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1-39 メディア王国
前3000年頃:南ロシアの草原地帯で原インド・ヨーロッパ語を話す集団が確立。西方への移動を開始し、ヨーロッパ各地に移住
前2000年頃:インド・ヨーロッパ語族の遊牧民が中央アジアに移住。彼らはやがてアーリヤと自称(アーリヤ人)
前2000年頃:インド・ヨーロッパ語族のインド・イラン人(アーリヤ人)が東北イランに移動を開始。後からやってきたイラン人に押されたことが要因とする説もある。アーリヤ人らは馬と二輪戦車(チャリオット)の活用を習得。馬は中央アジアの草原地帯で家畜化された
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上図:イランとその周辺要図
前1760年頃:インド・イラン系の人々がバビロニアの文献に出現
前1200年頃:現在のカザフスタン南部にてザラトゥシュトラ(ゾロアスター)がゾロアスター教を創始。そこに住んでいたイラン人(アヴェスタ語族)は部族連合か小国家群を形成していた。カウィ王朝(カイ王朝)の一族であるカウィ・ウィシュタースパ王はバルフ周辺の小国を支配していたが(隣に強力な小国家が存在した)、ザラトゥシュトラはそこで自らの教えを宮廷内に広める
アヴェスタ語族の伝説
アヴェスタ語族の祖先はペーシュダート王朝を形成。後にカウィ王朝が成立し、地方豪族レベルの統治を行っていたか
ザラトゥシュトラの活動と最期
王妃を改宗させ、宮廷の有力者と婚姻関係を結ぶ。しかし、彼の宗教に反対するトゥラン人に暗殺されたという
前1000年頃:イラン系のメディア人がコーカサスあるいはトランスオクシアナからイラン高原北西部に移動、定着
前1000年頃:中央アジアからイラン方面へアーリヤ人の一部が移動。彼らは「イラーン」と自称
前900年頃:中央アジアのイラン系アーリヤ人が騎馬の技術を発達させる。これにより、史上初の騎馬遊牧民が誕生
前843年:アッシリア王シャルマネセル3世の遠征記念碑(ブラック・オベリスク)にパルスア(ペルシアか)の名がみられる
前835年頃:シャルマネセル3世が小ザブ川を渡って東方遠征を実施。パルスアの地の27諸王の朝貢を受ける。この後、アッシリア軍はメディアの地に到達。このとき、イラン系部族のマーダ(ギリシア語でメディア)が征服され、やがてマーダの諸王は共同してアッシリアに貢物をさしだした
この頃のメディア人
彼らは緩やかな部族連合を形成しており、ザグロス山中のマンナイ人の宗主権を受け入れていた
シャルマネセルは依然としてメディア人に対して守りを固めている
前832年:シャルマネセル3世が北方遠征を頻繁に実施。フブシュキアを討ち、マンナイからも貢物を受け取る
前823年:アッシリア王シャムシ・アダド5世が即位。彼は第3次遠征においてメディアを撃破している
前800年頃:ウラルトゥ王メヌアが首都トゥシュパを整備し、各地に石壁の城塞を建設。さらにイラン高原北西部に侵入し、主要都市ハサンルを占領
前800年頃:アッシリアがザグロス山脈方面のメディア人を排除すべく遠征を合計6度試みるも、失敗(~前750年頃)
前750年頃:メディアの連合体の中で、ザクルティという中心都市が発展
前743年:アッシリア王ティグラト・ピレセル3世がサルドゥリ2世統治下のウラルトゥを征圧。ウラルトゥに内通したシリアの諸都市、ザグロス山脈方面にいたメディア人を破り、強制移住政策を実施した後に、新たな行政州を設置することで併合している(防備のために周辺地域に移住させられ、兵力として用いられた者もいた)
前715年:スキタイ人に逐われたインド=ヨーロッパ語族のキンメリア人が黒海南岸に移動し、定住。このキンメリア人を追って、騎馬民族のスキタイ人がカフカス山脈を越えて西アジアに侵入
