毎日同じ時間に同じ歩幅で家路を急いでいる。この二十年の間、理由は変われど、私は私の生活を守るため、ずっとそうしてきた。冬は日没時間が早くなるので、他の季節とは違い、電柱にはすでに街灯が灯っている。先日、数十年ぶりにまとまった降雪があったため、各所の対応も例年になく鋭敏になっているらしく、ほんの僅かに雪が舞った程度でも融雪装置が競い合うように道路を過剰な放水で浸していく。設備が微妙に違うのか場所によって融雪装置の水の出には差があるのだけれど、この道路のそれは勢いが群を抜いてよろしく、他ではあまり見ないほどの高さまで水が噴き上がっている。あの大雪以降、年明けに数度降ったきりで、ここ一週間ほどは晴れ間が続いており、除けられた雪も溶けていたので、気温の上昇に合わせて私の中の警戒心も緩みきっていた。今朝見た天気予報に雪のマークがなかったこともあり、油断して全く防水性のないぺたんこ靴を履いてきてしまっていた。今さらに頭をもたげる後悔などおかまいなしに、そのことがきたす業務への支障よりも、任された以上に厳格にこなし続けることの美徳に酔いしれたお役所仕事がごとく、融雪装置の吐き出す水が、靴の側面から無遠慮に浸水してくる。
それでも私は、歩行スピードを落とし、水たまりを避けることはしなかった。私が積み上げ、刻み続けた体内時計が私を急き立てる。とにかく正確に六時半までには家に到着しなくてはならない。今日は家に着く前に薬局に寄るつもりでいたので、いつも以上に余裕がなかった。六時半に帰宅すること、それは私にとって融雪装置のような融通の効かなさではなく、この二十年間、何よりも第一にこなさなくてはならない一日のうちの最重要課題だった。
向かいからハイビームで前方を照らす車が走ってくる。光線は攻撃的で眩しく、車体の色が何色なのかすら分からない。車はすれ違い通り過ぎる際になってもスピードを落とすことをせず、道路の水を盛大に弾きあげた。必死の思いで傘を車の方に向ける。思いは虚しく、スローモーションで検証するまでもなく私の挙動はかなりの遅れをとっており、膝上から下がぐしょぐしょに濡れそぼってしまった。
ここまで濡れてしまえばもうどれだけ傘で雨を凌いでも意味などないように思われて、そうであれば風の抵抗を受けている時間すら勿体なく、私は傘を閉じて小さくたたみ、リュックの脇のポケットに刺し、悪天候でロスしたここまでの遅れを取り戻すためコンクリートを強く蹴って駆け出した。
※
自宅への最後の角を曲がる手前で、少しだけ外壁のクリーム色が濃い我が家が視界に入るようになる。
購入時は新規の分譲住宅地で、辺り一帯更地だった。購入を検討してすぐに立地や広さなどの面から気に入り、子育てをしていく上でも居住者が全員近い世代になることは望ましい環境のように思われて、随分慌てて購入手続きをした。深い知識を得る前で、建築条件付きであることもあまり厭わずに契約してしまい、結果、私たちの住む隣町はほとんど全てが似たりよったりの外観をしている。建ち並んだばかりの頃はあそこがあの家とは違う、広さが少し、などと圭佑と話したものだったが、次第に分譲エリアが広がっていくと建築条件もなくなったのか趣のまるで違う家々が建ち並ぶようになり、いつしかどんぐりの背比べでしかない近所の噂話もしなくなった。妊娠していたこともあって早く新居を構えたいという想いばかりが先走り、買い急ぎすぎてしまったかと内心後悔の募った時期もあったけれど、いま思えば、こんな風に周りと大差ない外観になっていて良かったと思う。
今日は、朝の天気予報でも、昼間は春のような陽気になるでしょうとお天気キャスターが微笑みながら話していた通り、とても年の瀬とは思えないほどに気温が上がった。しかし、そうは言ってもやはり北陸の冬だ。日が暮れてからはどんどん気温が下がっていた。天気予報の通りならば今夜から一気に天気は崩れ、大雪になるはずだ。見上げれば、確かに空には重い雲が広がりだしていた。
お隣さんはすでに帰宅しているらしく、駐車場には見慣れた軽自動車が停めてあり、明かりの漏れるカーテン越しに影が映っている。影がカーテンをめくり、男がこちらに顔を覗かせた。私が首だけで挨拶をすると男も首を下げた。
我が家はいつもと変わらず真っ暗で、どの部屋も明かりはついていなかった。解錠して中に入ると、毎日居るはずの自分の家なのに、まるで時々遊びに行く知人の家のように、どこか違う空間に入ってしまったような、独特の匂いが鼻腔をくすぐる。腕時計を確認すると、六時半ぴったりだった。寒さのせいか尿意を覚えていた。家に入ってしまえば慌てる理由などなにもない。大事なのは、体裁を守るため、同じリズムの暮らしをアピールし続けることなのだから。スマートフォンをいじりながらトイレでのんびり用を済ませた。
洗面台で、家の外に出すことのできない愛瑠が病気に罹患してしまうことを防ぐため、入念に手洗いうがいをする。いつか重い病気にかかってしまった時には考えなければならないけれど、市販の薬や絆創膏、包帯などで対処できる限りにおいては、愛瑠の世話は家の中で完結させなくてはならない。愛瑠を看病するとなれば休むのは私と決まっており、ただでさえ毎日定時退社の生活の中で、そのような事態は是が非でも避けたかった。たっぷりとつけた石鹸で爪の間から手首までしっかりこすり、絞り上げるように両手の泡を掬い、熱湯に感じられるほど熱くした水道水で注ぎ落とす。洗い終わったら一年中感染予防のためにしているマスクを外し、外したマスクは生ゴミ用の蓋のしっかり閉じるゴミ箱へ廃棄した。
「ただいまー」がらんどうのリビングに声をかけてはみるものの、返事はない。その代わり、奥の部屋からがさごそと生き物の蠢く物音がした。今日も愛瑠は通常運転で稼働しているようだった。
