アメリカ大統領選挙 歴史が示す 民主党時代に中国が増長した
外交政策
ケネディ大統領の在任中は第2次大戦後の冷戦下で米ソ対立の非常に厳しい時代であった。まずキューバに対してピッグス湾事件では優柔不断な対応により失敗を招き、1961年6月にソ連のフルシチョフ首相との首脳会談で互角にやりあったあとに、ベルリン危機やキューバ危機で硬軟取り交ぜた機敏な対応を取り事態を収拾した。また、混乱していた東南アジアのラオスでは武力介入せず、1962年6月に三派連合政府の樹立に成功した。しかしベトナム情勢に対しては、南ベトナムのジェム政権と対立したまま、軍事援助の大規模な増加と「軍事顧問団」名義でのアメリカ正規軍の増派を行い、ジェム政権の崩壊後に状況が悪化して、のちに泥沼化させるきっかけを作ることとなった。
ウィーン会談
1961年6月3 - 4日にウィーン会談で、ケネディはソビエト連邦首相ニキータ・フルシチョフ を相手に通訳のみで、一対一の首脳会談に臨んだ。議題は東西関係やキューバ、ラオス、核実験禁止、そしてベルリン問題に関してだった。
二人はラオスの中立化では合意したものの、核実験の禁止、第三世界、ベルリン問題では激しい応酬を展開した。このウィーン会談は結局は何ら成果もなく平行線に終わった。
ベルリン危機
そしてウィーン会談から2か月後、次なる試練であるベルリン危機 (1961年)が勃発した。
これより前の7月25日、ケネディはベルリン危機に関するテレビ演説を行い、改めて西ベルリンを守り抜く決意を表明した。そのために32億5,000万ドルの国防費増額、陸海空三軍の21万7,000人の増加、予備役の招集を発表した。このケネディの強硬姿勢に対して、1961年8月13日、フルシチョフはついにベルリンの壁を建設するという手段で対抗した。
キューバ危機
キューバ危機の回避は、おそらくケネディの大統領在職中の外交施策の中で数少ない、全面的に称賛されるものであった。
まとめ
ベトナム戦争の開始自体はケネディ大統領の就任前からだが
正規軍がベトナムに派兵するなどケネディ時代からベトナム戦争が本格化した
それにしてもケネディ時代の2年半は濃いですね
この時代は中国は主役ではありません
ソ連、東ドイツ、キューバ、ベトナム労働党(ベトナム共産党)側と外交に忙しい
まさに共産主義との戦い(冷戦)でした
ジョンソンは当時北ベトナムに軍事顧問団を多数送っていたソビエト連邦や中華人民共和国との関係を考慮して、北ベトナムの基地関連施設に限定した空爆を行うに止めている。ソビエトや中華人民共和国との全面衝突を恐れたためであるが、ハノイ港にはソ連の輸送船から荷揚げされた兵器もあり、この結果、北ベトナムにはソ連や中華人民共和国からの軍事支援が継続されることになる。
北ベトナムを爆撃したのは「爆撃によって北ベトナムの経済をマヒさせれば、兵力の南下が不可能になりやがて平和交渉に応じてくる」という、ジョンソン政権での国家安全保障担当大統領補佐官マクジョージ・バンディの読みからであった。後にジョンソンの後任であったニクソンは北ベトナムと交渉をしながら爆撃を行い、硬軟合わせた手段の一つとしての北爆を躊躇しなかった。しかし中ソからの膨大な軍事支援を受けていた北ベトナムは屈しなかった。
1968年3月31日夜にテレビ演説を行い、これまでのベトナム政策を劇的に転換し、北ベトナムへの北爆を部分的に停止(完全停止は10月)して無条件で北ベトナムとの対話を呼びかけた。
そして演説の最後には、草稿には無かった、次期アメリカ合衆国大統領選挙に於いて「民主党大統領候補としての再指名を求めない」ことを発表した。
補足とまとめ
この頃中国では1966年から1976年まで悪名高い文化大革命続いた
なおこの時代のアメリカはベトナム戦争で手一杯です
第二次世界大戦の映画よりベトナム戦争の映画の方が多い事からも、アメリカにとってベトナム戦争のトラウマは大きいです
任期中に起こった主な出来事
「人権外交」
