「理想の高さ」と「強さ」の概念について
今日もなんとなく生まれた思考をここに書き留めたいと思います。
先に言っておくと、自分はMBTI診断が大好きで、何度やっても『INFP』が出ます。MBTI診断が大好きということがもうその結果を実証しているようなものですw
それを踏まえた上でもやはり自分は「理想主義者」だなぁという自覚が強いのです。
現実とか正直怖いし、できるならなにも考えなく気ままに生きていたいと思っています。
物語や音楽とかは大好きでメディア問わず一瞬にしてその世界に入り込むことはかなり得意だと思っていたりします。
でも理想主義者ゆえに現実に屈服し簡単に鬱になってしまいます。
仕事や課題の〆切が近づくだけで只ならない重圧感に襲われ、気づけばベッドに潜り込んでしまい、そのまま眠ってしまう。
そんな日々を大昔からずぅっと過ごしているわけです。
結果、〆切に遅れること多々あり…(涙)。
でもそんな自分から脱却したい、自分の得意(才能)を活かしてラクに生きていきたいと思っており、その末に自分の「理想主義者」という側面を活かせないかという考えに至りました。
様々な記事を読んだりして、自分は「理想がエネルギーとなる」、逆に理想に屈服してしまったりするとエネルギーが枯渇して人形のようになってしまう…。
なるほど、自分が理想主義者だとは分かっていたが、理想そのものが心のエネルギーになるという考えは意外と盲点だったなぁと実感しました。
ならば、理想を持っているほど自分はエネルギーに満ちるのか? 自分はそれだけ幸福になれるのか? と考えました。
物語が大好きなのも、瞬間的に「理想」が生まれていて、それゆえにその時間だけは幸福感で満たされるということなのだろうか?
でも逆に、自分は「理想が高い」ことも多々あって、それゆえに現実とのギャップから簡単にくじけて鬱ってしまうような人間でもあります。
あれ? ってことは、「理想の高さ」=> エネルギーというわけではない?
でも「理想」のパラメータって、「高さ」くらいしか…
と考え抜いた末に「理想の強さ」というもう一つのパラメータの存在に気づきました。
たとえ理想は低くても強ければ、それだけエネルギーになる!
そう思いました。
たしかに、自分は
数ヶ月に一度、贅沢にも一人で回転寿司に行き、あえて少ない皿をかみしめて味わう
普段あえて人と関わらず、いざ関われるときの時間をとても大切にかみしめられる
自分へのご褒美として、ひとり駅前の本屋に自分自身を連れて行ってあげる
といった趣味や習慣があります。これらは理想としては低くても強いものだと思えます。
つまり、根拠としてはまだまだ弱いですが、自分には高い理想によってたやすく現実に屈服してしまうよりかは、低い、だけど強い理想を胸に抱いて健気に生きていくべきだという結論に今は至りました。
どうしても高望みしてしまう癖があるのですが、「足るを知ること」で自分を落ち着けようか? 高望みそのものはおそらく悪いことではないはずなので、「高い理想」にはそれ相応の現実力が必要だぞという覚悟を持って、「低い理想」は「低いから…」と軽んじず大いに受け容れて、それら「強い理想」を胸に抱いて生きていきたいと思います。
ご閲覧ありがとうございました。