家に待ち人がいるので定時で上がれるようにしてもらいたいと職場の上司に申し出たのは、息子の愛瑠が保育園に通っていたときと同様に、小学校にも学童保育にも馴染めず、学校に行きたくない、学童も行きたくない、学校が終わったら真っ直ぐ帰宅したいと、舌足らずな発音と言葉で、つぶらな瞳に涙を浮かべて頼んできたその翌日のことだった。愛瑠は体は大きかったもののそれ以外の成長は周りの子と比べると遅く、保育園の時ですら周囲から浮き気味だったものが、小学生になるとより顕著になり、まだ入学したばかりだというのに既にクラスメイトや先生から悪い意味で耳目を集める存在となっているようだった。季節は新緑の葉が萌ゆる五月、大型連休が明けたばかりの頃だった。私たち夫婦はどちらも田舎が遠く、圭佑の帰宅もその当時はほとんどが日付が変わってからで頼ることができず、愛瑠を守れるのは私しかいないのだという強い衝動にとらわれて、愛瑠を寝かしつけた後の一日の中でもごく短い自分だけの時間に、ダイニングテーブルで洗い物を片付けつつビールを傾けている時に、一人で決断した。低学年の間だけのことだろうと見込んでのお願いだったし、事実そのように説明もしたので、上司も、そんなにまでしてフルタイムで働きたいのかね、とほんの僅かな嫌味を口にする程度で了承してくれた。
あの日から二十年の歳月が流れ、愛瑠は二十六歳になる年になったけれど、当初の理由から重い持病を患っていることに言い訳が変わりはしたものの、いずれにしても私はまだ、定時ぴったりに業務を切り上げ帰宅する日々を続けている。
朝、出かける前に冷凍庫から銀のトレイに出しておいた、週末に作り置いておいたビーフシチューが解凍されていることを手触りで確認し、ジップロックから寸胴鍋へと移し、IHクッキングヒーターのスイッチを入れて温める。野菜室からレタスときゅうりを、冷蔵庫からはミニトマトを取り出し、キッチン収納からノンオイルのシーチキンを持ってくる。レタスは千切って洗って水を切り、きゅうりは柵状に切り揃える。切ったきゅうりはまな板の上にそのままにして、サラダの器を食器棚から取り出す。シーチキンの缶詰を爪を利用して開け、汁を洗い場で切ってから、器にレタス、きゅうり、ミニトマト、シーチキンの順に入れていく。
誰もいない食卓に、三人分、丁寧に配膳をする。奥の納戸から、ガタガタとドアを揺らす音がした。気温が下がってきて寒い気もしたけれど、少し迷ってから冷蔵庫の片隅に影を潜めていた麦茶を取り出し、三つの透明なグラスを史跡の地図記号の形に並べて注いだ。暑がりの圭佑はきっと麦茶を飲みたがるだろう。
ビーフシチューが煮立ったのでおたまで器に取り分けているところで、キッチン前の小窓から明かりが差し、佳祐が帰ってきたことが分かる。私はよそったビーフシチューを食卓に手早く並べ、佳祐を裏口へ迎えに行く。
「ただいま」
「おかえり、お疲れ様。ねぇ、愛瑠、今日は少し元気がないみたい。日中暑かったせいかしら?」
受け取った鞄と上着にアルコールをかけてからしまう。圭佑は私とは違い、そこまで菌を家の中に持ち込むことを気にしない。だから、マスクもしていない。私も強制はせず、ただこっそりと除菌をしていく。こうして早く帰ってくれるようになっただけでも、圭佑は以前よりずっと協力的になったのだ。圭佑の上着は長い間腕に掛けられていたのか、妙なシワがついてしまっていた。後でアイロンをかけてやらなければならないな、と思う。
「しかしおかしくないか? もう十二月だぜ。なんだって気温が二十度まで上がったりするんだ。今年は寒い冬になるって言ってたし、ついこの間も雪が舞ってたじゃないか」
さすがに汗をかくほど暑いとは思わなかったけれど、笑って頷く。
「愛瑠も久しぶりに暑くてぐったりしたんだろ。さすがに今日は大人しくご飯を食べるかな」
「着替えて愛瑠も呼んでご飯にする?」
「そうだな、たまには一緒に食卓を囲おう」
いつもここに立つと緊張する。私が一人でいる時にこの納戸を訪れることはまずない。佳祐がドアをノックする。
「愛瑠、起きてるか?」
ドアの向こうからはなんの応答もないけれど、愛瑠が聞いていることは、部屋から漏れる荒い呼吸音から分かる。
「今日は一緒にご飯を食べよう」
佳祐は握っていた鍵で、後から取り付けられたこの部屋の鍵を三つとも外し、ドアノブを握る。微かに開いただけで、部屋向こうからは今日垂れ流されたであろう愛瑠の排泄物の匂いが鼻を付く。食事の前に、まずはこれらの処理をしなくては。
部屋の電気を点けると、終日窓のない納戸で過ごしていた愛瑠は眩しさに顔をしかめ下を向いていた。目はほとんど見えていなくても光は瞼の裏に入り込み、刺激を走らせるのだろう。手で顔を覆えば良いのに、いつまでたってもそのことを愛瑠は学ばない。
佳祐が大股で愛瑠に近づいて、思い切り頬を張った。
「トイレはきちんとおまるにしろと何度言ったら分かるんだ! どうしていつまで経ってもそんな小学生でもできるようなことがおまえにはできないんだ!」
明るくなった部屋を見回すと、佳祐の言うとおり、愛瑠は糞尿をおまるから外してしまっており、シーツが汚れていた。
愛瑠のひーんと泣き出す声がする。満足に歯磨きもしないせいで、口内に歯は一本もない。伸びっぱなしの爪、髪、痩せて浮き出た肋骨と、それなのに妙に丸く膨らんだデビルのようなお腹。
正直、私はもはや愛瑠が排泄に失敗してもなにも感じなくなっていた。それが当たり前だと、すっかり慣れてしまっていた。愛瑠は、うんちやおしっこすら満足にできやしないのだ。だから、怒りすら湧いてこなかった。その程度のことで未だにこうして愛瑠に折檻を繰り返す佳祐の、その愛瑠への期待の高さに感心してしまうほどだった。
おまるの中身はトイレに流し、お風呂場でスポンジでこすって洗う。それからシーツも手洗いする。アンパンマンの描かれたおまるは愛瑠がトイレトレーニングをするために購入してからずっと使用しているので、本来の色が剝げてしまっているだけでなく、その下から覗いている白の部分すら黄ばみ出している。シーツもどうせ汚れるからと買い直したりなど一切しておらず、三枚のローテーションが続いているので、すっかり毛玉だらけな上に、排泄物の色に変色してしまっている。
シャワーの音でほとんど聞こえないものの、愛瑠が泣くのを我慢するために漏らす強くひっかくような息を吸う音が時々するので、佳祐の折檻はまだ終わっていないようだった。あるいは今日も共に食事を摂ることは諦めたのだろうか。