アメリカ合衆国第39代大統領。民主党。在職1977~1981年。人権外交を展開しパナマ運河返還を実現したが、イラン革命などの外交処理を誤り1期で終わった。
アメリカ合衆国の民主党の政治家。南部のアーカンソー州知事。1976年の大統領選挙で、南部出身のリベラル派として、黒人と労働者層の支持で共和党のフォードを破り当選した。中央では無名だったので、立候補したときは Jimmy, Who? と言われた。内政課題のインフレでは減税策を採ったためかえって増進させ、減税率を引き下げたため、国民の信頼を失った。また1979年にイラン革命直面し、第2次石油危機が始まると、エネルギー政策の全面的見直しを提唱、アラブ原油依存体質の転換を図った。
カーター外交
その特質は「カーター外交」といわれる外交政策に現れている。まず人権擁護を柱にすえ「人権外交」を掲げ、1977年の新パナマ運河条約の締結、1978年のエジプト=イスラエルの和平交渉の仲介(キャンプデーヴィッド合意)、1979年の米中国交正常化、ソ連とのSALT・Ⅱ合意などを実現させた。
しかしソ連との友好的な関係は同年のソ連軍のアフガニスタン侵攻によって崩れ、カーター政権はモスクワ・オリンピック参加を拒否して対抗し、SALTⅡ合意は破棄された。また同年、イラン革命が勃発、アメリカ大使館人質事件が発生してその解決に失敗し、80年の大統領選挙で共和党のレーガンに敗れ退陣した。
退陣後は民主党政権下ではたびたび北朝鮮への特使として派遣され、人質事件の解決などにあたっている。
アメリカ大統領として初めてパレスチナ人国家建設を容認する発言をした(しかしながら、この発言がユダヤ系アメリカ人の反感を買い、先に述べた1980年アメリカ合衆国大統領選挙の敗北の一因となった)。
イランこそが中東における「安定した島」であると述べ、パフラヴィー2世を讃えた。表向きは人権外交を標榜するカーターであったが、アメリカにとって都合のいい同盟国の人権抑圧に対しては無関心であった。
中華人民共和国に対しては、前々任者のニクソンと前任者のフォードの接近政策を受け継いで
中華民国(台湾)との断交を決定し、
1979年1月1日に中国と国交を樹立した。
アメリカはバンコクの大使館を通じて、カンボジアにおいて親中派のポル・ポトが市民を虐殺している事実をつかんでいた。だが、ベトナムとクメール・ルージュが争うようになると、カーター政権の姿勢は一変し、1979年に国際連合総会で、アメリカは中国と共にポル・ポト政権を支持、代表権を認めさせた。
カーター政権は中国と一層接近し、ベトナムを追い詰めていった。
また、中国共産党に配慮する形となったポルポトによる虐殺の傍観はありえないだろう
ブッシュ政権が国内問題・経済問題を軽視していると批判し、ホワイトハウスに上り詰めたクリントンだったが、その公約の通り外交は不得意分野だった。彼の政治キャリアはアーカンソーの地方政治に限定されており、また、彼が頼りにすべき民主党も外交に関する人材は不足していた。その外交姿勢は、場当たり的だという批判にさらされている。政権の後期には外交に力を入れ、中東和平や朝鮮半島問題などに尽力したが、さしたる成果のないまま時間切れに終った。
アフリカ地域では、1993年に第二次国際連合ソマリア活動の一員としてソマリア内戦に介入した。これは、前任者のブッシュが第一次国際連合ソマリア活動で人道支援(人道的介入)を掲げたのに対して無政府状態を解消する国家建設を目的とした平和強制の最初の例である。これにより、一時的に援助物資の輸送路が確保され、1日平均の餓死者を1⁄3以下に激減させる効果を上げた。だが、モガディシュの戦闘では多数の死傷者を出し、世論の反発からアメリカ軍はソマリアから撤退することとなった。結局、アメリカ軍主導であった国連ソマリア活動そのものも失敗に終わった。この事件はアメリカが国連平和維持活動に消極的となった一因とされ、結果、ルワンダ虐殺などの非人道的行為に関してクリントン政権は傍観したと批判されるようになった。
クリントン時代は外交としては傍観が多かった
