勢いそのままルガルザゲシはウルクやウルなどの都市国家をも征服した。そして、彼は自らの覇権を知らしめるためにウルク王となり、シュメール地方の統一を果たす(前2290年頃)。
初期王朝時代が始まって以降、多くの都市国家が覇権を争ってきた。だが、どの国家も敵対国家の完全な征服は成し遂げなかったようにみえる。キシュは覇権を及ぼすだけであったし、ラガシュはウンマを完全に破壊しなかった。しかし、ルガルザゲシは今やシュメール地方を平らげた。
もし、この後もルガルザゲシの王朝、覇権がつづけば、教科書に載っていたのは彼の方だったかもしれない。だが、彼の名は教科書には影も形もない。何故なら、彼を遥かに上回る覇王が既に自らの国家を整え、やがてはルガルザゲシを粉砕するからである。その者こそアッカド王サルゴンであった。