おまるの水分を拭き取って、新しいシーツを手に納戸へ戻る。納戸へ続く廊下の電気がチカチカと揺れた。心なしか以前よりも明かりが弱くなっているようにも感じられる。電球が切れてきているのかも知れない。風呂場からは声が聞こえていたのに、今は静寂と私が鳴らすおまるのプラスチックが滑る摩擦音や床のきしみ音しか耳に入らなくなっていた。開けっ放しになっていたのでそのまま入ると、愛瑠がうつぶせになって倒れていた。
「また思いっきり叩いちゃったの?」
「あんまり言うことを聞かないで奇声を上げ続けるからさ。そこまで強く叩くつもりはなかったんだけど、教育とは言え熱くなりすぎちゃったな」
見れば突っ伏した愛瑠の頭からは僅かにだけれど血が流れ出ていた。
「やり過ぎてしまったら見殺しにするわけにもいかないから救急車とか呼ばなきゃいけなくなるのよ。そうしたら、さすがに不味いことになることは受け合いなんだから、十分に気を付けてよね」
「分かってるよ」
佳祐は愛瑠を抱き起こした。抱えるとどうしても距離が近くなり、体臭が臭うらしく、佳祐はくっせ、と鼻をつまんだ。
学童には通わず直帰するようになって間もなく、愛瑠は小学校も休み始めた。私は定時での退社を申告したばかりだったものの、小学一年生を家に一日中留守番させておくわけにも行かず、そこから一時休職することにした。そこだけが私の、唯一定時退社をしなかった期間だ。それまでも愛瑠の成長の遅さをいぶかしむタイミングは幾度もあったけれど、気のせいだと言い聞かせ目を背け逃げ続けていた。しかし、四六時中生活をともにするようになると、さすがの私も愛瑠の知能が遅れていることを認めざるを得なくなった。いずれできるようになるんだろうな、と言うことが愛瑠はいつまで経ってもできなかった。二文以上を繋げて喋ることも、字を書くことも、紐を解くことも、歯磨きをすることも、着替えをすることすら自分一人ではできなかった。
休ませているのに外に出すのも周りの目もあってはばかられ、一日の多くの時間を家の中で二人きり、対面で面倒を見て過ごしていると朝は遅くなりお昼寝もしてしまってずるずる宵っ張りになり、愛瑠の生活はほとんど昼夜逆転してしまった。一人の時間に付きっきりで世話することに疲れていたので、敢えて日中は寝て夜活動することで佳祐が帰って来るのを待っている節もあった。その方が気が滅入らず、愛瑠に優しく接することができたのだ。
圭佑は朝が早いので、私と圭佑が寝室に入る時間は、愛瑠は納戸で過ごしてもらい、鍵をして外に出られないようにした。昼夜逆転の生活が長く続くと、愛瑠の情緒は不安定になりだし、元々制御が苦手だった感情は頻繁に暴走するようになった。感情が暴走すると、真夜中かどうかに関わらず愛瑠を納戸に閉じ込めておく時間が増えた。
どうにか親らしいことをしようとしても愛瑠は何一つ思い通りにならず、描いていた理想の育児からは遠ざかるばかりで自己嫌悪が激しく私を襲ったし、時には手を上げてしまいそうになった。閉じ込めておくことで、そうした現実から目を逸らすのが一番楽だったのだ。幽閉する時間の長期化による弊害か、それともそもそも学校を休ませることを了承したことで他者との関わりが大きく減少したことが原因なのか、愛瑠はせっかく覚えた数少ない言葉を忘れ、喜怒哀楽の表現は表情と声色のトーンだけで行われるようになっていった。
私はそんな状態の中、いつまでも休んではいられないと、逃げるように職場復帰をした。
いま思えば、休職期間はほんの三ヶ月程度のことだったけれど、その当時はその時間がまるで永遠に続くように思われた。しかし、いざ会社に復帰をしてみれば、愛瑠が妙なことをしでかしてしまうのではないかと、私はどこに居ても不安にかられ、時間に脅迫されているような気持ちで日々を過ごすようになっていた。
愛瑠は座ったり寝てばかりいる時間が増え、その生活のほとんどを真っ暗闇の中で過ごしたせいか、身長も伸び悩み、背筋は曲がり真っ直ぐには立てなくなってしまった。視力検査をしたことはないけれど、いつでも見づらそうに目をしかめたり斜めで物を見たりするようになった。目の行き届かない時間はおむつをさせて居たのだけれど、なぜか本人は十歳になる頃からおむつを嫌がり、脱いで床に捨て、糞尿を垂れ流すようになり、そこから私たちの折檻は始まった。
最初に手を出してしまったのは佳祐ではなく私だった。私が、しつけとして頭を叩いた。すぐに謝った。叩くつもりではなく、これは愛瑠のためなのだと言い訳を口にしながら、私は何度も何度も謝った。けれど、だんだん、叩いても口答えと思われる異様に耳に障る寄生を発したり逆に私に拳を振り上げたりと、愛瑠の態度が改善されないことが増え、最終的に謝りはするものの、愛瑠に手を上げる回数は麻の葉を飛び越える忍者さながら、増加の一途を辿った。ある日その現場を目撃した圭佑は、咎めるのではなく、罰として一回食事を抜いてみるのも良いんじゃない、と提案をしてきた。私は手を上げているところを見られている手前さすがにそれは、とは言いづらく、また、心のどこかで手を上げるよりはずっといいのではないかという思いもあり、その提案に乗った。一度始めたその懲罰は、最高で三日間に及ぶこともあった。初めのうちこそ罪悪感があったけれど、どう考えても愛瑠の側にも否があったし、なによりも食事を抜くことの効果はてきめんで、そうした懲罰の与え方も何度目かには慣れてしまった。お腹が空いたと懇願の姿勢を示す愛瑠を見ると支配欲が満たされ留飲も下がり、その後は愛瑠に優しく接することができた。時には圭佑と一緒になって愛瑠のことを指差して笑いながら、力一杯叩くこともあった。私たちがしつけと呼んだそれは、逆戻りすることはなく、エスカレートし続けた。
「大人しく言うこと聞かないからこういうことになるんだぞ」そう言って佳祐は愛瑠のお腹を思い切り蹴り上げた。愛瑠はうめき声をあげてうずくまり、口角からは泡をこぼした。意識も失っているようだった。
