みくりはヤバい人〜「逃げ恥」に見る日本的構図〜

あけましておめでとうございます。相も変わらず、しがない京大生です。

夫婦別姓の論理的矛盾について過去語った記事はコチラです。

私が言っているのは育休がとることがよくないとか、夫婦別姓が悪いといっているのではない。私の批判はそれらを主張する人々が自らの主張の論理構成を理解しておらず、批判されれば感情的に、そしてそれらに反抗する人間を自らのステレオタイプでもって「反対する奴は〇〇に決まっている」などと道徳的に非難する、その姿勢にある。

同じことを繰り返すつもりはない。逃げ恥はわわゆる社会派ドラマの様相を呈し、ややネットをざわつかせた。

このドラマでも上記のような論理的矛盾を露呈していた。しかし、もっとも大事なのは平匡さんとみくりというパーソナルな部分こそ、この手の議論の根幹にある。

まず最初に論理的矛盾を指摘した後、パーソナルな問題点を挙げる。


論理的矛盾

夫婦別姓における煩雑さについては上記で書いた。簡単に言えば煩雑さをはるかに超えるほどのアイデンティティの危機が存在するため、煩雑さ程度で夫婦別姓を選択すべきではないというものである。

さて、気になったのは子供の名前のくだりである。男女ともにつけられる名前にしよう、というものである。両親が子供にどうつけようが勝手ではあるが、矛盾した発言に気味の悪さを覚えた。

「名前は両親からのプレゼントだもんね」

はっきり言って、上記で書いた大矛盾の完全版と言ってよい。名前というものを両親からのプレゼントとしてとらえている地点で、封建的絆、つまり家族との絆を重視している。その地点で、あなた方は封建的な関係を望んでいるのか、近代的自由主義個人を求めているのか、私には皆目見当もつかない。恐らくその矛盾自体に気が付いていないからである。

まあ恐らく、これを読んでいる人でも私の言っていることがどういうことかわかる人はほとんどわからないとは思うが。そういう人は過去記事を読んでいただければ。それでもわかるか怪しいが。

また、育休の話もとんでもなかった。上司をあくまで「男なのに育休をとるやつ」という体にしていたが、経済合理的に言って人がいないと困るという発言はしなかった。簡単に言えば、育休取得を正当化するために敵を極悪人を設定したのである。


平匡とみくりという人間が主張しているという事実

さて、やんや言ったが逃げ恥で最も大事なのはそのキャラクターにあると私は思う。このような発言をしていたのは一体どんな人物であったか。

京大卒エンジニアと文系院卒派遣切り契約主婦である。

星野源が演じる男は非常にやさしく典型的な童貞である。後述するが、とんでもな人間であるみくりのために奔走する。愛する彼女のために愚直に仕事・家事をこなそうとする男性である。

さて、みくりはどんな人であろうか。番組HPで確認してみよう。

そして厳しい現実から逃れるように妄想をする妄想女子でもある。
就職活動で内定がもらえず、文系大学院に進み臨床心理士の資格を取得するが、またも全滅。どうにか派遣社員になったのはいいが、すぐに派遣切りにあい現在は求職中。大学時代の彼氏に 「小賢しい」 と言われたことがトラウマで恋愛にも結婚にも踏み出せずにいる。(一部省略)

さあどうであろうか。これを見て何も思わないだろうか。私はあのガッキーが演じているにもかかわらず、逃げ恥でドン引きしながら見ていることが多々あったがこれで納得した。

厳しい現実から目を背け、就職活動もまじめにやったにも関わらず内定できない、つまり面接において様々な会社から必要ないと思われる人材である(逆に、そもそも就職活動なのにまじめにやっていなかったら、それはそれで問題であるが、現実逃避する人間ならありえる)。そして、いわゆる「内定がないからとりあえず院進しよう」という典型的なトンデモ文系学生である。そして資格取得したものの内定できず結局派遣で、最終的に派遣切りにあう(そもそも嫌なことから目を背けて妄想する臨床心理士に誰がカウンセリングされたいだろうか)。

結論から申し上げますと、こういうタイプの人間の話信用できますかという話である。スペシャルの前から逃げ恥をリアルタイムで見るたびに「わがままな人だな」という印象があったが間違いではなかった。むしろ、ガッキーは名演技だったのである。話がそれるがトイレットペーパーのくだりは圧巻だった。自らが迷惑をかけたのにもかかわらず、被害者面をするだけでなく全く謝らないというトリックプレーであった。

さて、この話の問題点はこの二人の構図にある。結論から言うと、このような二人であれば、必ず現状批判をし自らの責任ではなく社会秩序に対する非難を行うであろうということである。

まず問題なのは平匡である。みくりが好きすぎるあまり、みくりのためを思い過ぎたことによって、彼女の擁護しか考えられていない。京大卒という中途半端な知性を持ってしまっているが、その知性をフルに批判的哲学的に使うのではなく、彼女を守るため、彼女の幸せ(わがまま)のための理論武装として使用していた。だから、一見すると論理的に見えるがきちんと論理的に考えれば、まったくおかしいことを言っていることに気が付ける。

次に問題なのはみくりである。平匡がこのようになってるのも、もとはと言えばみくりのわがままのせいである。現状を受け入れることをせず、しまいには自分がつらいからという自己中心的な理由から「男も妊娠できるようにして苦しめばいい」という暴言まで吐いてしまう。簡単に言えば私がつらいから、お前らもつらくなれというやつだ。このような思考様式に対する批判は下記記事で書いた。

そもそも人として、つらい現実に目を背け妄想するのやめたらどうかと私は思う。しまいには周りの人間に相談するが、家族、石田ゆり子、平匡もろもろどの人も優しく甘やかすために、彼女は就職活動を失敗したあのころから、いや、元カレに「小賢しい」と言われたあのころから全く人間的に成長していないのである。

そもそも論として、このような人間の言うことを聞きたいと思うであろうか。この人は現実に真摯に向き合っているのだろうか。この人の主張は自らの人生を賭けた命の主張だろうか。

世の中に批判する人間、このような人ばかりではないか。どうであろうか。ここは検証する必要があるのではないのだろうか。

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