その中で人類の歴史上最大の虐殺、汚点と言われるルワンダ虐殺の傍観はありえないだろう
1998年の中華人民共和国訪問時には、江沢民国家主席(当時)との会談で「台湾の独立不支持、二つの中国及び一中一台の不支持、台湾(中華民国)の国連等国際機関への加盟不支持」(三つのノー)を表明。帰国後しばらくして対台湾問題についてはアメリカ国内法である台湾関係法を優先するとし、第三次台湾海峡危機でもそれに準じた対応を行った。
北朝鮮との間では寧辺核施設の先制攻撃を準備までするも、当時の韓国の金泳三大統領に制止され、結局核兵器の開発放棄と引き換えにKEDOを発足させたが、監視体制などを厳密に構築せず、結果的に北朝鮮の核武装の防止に失敗した。
ベトナムとの間では、1994年にベトナム戦争終結の1975年4月から19年間におよんだベトナムに対する貿易禁止の撤廃を発表し、1995年にアメリカとベトナムを国交正常化させた。
イラク戦争には一貫して反対しており、開戦直前の2003年3月16日にジョージ・W・ブッシュ大統領がサダム・フセインに対して48時間以内のイラク撤退を求める最後通牒を出した際、シカゴでの反戦集会で聴衆に対して「まだ遅くない」と開戦反対を訴えた。
尖閣諸島について
は2014年4月の日米首脳会談後の記者会見で、「日本の施政下にある領土、尖閣諸島を含め、日米安保条約第5条の適用対象になる」と述べ、尖閣諸島は日米安保条約適用範囲内でありアメリカが防衛義務を負うことを表明した。オバマはこの会談の前にも、読売新聞によるインタビューの中で同じ趣旨の発言をしているが、
現職のアメリカ合衆国大統領が尖閣諸島への安保適用を明言したのはオバマが初めてである
イランとは核合意を成し遂げ、キューバとは国交を樹立させるなどアメリカと長らく敵対してきた国と対話する路線に転換した。第41代大統領のジョージ・H・W・ブッシュの湾岸戦争を評価しており、アメリカ主導の国際協調を理想とした。しかし、保守派からはこの路線が
「弱腰」と叩かれたかつてのジミー・カーター大統領の姿勢と似通っていると批判されていた
追記と補足
共和党時代も問題があると思われる事案
対中関係では六四天安門事件で経済制裁を行うも議会と対立してまで最恵国待遇を更新するなど制裁全面化に消極的であり、当時の中国の最高指導者である鄧小平には書簡で「先日のサミットの共同宣言の草案には中国を過度に非難する文言があったが、
アメリカと日本が取り除いた。
アメリカ議会は中国との経済関係を断ち切ることを求めているが、私は波風を立てないよう全力を尽くす」と述べていた。秘密裏にヘンリー・キッシンジャーやブレント・スコウクロフトを中国に派遣して民主化運動家の方励之の出国をめぐる交渉を行ったとされる。
方励之の出国を条件に融資再開を日本は中国に持ちかけたともされ、
ブッシュは第16回先進国首脳会議で対中円借款再開を表明した日本の海部俊樹首相に同調した。
また、国際連合での対イラク武力行使容認決議の際には中国が拒否権を行使しなければ天安門事件以来の制裁の緩和と銭其琛外交部長のアメリカ訪問を受け入れると取引を持ちかけたことから中国は棄権して可決できた。
かつて米中連絡事務所所長を務めた中国滞在経験や兄のプレスコットと息子のニールが中国共産党政府とビジネスもしていたため、後の北京オリンピック開会式の親子揃っての出席に象徴されるように親中派だったとも評されている
この時代の4年間でかなり中国が力を付けたとも見れる
また中国は常任理事国の特権、拒否権を使い条件を引き出すなど相変わらずやることがこすい
それと、アメリカ西海岸(サンフランシスコ)は中国コミュニティの巣窟だ
そして西海岸が強固な民主党基盤である事と中華コミュニティである事は大いに関係がある
この時代に、時代錯誤の対中円借款再開を日本がしたのも日本に侵食する中華コミュニティが関係しているものと思われる。
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