愛瑠の部屋に常備してある消毒液と絆創膏を取り出し、傷の手当てをしてやる。病院には連れていけないけれど、死なれたらそれはそれで困った事態になる。服に血がついているのが目に止まり、それからもう一週間も着替えをさせてやっていなかったことに思い当たった。大人しくなっているこのタイミングで着替えをさせ、ついでに身体も拭いてあげることにする。
「圭佑、愛瑠の着替えと身体を拭くための諸々を取ってくるから、少しの間愛瑠の様子を見ておいてくれるかしら」
「了解。早く済ませてご飯を食べよう」
私は二階にある、本来であれば愛瑠の部屋になる予定だった、今ではすっかり物置と化した部屋のすぐ手前にある棚から愛瑠の着替えを取る。愛瑠の着替えは、下着はそれなりの数あるものの、上に着るものは全部で三セットしかないので迷うことはない。階段を降りるとき、ふと誰かに見られている気がして窓の外を見ると、大きな満月が夜空に浮かんでいた。月明かりは明るく、暗闇は黒ではなく浅葱色をしていた。
階下に下りると、直結しているダイニングにはすぐに背を向け、廊下を玄関とは反対方向に進む。途中分岐する先に風呂場があるのでそこに寄って風呂桶にお湯を注ぎ、タオルを浸す。一度に持てないので着替えは洗面所の脇に置き、納戸へ戻る。
納戸から、また人を叩く音がした。空気の層を変化させてしまうような、大きくはないけれど、重い音。既に気を失っていた相手に、なぜまだ折檻を続ける理由があるのだろうか。只事ではない異変が起きているのだと脳内に警鐘が鳴り響いた。小走りで納戸へと急ぐ。
納戸の中には、荒く肩を上下させながら息をする男が立っていた。その細く丸い背中は小さいながらも殺気立っていた。
まるまった背中、薄い肩。長く伸びた髪は油ぎっており、妙な形で固まり逆だっている。両掌には救急箱をしっかり持っている。痩せた頬、窪んだ眼球。そこに立って倒れている人間を見下ろしているのは、見間違うわけもなく愛瑠だった。床に突っ伏して倒れているのは、佳祐だ。
「なにしてるの!」
愛瑠の肩がびくんと震え、それから私を振り返った。私の側が逆光になっているし、愛瑠の視力だ。おそらく愛瑠には私のシルエットしか見えていないだろう。私は風呂桶を構えた。
「愛瑠、救急箱を置いて。落ち着いて話をしましょう」
愛瑠は首を振った。そうして、次の瞬間、私の方を目掛けて走ってきた。私は咄嗟に風呂桶のお湯を愛瑠に向けて放った。愛瑠は避けなかったけれど、私の力では桶に入ったお湯は全力で投げられず、愛瑠からは外れ、佳祐を含む床にぶち撒けられた。愛瑠は私の脇を抜け、納戸の外へと走り去っていった。目掛けていたのは私ではなくドアで、目的はどうやら逃走することのようだった。
佳祐が右手を動かしおでこを抑えた。不幸中の幸いと言うのか、お湯がかかったことにより目覚めたようだった。
「愛瑠が逃げようとしているの。家の外までは逃げられないと思うけど、とにかく捕まえてくるわね」
玄関のドアには鍵がかかっているし、外部から突然の訪問者などないように毎日きちんとチェーンもしているので、幼稚園児程度の知能しかない愛瑠が外に脱出できる可能性は限りなくゼロに近かったけれど、それでも万が一、ドアを突破して外へ飛び出されてしまえば、我が家の秘密はたちどころにマスコミの餌食となってつまびらかになってしまうことだろう。そうなってしまわないためにも、一刻も早く愛瑠を捕まえなくてはならない。
愛瑠の背中を追う。正面で武器を構えられた時には身がすくんでしまったけれど、鬼ごっこよろしく、追う立場になればそれほど怖いことなどなかった。おまけに相手は日がな暗い部屋で過ごして筋力もなく、視力もないに等しい愛瑠なのだ。
愛瑠はダイニングを抜け、玄関前に到着していたけれど、案の定施錠されたドアに苦戦していた。私はすっかり冷えたビーフシチューの並んだダイニングを抜け、キッチンから包丁を取り出した。それから足音を忍ばせ、チェーンをガチャガチャとまさぐっている愛瑠に気が付かれないように、玄関の脇に置いてある、いつも新聞紙をまとめるために使っている紐を拘束用にと手に取る。
「愛瑠、やめなさい」
両手で持った包丁の刃先を愛瑠に向ける。緊張で声は裏返り、おまけにかすれてしまった。手元に集中しているせいか、愛瑠は私の方を向き直りもしない。ドアの取っ手を乱暴にガチャガチャと動かす音が不規則に鼓膜を叩く。昔から、一度集中すると辺りの声が全く届かないことが度々あった。どうやら今もそのゾーンに入ってしまっているらしかった。
「愛瑠、やめなさい!」大きな声で、発言を繰り返す。
「あぁうぇおぁああ!!」
喉に絡まった痰や唾液を払わないせいで、愛瑠のあげる叫声は濁り澱んでいた。姿は見えているものの、暗闇のせいで全体の輪郭が不透明になっていることが私を不安にさせた。愛瑠が突進してくる妄想に襲われ、私は正面玄関の電気を点けようと壁をまさぐる。
電気を点ける。まるでその隙を狙っていたように、愛瑠が私の身体を突き倒した。私は脆くも崩れ後ろに尻もちを付き、手に持っていた包丁を床に落とした。包丁は回転しながら床を滑っていった。
愛瑠は私が武器を持っていたことで防衛本能が発動してしまったのか、私にのしかかり、顔を殴った。身体が小さく未発達であっても愛瑠はやはり男で、その拳は重かった。愛瑠は両手を繋いで一つの拳のようにして、その拳を私の頬に振り下ろした。
「やめて!」
身体を捻らせ、間一髪で避ける。どうにか跨がられた身体を抜こうとするけれども、身体は言うことを聞いてくれなかった。手を拘束されていると、身体はまったく思う通りに動かない。腰を支点に揺らした上半身で頭が僅かに持ち上がるだけだった。床に付いた足で身体を愛瑠の股下から押し出そうとした試みも失敗に終わった。恐怖で目を瞑る。
「ぐおぉうあぁあぁう!」
身体の上に乗っていた愛瑠が突然奇声を上げて転倒した。状況に頭が追いつかないまま急いで立ち上がりその場から離れる。
愛瑠は土間に転倒し、さっきまでとは立場がまるで逆転し、圭佑にのしかかられていた。跨がった圭佑の手には私が落とした包丁が握られており、土間には鮮血が流れ出ていた。圭佑のものではない。圭佑は確かに怪我を負い額からは流血していたものの、その血はすでに乾き、赤みもどす黒く変色し圭佑自身のおでこにこびりついていた。土間に流れているのは、愛瑠のものだった。私の角度からは見えないけれど、圭佑が愛瑠を刺したので間違いなかった。