前713年:アッシリア王サルゴン2世がザグロス山脈中央部を突破し、ケルマンシャー市やエクバタナ市(現ハマダン)付近の町々や小王国を支配。メディアの45人の首長も打破している。当時、メディア人首長の一人ダーイウックはウラルトゥ王ルサ1世に息子を送り、同盟を結んでいた。しかし、ダーイウックはサルゴン2世に敗れ、シリアのハマトに送られた
前702年:アッシリア軍がペルシア西部に遠征
前700年頃:アッシリアが砂漠での輸送用にひとこぶらくだをメディアから導入。これにより、本格的に砂漠を横断する軍事遠征が可能に
前700年頃:ペルシアにてハカーマニシュ(アケメネス)が王朝を創始したとも(アケメネス朝。ハカーマニシュ朝とも)
前700年頃:メディアの領土がエルブルス山脈からカヴィール砂漠にまで拡大したか
前680年:アッシリア王エサルハドンが即位。彼はスキタイ(アッシリアはアシュグサと呼んだか)と同盟を結び、マンナイ(現アゼルバイジャン)にスキタイが建国することを認める
前672年:ダーイウックの後継者フラワルティシュ(フラオルテス)が、スキタイ人の援軍を得てカール・カッシーの城砦でメディア王に即位。カール・カッシーはハムグマターナ(ギリシア語でエクバタナ。現ハマダン)と考えられている。これにより、メディア王国が成立した。なお、スキタイ人はメディアと同盟してアッシリアと対峙したか
フラオルテスの統治
フラオルテスはエクバタナに七重の城壁で守られた城市を築き、アッシリア式の城砦包囲戦術を用いた
前668年:アッシリア王アッシュルバニパルが即位。治世中、彼はメディアにも遠征している
前653年:ペルシア人を服属させていたメディア王フラオルテスがニネヴェ攻略を目指し進軍するも、アッシリアとの戦いで陣没。これに対し、スキタイ王マドイェスはメディアから離反し、アッシリアと同盟し、メディア王国を攻撃。メディア軍を破り、メディアを支配
前626年:メディア人がアッシリアの首都ニネヴェを攻撃
前626年:スキタイ人がシリア・パレスチナを破壊し、エジプト国境にまで支配領域を拡大
前626年10月26日:ナボポラッサルがバビロニア王に即位し、新バビロニア王朝を樹立。アッシリアからの独立を宣言した
前625年:メディア王フヴァ・フシュトラ(ギリシア語でキャクサレス)が即位。彼はスキタイ王マドイェスを宴会に招き謀略で殺害、その支配から脱する(メディア王国の再建)
その後のメディア王国
スキタイ人をコーカサス山脈の北方に撃退。近東は牧草地としては適しておらず、騎馬遊牧民の脅威は低下
なお、キャクサレスはアッシリアの軍隊組織を模範とし、メディア軍を槍兵・弓兵・騎兵の三軍から成る常備軍に改める軍制改革を実施。攻城兵・工兵も用いた。また、部族連合の解体も進めている
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上図:キャクサレスと思われるレリーフ
前616年:ナボポラッサルがアッシリアに対して反撃を開始。以後、毎年アッシリアに遠征
前616年:メディア王国がニネヴェを攻撃
前616年:エジプトがアッシリアを支援
前615年:ナボポラッサルがアッシュルを攻撃するも、攻略に失敗。ナボポラッサルはタクリタイン(現ティクリート)に拠点を確保し、その要塞に避難
前614年:メディア軍がアッシリアの諸都市を掠奪し、ニネヴェ近郊のタルビツを占領後にアッシュル市を攻略。ナボポラッサルはアッシュル陥落後に到着した。これを受けて、ナボポラッサルはメディア王キャクサレスと同盟を結ぶ(メディア王女が新バビロニアの王子ネブカドネザルに嫁ぐ)
前612年:メディア王キャクサレスと新バビロニアのナボポラッサルの同盟軍(スキタイ、ペルシアも参加していた)がアッシリアを攻撃し、3ヶ月の包囲戦の末にニネヴェを陥落させる(氾濫したティグリス川にて、破城槌を筏に乗せて攻撃したとも)。このときにアッシリア王シン・シャル・イシュクンは殺害された。ニネヴェは破壊されたものの、一部のアッシリア人はハランに逃れる