血の量は、圭佑の比ではなかった。止めに入らなくては。しかし、殴られた恐怖に身体が委縮し、足がフローリングの上を滑ってしまって咄嗟には立ち上がれなかった。圭佑が大きく右手を振り上げる。包丁の先に付着した血が、玄関の壁に鮮やかな鮮血で紅い三日月を描いた。私はようやく圭介の背後に駆け寄り、振り上げられた手に両腕を絡めたけれど、圭佑はなにかに取り憑かれてしまったのか、私の静止などお構いなしだった。圭佑は私の腕を連れたまま、愛瑠にもう一指し、包丁を突き刺した。包丁が抜かれると、漫画でしかみたことのない量の血が勢いよく噴出した。
噴き上がった血が玄関を、シューズボックスを、コートをかけているクローゼットを、紅に染めていく。その様にようやく我に帰った圭佑の動きが止まった。
「もうやめて」私の言葉に圭佑は素直に応じ、包丁を捨てた。
圭佑の下で血を流し続けている愛瑠は、目は開けたままだったもののもはや抵抗する様子すらなくどこか遠く、ここではない明後日の方を見つめており、すでに事切れて死んでいるのは明白だった。
「片付けよう。綺麗にしよう」私の提案に、圭佑は力なく頷いた。
これまで愛瑠に行ってきた所業も知れることになってしまえば弁解できる余地などなく、隠蔽以外の選択肢は私たちにはあり得なかった。
愛瑠の遺体は海に遺棄することにした。圭佑には相談ではなく決定事項として、愛瑠の足に、さきほど手に取った紐を使って、この家に越してきてすぐ購入した消火器を括り付けて羽毛布団にくるみ、車のトランクに詰め込むことを説明した。まだ死後硬直は始まっておらず、愛瑠の身体はある程度こちらで動かすことができた。腕と膝を強引にたたむと骨の折れる音がしたけれど、このような状況になってしまった今となってはどうでもいいことだった。
玄関一面に飛び散った血糊の処理は大変だった。私たちは異様な集中力のもと、家中にある掃除道具を総動員し、ズボンの膝が白くなるのも厭わずに一心不乱に血痕が見えなくなるまで、見落としがないように目を皿のようにしながらこびりついたそれらを擦り続けた。血は四隅や天井だけでなく、どうしてそんなところにまで、と思わずにはいられないような、家具の裏などにまで飛散していた。しかし、これら愛瑠の体内から出たものさえ抹消できれば、愛瑠の存在を確認するものなど、近年は確定申告しかなかったので、死体の隠蔽さえ上手く行けばこの殺人事件が露呈することはまずないだろうというある種の確信も手伝って、だからこそ私たちは余計に現場の清浄化に神経を尖らせ、念入りに作業にあたった。壁もコンクリートも、擦り過ぎて白くなってしまう箇所がある一方で、一向に落ちないものもあった。ひとまず死体を捨てにいかなくてはならないので、最終的には幾つかの血痕の上には物を置いて誤魔化した。
愛瑠を運ぶ車中、私たちは必要最低限のこと以外はほとんどしゃべらなかった。話すべき適切な内容も思いつかなかったし、これからやるミッションを完璧にこなさなければ自分たちには安眠できる明日は来ないのだという緊張感もあった。それに、それでなくとも私たちはクタクタに疲れ切ってしまっていた。
満月は姿を雲に隠されてしまっており、気温以上に体感温度を下げる、海に向かっている途中で降り出した雨は、たちまち本降りの雪へと変わった。今後のことについて話し合いを始めたのは、羽毛布団から出した愛瑠を海に捨てた、その帰りの道中だった。降りしきる雪はこの辺りの雪にしてはサラサラで、ただその激しさは尋常ではなく、時間の経過よりも早いスピードで景色を白に染め上げていた。融雪装置で溶ける間もなく雪が積み上がっていく。誰にも見つかりたくなくて一秒でも早く家に帰り着きたかったけれど、道路を行き交う全ての車が牛歩の歩みで、私たちもそのスピードに付き合うことを余儀なくされた。車内のカーラジオからは、ラジオDJが彼の私的な思い出話を披露したあと、私たちがまだ大学生だった頃に流行っていた歌を選曲して流した。失恋による世界が終わってしまうほどの絶望を、女性アーティストが甘く切ない声で歌っていた。私の脳内には、愛瑠を放った時の海の練り上げたような黒い照りがこびりついて離れなくなっていた。
「無事に家に帰れたら、そこからはまた今までどおりに暮らしましょうね。愛瑠は変わらずあの部屋に籠もっているの。これまでだって私たち以外の誰とも接点がなかったのよ。今までいた人間が突然姿を消したわけじゃない。難しいことじゃないわ」
ワイパーが往復する僅かな間すらも、白い雪が埋めていく。ないことを隠蔽しようと白を積み立てるけれど、すぐにワイパーが元の姿を暴こうとする。振り払われた虚が、道路に積もっていく。気温の低さも手伝っているのか、雪自体がこの地域にしては水分が少ないからなのか、まるで融雪装置から排出される水を養分にしているかのごとく、雪はみるみる成長し、運転が困難になるほど雪は降り積った。普段なら五分足らずで通過する道のりを前進するのに三十分以上の時間を要した。物心が付いてから、これほど短時間にこんなにもの雪が積もるのを見るのは初めてのことだった。
殺人行為が行われる直前の満月もこの大雪も、全てが不吉に思われた。頭を振る。状況に自分の置かれた環境を重ね過ぎている。月も雪も、人々に平等に起きているただの自然現象に他ならない。
「あんなことをするつもりはなかったんだ。ふいを突かれて襲われて、怒りで我を失ってしまっていたんだ」
「分かってるわ。これまでの積み重ねがあって、今回のことはその結果に過ぎないのよ。遅かれ早かれ限界は来ていたと思う」
「冷静なんだな」
「不思議なのよね。そりゃ、人を殺したら不味いわよ、ましてや自分の子をね。でもね、いつかこんな日が来ることを、心のどこかで望んでいた自分もいるの。殺人を、と言う意味ではなく、この生活にピリオドを打てる日を、と言うことね。だから、あぁ、やっと解放されたって言う気持ちが否めなくて。こんな私を、あなたに母性の欠片もないのかと蔑まされるのが怖くて今まで口にすることはできなかったけれど」
少し前の車がスタックして動けなくなってしまっているのが見えた。助手席から人が降りてきて、トランクから取り出した雪掻き道具で雪を掘り返している。追い越して進んで自分たちもハマってしまうのが怖いのか、直ぐ後ろの車はその様子を傍観しているようだった。
「ちょっと俺、手伝ってくるよ」
降りる直前に胸ポケットをまさぐる様子を見せた。もう随分前に禁煙をしたはずなのに、過度なストレスのせいで煙草を吸いたくなったのだろうか。ドアを閉める音が、車内に重く響いた。
この期に及んで慌ててもどうにもならないので、私はサイドブレーキを踏んで、車内から圭佑が手伝う様子を眺めていた。
どうしてそうなるのか、融雪装置の懸命の働きにより却って道路の足場は悪化しており、非常にスタックしやすくなっているようで、その後その道路を直進していると、恐らくは有志で大雪難民となった人々を助けるためにボランティアをしている定年を過ぎたであろう高齢男性にドアをノックされ、どうしてもと言う勇気がない限り道路を迂回する方が懸命だと促された。これほどまでの大雪になると知っていたわけもないのに嬉々として活動するその姿には賛辞を送りたい気持ちにすらなったけれど、その一方で、このような事態は、私の願いが結果として愛瑠を殺してしまったように、彼らが待ちわび、構えたせいで起こったのではないかと勘繰ってしまう自分も居た。
親切に勧められた道路を進んだものの、あと家まで数メートルというところで、私たちの車も見事に雪にハマってしまった。ほんの少しだけバックをしてからアクセルを踏み直しても、車はバックした分すら前に進めずに、エンジン音だけを高らかに唸らせている。何度アタックしても車はエンジン音をふかすばかりで雪を乗り越えられそうにはなかった。圭佑に降りて雪を掻いてくれないかと言おうと横を見ると、圭佑はフロントミラーを凝視して固まっていた。圭佑の視線の先にあるものを見ようと私もフロントミラーを覗くと、シルバーの軽自動車が後ろに並んでいるのが見えた。当然その姿は認知していたけれど、圭佑のその動きで、なるほどその車がお隣さんのものであることを私は理解した。
シルバーの軽自動車の運転席から見知った顔が降りてきて、ドアをノックした。私は一度唾を飲み込んでから、窓を開ける。開けた窓から雪が車内にこぼれ落ちてきた。
「こんばんは。すこい雪ですね。もしかして、スタックしちゃいました?」
男は中を覗き込むように目を細めている。顔が妙に白く見えるのは雪の反射のせいだろうか。頭にはすでにかなりの量の雪がのっている。
「こんばんは。そうなんです。こんなところですみません、すぐに雪を掻いて発進できるようにしますね」車のギアをパーキングに入れながら答える。
「良かったら手伝いますよ。どうせ私もおたくが進めなければ動けしないですし」
親切心なのだと頭では分かる。分かっているけれど、心拍数が上昇しているのが自分でも感じられる。早く男にここから立ち去って欲しかった。圭佑も緊張しているのか、会話には参加せずに身を潜めている。
「ありがとうございます。……息子も家で待っているので急いでいたんです。助かります」
私は車から降りて、隣人と共に雪を掻いた。さっきはあんなに懸命にスタックした車を助けていた圭佑は、今度は車から一度も出てくることはなかった。マスクをしているせいで息苦しい、と思ったときに、愛瑠がいなくなったのに癖でマスクをしていた自分に気が付いた。けれど先ほど愛瑠に頬を叩かれたときについた傷があったので外すのは躊躇われ、マスクは装着したまま作業を続けた。
なにか会話が発生したときに備えて頭の中で問答集を次々に書き足していたけれど、意に反して、男は黙々と雪掻きに協力してくれた。数度エンジンをかけ、タイヤが動くかどうか確認する際にぽつぽつと会話を交わしたのみで、それ以上の語りかけをしてくることはついぞなかった。タイヤが溝から抜け出し、その場を走り去る時にお礼を告げると、まだ息子さん、家におられたんですね、と一言だけ愛瑠に関する話題の続きが紡がれたけれど、私はただ頭を下げてその場を走り去った。
カーポートからはみ出た部分にもかなりの積雪があり、車を駐車する前に二人で家の前を一通り掻いた。少ない雪であれば融雪装置に雪を放ればすぐに溶けてくれるので家の前に雪山を作るまでもないのだけれと、さすがに今回の雪はそう言うわけにもいかない。ここまでの掃除や運搬で体中の筋肉は悲鳴を上げていたけれど、せめて明日車を出すくらいは困らないようにと作業をこなした。
正直なもので、家に入った途端に身体はずしりと重くなった。冷めたビーフシチューを食べる意欲はわかず、私たちはほんの少しのおつまみとビールを口にした。湯船で芯まで身体を暖めた後、身体の奥底にあるお互いの人間らしさを確かめるために、あるいは目を瞑ると襲ってくる恐怖に抗うために、私たちは前戯のやたらと長い交わりを果たし、それから泥のような眠りに落ちた。
夜中に悪夢で目が覚めると同時に尿意を覚え、トイレに立った。あまりに廊下が冷えており、カーテンを避けて外を覗くと、外は雪の反射で明るかった。これまでに見たことがないほどの雪が積もっており、私は翌朝の出社停止を悟った。自分の家の庭に降り積った雪以上のことは判別できなかったにも関わらず、その情報だけで十分すぎるほどの降雪量だった。
朝、会社からメールが来ており、案の定私の会社は出社停止になった。普段少し多いくらいの雪ではそんなことにはならないので、今回の大雪はやはり特別だ。家の外壁は積み上がった雪で実際よりもずっと高くなっていたし、木々は完全に雪の皮を被ってしまっていた。地面よりだいぶ高くに立っているはずの家の中からでも、雪は私の膝上を越えようとしていた。
圭佑はいつも出かけるくらいの時間に起きてきた。会社は大丈夫、と問いかける私に、圭佑は、君が気にすることじゃないよ、と応えた。
家ではテレビを見て過ごした。大雪のことばかりが放映されていた。テレビを見る限りでは、愛瑠の死亡は世の中に未だ確認されていないようだった。窓の外では、昨晩、愛瑠を遺棄して戻ってくる道中と変わらぬ勢いで雪が降り続いていた。世界が雪に閉ざされていく。