前611年:アッシリアの残党が集ったハランにてアッシュル・ウバリト2世(アッシリアの貴族)が即位。彼らは帝国西部の属州をいくつか支配しつつ、エジプトに援軍を要請
前610年:エジプト王ネカウ2世がアッシリアの残存軍を支援するため、ハランを目指し進軍
前610年:メディア・新バビロニア連合軍がハランを攻撃し、その一部を破壊
前609年夏:ユダ王ヨシヤがおそらく新バビロニアに味方してネカウ2世の進軍を妨害。これに対し、ネカウ2世はメギド郊外にて、ヨシヤを敗死させる(メギドの戦い)。ユダ王国を属国とした。エジプト軍は更にカルケミシュやハランにまで侵攻したが、ハラン救援に関しては果たせず、新バビロニアがエジプトの援軍を破る
前609年:エジプトの支援を受けたアッシュル・ウバリト2世がニネヴェを2ヶ月間包囲するも、撃退される。以後、アッシュル・ウバリトは消息不明となる。新バビロニア・メディア連合軍によってハランも陥落し、アッシリア帝国は完全に滅亡
前607年:ナボポラッサルと王子のネブカドネザルが山岳地域(ザグロス山地の一部か)に遠征
前600年頃:エラム地方がメディア王国の支配下となる
前596年:新バビロニア軍がエラムを攻撃
前590年:ウラルトゥの獲得を目指すキャクサレスがリディア王国領に侵攻を開始。ハリュス川にまで到達し、リディア軍と交戦
前585年5月28日:リディア軍とメディア軍がハリュス川にて交戦中に皆既日蝕(タレスの日蝕)が発生し、驚いた両軍は戦いをやめる(ハリュス川の戦い)。この後、両軍は和平を急ぐ
前585年:ネブカドネザル2世及びキリキアのシエンネ人の仲介で、リディアとメディアが和平条約を締結。両国の境界はハリュス川となり、リディア・メディアは婚姻関係を結ぶ
前585年:メディア王キャクサレスが死去。キャクサレスはカスピ沿岸のイラン高原北部も制圧し、イラン高原統一を成し遂げた。なお、彼が中央アジアまでを支配していたかは不明。後継者は息子のアルシュティ・ワイガ(ギリシア語でアステュアゲス)で、イラン高原南西部や東部へ支配領域を拡大したか
前585年:メディア軍と結んだスキタイの攻撃で、ウラルトゥの首都トゥシュパが陥落。ウラルトゥ王国はメディアに滅ぼされる
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上図:この頃のオリエント情勢。緑色部分がメディア王国の版図
前553年:ペルシア王(アンシャン王)にして、メディア王アステュアゲスの外孫であるキュロス2世(クル2世)がメディアに叛乱。アステュアゲスの苛烈な政治に耐えかねてのことであったらしい(アステュアゲスは貴族の力を制限しようとしたとも)。以後、3年間で両国は3度戦うも、当初はメディア側が優勢
前550年:メディア軍とペルシア軍がパサルガダイにて3度目の戦いを行う。しかし、メディア王アステュアゲスが派遣した遠征軍の司令官が寝返り、ペルシア軍は王都エクバタナにまで侵攻。エクバタナは陥落し、メディア王国は滅亡。これにより、キュロス2世によるアケメネス朝ペルシアの建国が成る
貴族の寝返りの要因
貴族の力を制限しようとしていたアスティアゲス王に対して不満が高まったためとの説がある
この後の展開
メディア王アステュアゲスは捕虜となったが、リディア王クロイソスは彼の救出と復位を企てた。これに対し、キュロスは新バビロニアを中立とすることに成功し、キリキアを占領するとともにリディアへの陸路を全て封鎖
前547年:アケメネス朝の拡大に対し、エジプトのアマシス王が新バビロニアやキュレネ、アナトリア西部のリディア王国やギリシアのスパルタなどと対ペルシア同盟を締結
前546年頃:新バビロニアとエジプトからの援助要請を受けたリディア軍がキュロス2世率いるアケメネス朝ペルシア軍と対峙するも敗北。リディア王国は滅亡