「しばらく出社は難しいかな?」
「そうだね」
出社停止はそれから一週間続き、そのまま年末年始休暇に突入した。
年明けから私は通常の勤務を再開したけれど、圭佑はそのまま会社を辞め、そして、愛瑠の隔離されていた納戸に籠もるようになった。
愛瑠に殴られた私の頬の怪我の腫れはいつまでたっても引かず、私はいつもよりもずっと大きめのマスクをして会社に通った。
圭佑がなにを考えているのかも、四六時中納戸に籠もってなにをしているのかも、私には知る由もなかったし、もはや興味すらも湧かなかったけれど、おかげで私は罪悪感なく、これまでと変わらずに定時に会社を退勤し続けることができた。定時に帰り、食事の支度をし、圭佑にも与えた。圭佑は食べたり食べなかったりしたけれど、極端に心配になるほど食が細くなっていると言うわけでもなさそうだった。圭佑は私のいない時間を見計らって活動をしているようで、顔を合わせることもほとんどなくなった。
愛瑠がいなくなり、圭佑も納戸に隠れてしまったけれど、私はこれまでと全く変わらぬ生活を続けた。朝起きてから寝るまで、愛瑠を隠している頃と同じように、常に演者の気持ちで一日を過ごした。
気温がそれほど低かったわけではないのに、雪ばかりが多い冬だった。例年に比べると割り合い晴れの日が少なかった印象で、それも手伝ってか、たまの晴れの日に見える山々の峰の連なりは神々しく、今まで以上に格別なものに感じられた。せわしなく歩く通勤路の途中、気が向くと撮影をした。
ある日、スタックから助け出してくれた隣人と帰り道に行き交い声をかけられた。その日はたまたまいつもとは異なり、定時退社からの六時半帰宅のルーチンの間に薬局に寄るというミッションをこなしていた。冬も終わりに近付いており、雪が降る回数もめっきり減っていたけれど、その日はほんの少しだけあった降雪に融雪装置が過剰反応して、道路を水浸しにしていた。ぺたんこ靴だった私の足はすっかり濡れてしまっていた。
「こんばんは。あれからも今年は雪が多かったですね。息子ちゃんは何歳になったんですか?」
愛瑠はこの男の娘より二つ年上だった。私の頭には愛瑠のことよりも先に、納戸に閉じ籠もっている圭佑の顔が浮かんだ。若き日の圭佑は、いまの愛瑠よりもずっと若かった。圭佑は、私の方を見つめ、優しいというよりは不適とも思える笑みをたたえながら、煙草をふかし佇んでいた。
「二十六歳です。そう言えば、お嬢さんは二十四歳ですね。今はなにをされているんですか?」
男は右手に封筒を持っていて、これからポストに投函しに行くところに違いなかった。帽子をかぶり、マフラーもしている。どちらも黄色で、帽子の方がやや暗めの色だった。
「うちのは大学で上京したっきりで、あっちで就職もしてしまったんですけど、この春、こっちに戻ってくることになったんですよ。まあ、しばらくはフラフラするみたいで、親としては少し心配なんですけどね」
そう言う言葉とは裏腹に、男の顔には嬉しそうな笑みが溢れていた。たぶん、これが言いたくて話しかけて来たんだろうな、と思う。この男は幸せな家族という、全てが一変してしまうそのずっと前、愛瑠が学校に馴染めなくなった頃にとうに捨ててしまったそれを未だに幻想ではなく地に足の着いた現実として手に入れ続けている。街灯は灯っているもののまだ薄い夕闇、男の家から夕餉の匂いがした。
「戻ってこられるなんて親孝行ですね。大きくなったんでしょうね。愛瑠と一緒に公園で遊んでたのがまるで昨日のことみたい」
簡単な会話のやり取りをして、私は右手に持った白いビニール袋を軽くかかげ、それから会釈をして立ち去った。
ビニール袋の中に入っているのは、妊娠検査薬だ。愛瑠を殺めてしまったその夜に圭佑と交わって以来、生理が来てなかった上に、なんとなく身体全体がバラバラなような違和感のある体調不良が続いており、時には吐き気を覚えることもあったので、おそらく更年期障害だろうとは思いながらも、先ほど寄った薬局で購入してきたのだった。
家の前に着くと自動で玄関前のライトが点灯するけれど、鍵を開けて中に入っても真っ暗で、ただいまと声をかけても圭佑からの返事はなかった。スリッパを履いてリビングへ向かう。
愛瑠がいて、圭佑も普通に社会人生活を送っていた時にはタイマーをセットして使用していた床暖房も、真冬ではあるけれど今は電源を切っていた。自分ひとりのために使うのは勿体なかったし、収入が一馬力になったので、いまは退職金や失業保険があるものの、節約できるところはしたいという気持ちもあった。床暖房を切るだけで、月の請求額は数万円単位で変わる。別に愛瑠がいなくなっても、圭佑が納戸に閉じ籠もろうと、私の知ったことではなかった。日々は淡々とこなすことで成り立ったし、そこに不都合は感じていなかった。ただ、圭佑が働かなくなったことで、家のローンも含め、この家は困窮に貧していた。愛瑠さえ正常になってくれれば、いなくなってくれれば世界はずっと過ごしやすくなり、人生はもっとうまく行くはずだったのに、現実はそんなに簡単な話ではなかった。
トイレに入り、妊娠検査薬に尿をかける。検査結果が出るのを待っていると、トイレにおいた芳香剤の香りを超えて、家のどこからか煙草の匂いがした。あの日、胸ポケットに煙草を探していた圭佑。ずっと隠れて吸っていたのか、あの日を境に喫煙を再開したのか、それともずっと我慢していたのを、今日、なにかのきっかけがあって煙草に手を出してしまったのか。また頭の中に、先ほども浮かんだ若き日の圭介が蘇ってきた。
検査結果は、疑いようもないほど綺麗な陰性で、線は少しも濃くならなかった。妊娠をしてないと分かると正直なもので、安堵感の広がった身体は私に強く深い睡眠を要求してきた。それは、抗いようがないほど屈強な眠気で、頭全体がじんわりと熱を持ち、重くなった。私はどうにかズボンを上げてダイニングにたどり着くと、マスクも外さずにそのまま机に突っ伏して崩れ落ちるように眠りの世界に続く白い靄に飲み込まれていった。
目を覚ました時、私は毛布に包まれていた。身体は寒いのに、顔は痛みを感じるほどに熱かった。頬の傷もうずく。家の中で眠りに落ちたはずだったのに、なぜか屋外にいた。
私の前方には数人の人だかりができており、その先で周りの家より少しだけ濃いクリーム色をした外壁の家が燃えていた。すでに消防車も到着しており、家に向かって放水していたけれど、火が回ってから連絡が入るまでに随分時間があったのだろうか、炎はまだ室内で揺れているのが視認できたし、二階の窓からは黒い煙も線ではなく固まりとなって立ち昇っていた。燃えているのは、私の、私たちの家だった。私のすぐ横にはつい先程立ち話をしたばかりの隣の家の男がいた。男越しに、少しの壁の色が薄い、ほとんど似た外観の男の家が見える。
「奥さん、気が付きましたか? すみません、気付いて急いで飛び込んだんですがダイニングで倒れている奥さんしか見つけられませんでした。もう一度戻ろうとしたところ、駆け付けた消防隊員の方に、かなり火がまわっているので素人では危ないと止められてしまいまして。奥さん、旦那さんや息子さんはどこですか?」
私は焦点が上手く合わせられないままに、納戸、と答えた。納戸。声に出すと頭痛が増し、吐気が襲ってきた。慌てて口元を抑える。何もない足元にチカチカと光が走った。それは私の目の裏で赤から青、緑と色を変えながら明滅を繰り返した。
「納戸? 納戸はどの辺にあるの?」
私はもう喋ることができず、襲い来る吐き気で浮かぶ涙をちぎりながら首を振った。男は私の背中を幾度か擦ったあと、いま消防隊員に伝えてくるから、泣かないで奥さん、そう言い残して人々の間を駆け足で擦り抜けて行った。
顔を上げる。私が守り続けてきた家が燃えている。燃えている私の家を、人々が見上げている。どの顔にも見覚えがあり、似たような家に住み、同年代の子を持つ親たちに違いないのに、愛瑠を隠すように暮らしてきたせいでだれの名前も思い出せない。
ある人の手にあるスマートフォンは、人だかりの頭の上に掲げられている。撮影しているのだ。怒りが込み上げ立ち上がろうとすると目眩がして、一歩進んだだけで躓いてしまった。たぶん、一酸化炭素中毒になりかけていたのだろう。許せない。膝に手を押し付けてもう一度、今度は勢いに任せすぎないように慎重に立ち上がる。
「撮らないで!」撮影している若者の手首を思い切り弾く。スマートフォンは地面に叩きつけられた。群衆の目が一斉に私に向けられる。若者は目を見開いて私になにか言おうとしたけれど、すぐに私があの家の持ち主だと勘付いたのだろう、頬を紅潮させながら舌打ちをしてスマートフォンを拾い上げると、なんなんだよっ、と取り囲む人々に聞こえるように大きめの声量で捨て台詞を残してその場を去っていった。顔に見覚えはなかったけれど、たぶん、この住宅地のどこかの家の子どもなのだろう。
隣家の男が戻ってきた。
「奥さん、奥の部屋から旦那さんが見つかったって。でも意識不明だから救急車で病院に運ぶみたい。もうすぐ来るって」
私はしゃがみ込み、涙を流した。なぜ涙が出るのか、自分でも分からなかった。ただ、悔しさが胸に広がり、そんな仕打ちをした圭佑が許せなかった。おそらく圭佑はわざと、煙草を消さずに床に投げ、家に火を放ったに違いない。私は無理心中を計った圭佑によって殺されかけたのだ。
「奥さん、息子さんはどこ?」
「愛瑠は、海に行っているから」
私が答えると、男の顔に安堵の表情が広がる。この男には、一つの悪気だってありはしないのだ。
「そうか、家の中にはいないんだね、それなら良かった」
間もなく到着した救急車に圭佑は搬送され、私もそれに同乗した。圭佑の容態は深刻とのことで、搬送先の病院は救急隊員の判断で決められることになった。私の具合も尋ねられたけれど、その頃にはすっかり意識もはっきりしてきていて、問題なしと診断された。
病院は最寄りの総合病院で、搬送時間はわずか三分ほどだった。病院に着くと、圭佑は集中治療室に運ばれていった。私はしばらく待合室で待っていたけれど、ただ無為に時間が流れていくことを壁に掛けられた時計の秒針で意識させられるのが嫌で、病院の外に出た。救出された時のままの私は靴を履いておらず、裸足だった。
愛瑠の死が発覚することは時間の問題のように思われた。
私は頭をフル回転させ、最善策を探った。
病院から抜け出し、大通りの交差点を目指す。真夜中の道路はほとんど走る車もなく、見るからに異様な私の姿を見咎める者はだれもいなかった。吐く息は白く、足は寒さで傷んだ。けれど、こうして憐れなヒロインの様相を呈している自分の振る舞いには、悪い気がしなかった。
大通りにぶつかる信号が見えた。信号の斜向かいに目指すべき目的地がある。私は急ぐ気持ちそのままに歩調を早め、マスクを外す。ほんの少しだけ駆け足になる。真っ直ぐに、それから横へ、信号が青に変わるのを待って順に進む。信号を渡り切ると、私から話し掛ける前に、向こうからこちらに尋ねて来てくれた。
「どうしましたか?」
水色の制服に身を包んでいるのは、交番勤務の警察官だった。目の前にある交番から顔を覗かせてくれている。
「家が、家が火事になって」
「火事ですか? どちらのお宅ですか?」
「いえ、火は先ほど消防隊員の方たちが来て消して下さいました」
「そうですか。裸足では寒いでしょう、中に入りますか?」
私はそう言う警察官の誘導を無視して話を続ける。
「夫が、重体で病院に搬送されたんですけど、そこから抜け出してきたんです。あの、どうしてもお巡りさんに言わなくてはいけないことがあって」
「お話は中で聞きますよ。そこでは寒いでしょう、どうぞおかけになってください」
警察官が交番から出てきて私の前に立った。私は寒さで震える声のまま、わざと腫れあがった頬をおさえ、訴えを口にする。
「夫は、息子を殺しました。私は夫に言われるままに、息子の遺体を海に遺棄するのを、手伝ってしまいました。死んだ息子と私は、ずっと、夫に虐待を受けていました」
私の頬に視線を向けた警察官の眉根が上がり、それから交番に戻って取ってきてくれた毛布で肩を包んで、私を交番の中にいざなってくれた。